努力はあなたを裏切らない
上廣榮治(うえひろえいじ)   倫風5月号から

あちこちで桜が花開く季節がくると、多くの方からお手紙をいただきます。「希望の学校に進学して充実した日々を送っています」とか、「新入社員でまだわからないことばかりですが、与えられた仕事を精一杯やっていきます」などという便りです。なかには、親御さんから「子どもの努力が報われました」という嬉しい報告が寄せられることもあります。どの手紙も、文面の文字が心なしか躍っているように見え、今の喜びや将来への希望であふれた胸の高鳴りが伝わってくるようです。

そんな便りに接すると、「若さっていいなあ」と思うと同時に、若かった昔の自分の稚拙(ちせつ)さが懐かしく思い出されて、若い皆さん一人ひとりと直接会って、「辛いこともあるだろうが、初心を忘れずに頑張ってください」と、工ールを送りたくなります。

その一方で、ふと、なかには希望の学校に入れなかった受験生や就職できずにいる方々もいるだろうと、失意のうちにあるかもしれない人たちのことが気になったりもするのです。

進学や就職などの試験には、必ず明と暗がつきものです。すべての人が合格するというわけにはいきません。あんなに頑張ったのに、「努力が報われなかった」と嘆く声が聞こえてくるようです。しかし、望みが叶わなかったからといって、努力が無駄であったということにはなりません。

「無駄な努力」など一つもないからです。たとえ望みどおりにならなかったとしても、努力したこと、そのこと自体は自分のなかに残ります。努力は単に何事かを成し遂げるための手段であるだけではないのです。

皆さんがこの宏話を読まれる頃は、春の選抜高校野球大会の真っ最中だと思います。全国4000校すべての高校球児が甲子園を目指して日々トレーニングに励んできたのです。そして、そのなかから選抜された三十六校の野球部員は、この日のために全員が汗だらけ泥まみれになって、来る日も来る日も練習に励んできたことでしょう。

一人ひとりが、「優勝」という二文字を目標に、歯を食いしばって万全の準備を重ねてきたはずです。それでも、優勝することができるのは、三十六校中、全試合を勝ち抜いた、たった一校でしかありません。それは4000校中の一校でもあります。もし、甲子園で優勝するためだけに努力してきたというのであれば、膨大な数の高校球児の努力はすべて無駄だったということになってしまいます。

「結果だけに価値がある」という考え方で思い出されるのが、バブル崩壊後に多くの企業が取り入れたアメリカ流の成果主義です。それは従来の年功序列や家族主義などとは対極にある考え方で、目前の利益に直接結びつく成果だけを評価するという経営の手法です。

たとえば営業職なら、売上の目標値を決めて社員を競わせ、成績のよい社員だけを評価するのです。いくら努力をしても、目標値に達しなけば、評価を得ることはできません。努力は成果を得てこそ意味があり、成果を出せなかった努力は「無駄な努力」でしかありません。

しかし現実には、いくら努力しても目標値を達成できないこともあります。その人の適性や運不運も絡んでくるからです。それでも成果が出るまで努力し続けなければなりません。周りはみんなライバルで、競争に敗れればリストラされるかもしれないからです。

成果主義の結果がどうなったかは、皆さんご存じのとおりです。疲労が蓄積し、あせりと無力感から欝を患う人が増えました。社内から愛和が消えて、愛社精神もなくなりました。利益第一主義は社会からの信頼もなくしていきました。こうして、長くて暗い不況のトンネルが続いたのです。

「燃えつき症候群」という言葉が流行ったことがあります。たとえば超難関校を目指して頑張って、合格したとたんに虚脱感に襲われて、何もする気がしなくなるという心の症状です。彼にとっては合格するという結果だけがすべてだったからです。

明らかに、
「結果がすべて」という考え方は間違っているのです。もちろん結果も大切ですが、努力したというそのことだけで、十分にひとつのことを成し遂げたのだといえると、私は思います。

たとえ希望の学校に合格できなくても、望む就職ができなくても、甲子園で優勝することができなくても、売上目標が達成できなくても、それが精一杯の努力をした結果なら、あなたは善くやった、善く頑張ったのだと、その努力を高く評価したいと、私は思います。

確かに努力は、目標を達成する手段の一つではありますが、決してそれだけではないのです。努力それ自体に価値があるのです。むしろ、努力したか、しなかったかが問題なのです。

春の大会でもお話しているように、幸田露伴は努力について次のような言葉で結んでいます。「努力は即ち生活の充実である。努力は即ち各人自己の発展である。努力は即ち生の意義である」と。

「生活を充実」させ、「自己を発展」させ、「生を意義あるもの」にするためにこそ、私たちは日々の努力を重ねるのです。そうした日々の努力は必ず実を結ぶときがくることを、私たちは経験的に知っています。

いつ、どこで、どのように報われるのか、それはわかりませんが努力によって能力を高め、人としての器を大きくし、人間的な成長を育んできたことが、善い結果をもたらすに違いないのです。

社会に出て役立った知識が、かつて受験勉強で学んだ知識であったり、ここぞというときに頑張り続けることのできる体力や気力が、高校野球の厳しい練習で培われたものであったりするのは、よくあることです。

自分の身に積んだ努力は、いつかどこかで生きてくる。それが露伴の説いた「努力の堆積」の効用なのです。

それは実践についてもいえることです。私たちは、「我も人もの仕合わせ」を実現する社会を創るという壮大な理想に向かって、日々の実践を重ねています。しかし、一つ一つの実践の局面をとってみれば、ある目標に向かって実践努力したけれどなかなか結果が出ないということはあるでしょう。

では、その実践は無駄だったかといえば、もちろん違います実践を地道に積み重ねていくことで、自分のなかに実践力が培われ、それがいつかどこかで役立つときが必ずくるはずです。そして何よりも、私たちは「我も人ものために」実践すること、そのこと自体が仕合わせであり、喜びであるのです。

露伴先生の言葉を借りて「努力」を「実践」に置き換えてみれば、「実践は即ち生活の充実である。実践は即ち各人自己の発展である。実践は即ち生の意義である」ということになります。実践することも努力することも、自分の人生に仕合わせの種を蒔いているようなものなのです。

たとえ今回は、望ましい結果が得られなかったとしても、失敗を成功の母にすればよいのです。禍を転じて福となすべくさらに努力を重ねるだけのことです。幸い望んだ結果が得られた人も、また新たな目標に向かって努力しましょう。
努力は決してあなたを裏切ることはないのです。