倫理とは・・・・なーに?人の道?
ペリクレス・・・・アテネの政治家
デイオニソス神
”飲めや 歌えや & 踊って 楽しもう・・・一度の人生ぞ”
より善くあろう
今日一日が人生だ | 人間力 | 足るを知る | 笑顔で生きる |
一日十善 | 上善は水の如し | 自他一如 | 努力は裏切らない |
人の悪を言わず | 改革に取り組む | 温故知新 | 家庭の大切さを見直す |
笑顔で全力尽くす | より善くあろう | 家庭愛和 |
倫風宏話 あの日に思うこと 上廣榮治 あの東日本大震災と福島の原発事故から二年が経とうとしています。おそらく、それを報じる新聞やテレビではまた、「天災は忘れた頃にやってくる」というあの言葉が、たくさん使われることでしょう。この有名な警句を最初に言い出したのは、大正から昭和の初めにかけて活躍した物理学者で随筆家でもあった寺田寅彦だといわれています。夏目漱石の『吾輩は猫である』に登場する水島寒月先生のモデルになった人だそうです。 彼はあるエッセイの中で、文明が進めば進むほど天災による被害の程度も大きくなるといい、人災である「戦争は是非とも避けようと思えば人間の力で避けられなくはないであろうが、天災ばかりは科学の力でもその襲来を中止させる訳にはいかない」。だから、最後通牒もなく突然攻撃してくる天災のことを忘れずに、ふだんから備えておかなければならないと警告しています。 人災は避けなければならず、天災は備えなければならないのです。 二年前の大震災は、その天災と人災が一緒に来たようなものでした。今後どれほどの影響を残すか予想すらできない原発事故を経験しながら、いまだに安全神話を振り撒いている専門家がいます。 それにすがろうとしている人たちもいます。「忘れた頃」というには早すぎます。寺田博士が生きてしたら「人間というのは懲りないものだねえ」と、さぞかし嘆息されることでしょう。 すぐれた随筆を多く残した寺田寅彦ですが、その中に、「科学者とあたま」という面白いエッセィがあります。一言でいえば、どんなタィプの人間が科学者に適しているかを述べたものです。八十年も前に書力れたものですが、大震災と原発事故を経験したいま、一読に値する内容です。 エッセイの冒頭で博士は、科学者になるには「頭がよくなくてはいけない」が、またその一方で「頭が悪くなくてはいけない」と述べています。ふつう、頭がよくなければ科学者にはなれないと、誰もが思っています。 ところが彼は、科学者は頭の悪さも大切だというのです。そして、頭のいい人の欠点と頭が悪い人の利点を次々に挙げていきます。 頭のいい人は「足の速い旅人」に似ていて、人より早く誰も行ったことのないところへ行き着くことができます。そのかわり、途中の道端や脇道にある肝心なものを見落とす恐れもあります。しかし、頭の悪い人は「足の遅い旅人」のようにのろのろと歩きながら、頭のいい人が見落とした大事な宝物を拾っていく場合があるというのです。 なんだか「イソップ物語」のウサギとカメの話に似ています。また、頭のいい人は富士山のすそ野まで来て、そこから頂上を眺めただけで富士のすべてがわかったつもりになって、山へ登らず引き返しまうかもしれません。やはり、富士山は登ってみなければわからないのに、です。 あるいは、頭のいい人は見通しがきくだけに、あらゆる道筋の前途の難関が見渡されて、諦めてしまいがちです。ところが、頭の悪い人は前途の見通しがきかないぶん楽観的ですから、難関にも挑戦して、なんとかそれをそれを切り抜けていく。 なぜなら、乗り越えられない難関など稀であるからだ、というのです。のろのろ歩くカメの方に、最後は軍配が上がるというわけです。肝心なのは頭のよし悪しよりも、地道な努力こそが大切なのです。 寺田寅彦は、科学者の資質として「頭のよさ」と「頭の悪さ」がともに必要だとしながらも、どうやら彼は、頭の悪い人に好感をもっているようです。そこが科学者ではない私たちにも、このエッセイが身近なものに感じられる理由なのかもしれません。 「科学者とあたま」を「実践者とあたま」に置き換えれば、理屈で倫理がわかったと思う人と、愚直に実践を貫く人の違いのようにも読み取れます。 さらに寺田寅彦は、頭のいい人と悪い人の自然との付き合い方の違いについても、とても印象深いことを書いています。頭のいい人は頭の力を過信するあまり、自然の現象が自分の頭で考えたことと一致しないと、自然の無限の奥行きを忘れて、「自然のほうが間違っている」とさえ考えてしまいがちです。 これでは自然科学は「自然の科学」ではなくなってしまいます。しかし、頭の悪い人は、頭のいい人が駄目に決まっていると考えて決して手を出さない試みにも一生懸命に取り組んで、駄目でない糸口をつかむことが少なくありません。「自然は書卓の前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然のまん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の扉を開いて見せる」からだというのです。 そして、人問の頭の力の限界を自覚して、謙虚に大自然の教えを乞う覚悟があってこそ、はじめて科学者になれるのだと博士は諭します。 「頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである」とも言っています。 あなたはノーベル賞のメダルを写真などでご覧になったことがあるでしょうか。賞によってデザインは異なりますが、化学賞と物理学賞は同じです。 表はノーベルの肖像で、裏には二人の女神像が描かれています。中央に描かれている女神は「自然(ナツーラ)」神で、右側に描かれた「科学(スキエンティア)」の女神が、ナツーラのべールをめくって顔をのぞいている構図です。 かつてノーベル物理学賞を受賞し朝永振一郎博士は「科学と文明」と題する講演で、このメダルについて、「うっかり女性のベールをめくったりすれば、たいへん失礼だって叱られるのと同ように、科学が自 然に対してしていることは、ある意味で自然に対する冒涜ともいえる」と言っています。 それでも科学は、自然のベールをめくることを止めないでしょう。しかし、どこまでが冒涜にあたるのか、どこまでは冒涜にあたらないかというのは、大きな課題になると思います。 朝永さんが言う「冒涜」は、物理学が原子爆弾を作ってしまったことが想定されていたのです。原子爆弾や原子力発電がそれまでの科学的な発明品と異なるのは、それらが頭の中で、純粋に物理学の理論から作り出された自然界にはないものだというとです。 先ほどの寺田寅彦の文句を借用すれば、「書卓の前で手をつかねて空中に絵を描く」ようにして、頭のいい科学者の頭脳からのみ導き出された技術です。それらは自然と対立し続けて、最後は自然を深く傷つけてしまいました。 私たちは常に「大自然の摂理」によって生かされていることを確かめながら、自然を恋人として「共生」する道を歩んでいきたいと思います。そのためには、自然の一部にすぎない人間に許された「限界」についても、自覚しなければなりません。限界を無視して作られた装置がひとたび暴走を始めたとき、人間にはコントロールできないという恐ろしさを私たちは経験したばかりです。二年前の天災と同じように、あの人災もまた忘れ去られてはならないのです。 情報源*実践倫理宏正会会報・倫風四月号から転載 |