一日十善 上廣榮治(うえひろえいじ) 七年後の二〇二〇年、五十六年ぶりにオリンピックとパラリンピックの東京開催が決まりました。今回の東京開催決定は、前回の落選の経験を生かし、招致委員全員がチームジャパンに力を結集して引き寄せた結果でしょう。とりわけ、最後のプレゼンテーションで見せた若い人たちのスピーチは素晴らしいものでした。これまで自己表現が苦手でプレゼン力がないといわれてきた日本人とは思えないほど、それぞれの個性に合ったスタイルで、自由に堂々と表情豊かに日本開催を訴えました。 この若者たちの爽やかなプレゼンが10Cの委員たちの心を動かし、「東京」の二文字を引き寄せたに違いありません。彼らに共通していたものは、自然で、動じない心です。それこそが、緊張を強いられる本番で最高のパフォーマンスを発揮できた理由でしょう。動じない心が「好運」をもたらしたのです。 「オリンピック」と「運」という言葉で思い出すのが、一九七二年の西ドイツ・ミュンヘン大会の1〇〇メートル平泳ぎで、金メダルに輝いた田口信教(のぶたか)さんです。 講演で、田口さんは次のように語っています。「オリンピックのファイナリストになれば、誰が金メダルをとっても不思議ではない。実力に差がないからです。しかし、金メダルをとる人は、いつも金メダルなのです。実力差がないのに結果がそうなるのは、実力以外の何かが、そうさせていると思う。それは"運"だと思うのです」 外国に憧れていた田口さんは、水泳で強くなれば外国へ行けると思い、水泳を始めたのだそうです。中学、高校とよき指導者に恵まれた田口さんは、高校二年生でオリンピック・メキシコ大会に初出場を果たします。しかし、準決勝で世界記録を上回る記録を出しながら、泳法違反で失格となります。 田口さんは、このときの悔しさを胸に、大学に進学してから新たな泳法を開発します。そして大学三年生のとき、ミュンヘン大会の1〇〇メートル平泳ぎに出場し、世界新記録を出して金メダルを獲得、二〇〇メートル平泳ぎでも銅メダルに輝きます。さらに四年後のカナダ・モントリオール大会では、泳ぎ方を進化させて記録を更新したものの、残念ながら決勝には進めませんでした。それでも、メキシコ、ミュンヘン、モントリオールと、オリンピック三回連続出場という偉業を成し遂げたのです。 そこに至るまでの田口さんが大事にしたのは、猛練習のほかに「運」でした。当時、平泳ぎのスピードは一秒間にニメートル弱。勝負は百分の一秒差で決まるとして、ニメートルの百分の一はニセンチです。わずかニセンチの差で金メダルと銀メダルに分かれるのです。このニセンチの差、金メダルと銀メダルの違いについて、田口さんは天と地ほどの違いがあると語っています。 「たとえば、日本で一番高い山はと聞けば、誰でも富士山と答えられます。では二番目に高い山はと聞いて答えられますか?また、世界で一番高い山はエベレストですが、二番目に高い山を知っていますか?このように一番と二番は、まったく違うのです」そして、一番と二番を分けるものは「運」だと田口さんは考えたのです。四年に一度のチャンスに、どうしたら金メダルを確実に自分のものにできるか、田口さんは真剣に考えました。 毎日の練習の厳しさでは、世界の誰にも負けていない自信があります。何より記録がそれを裏づけていました。しかし、このわずかニセンチを確実なものにする「運」を手にするにはどうすればよいのでしょうか。 田口さんは、ある日、高校時代の水泳部の監督に言われた言葉を思い出します。「行ないが悪いと運はつかない」「運は自ら作るものだ」という教えです。そこで善い行ないをするために、寮の自室に一日一善」と書いて貼り出したそうです。しかし、この標語を見たコーチは、一善で金メダルがとれるなら簡単だ」と言いながら、一善の一の字に縦棒を一本加えて、「十善」にしてしまいます。 この「十善」について、田口さんは、「人に知られないように」十の善い行ないをするという意味に捉えます。なぜなら、人に知られれば、褒められたり、お礼を言われたりします。そうすれば、善い行ないも、その報いを得たことで完結し、帳消しになってしまいます。人に知られずに善を行なってこそ、善行が「運」として蓄えられ、やがて、持てる力以上のものを引き出してくれると考えたのです。 「陰徳(いんとく)あれば必ず陽報(ようほう)あり」ということわざがあります。田口さんが考えたのは、まさにこれです。「陰徳」とは、人知れず行なう善のことです。「陽報」とは、はっきりとした報いです。陰徳を積めば好運に恵まれるという意味です。 田口さんによれば、人に知られず十の善行をするのは大変だったそうです。常識的に考えると、スポーツ選手がいくら善い行ないをしたからといって、それが必ずしもよい記録やよい結果につながるとは思えません。しかし、彼はそう信じたのです。 いかにしたら勝てるか。田口さんの追究は泳ぎの技術だけにとどまらず、競技のルールの研究にまで及びました。あらゆる競技にルールはつきものです。しかし、どれだけのアスリートがそれぞれの競技のルールを熟知しているでしょうか。でも田口さんは、水泳のルールブックにも、細かく目を通しました。そこから誕生したのが、当時、世界一速いスタートといわれた「ロケットスタート」だったのです。 「世界一速くスタートをする方法は、ルールブックに書いてある」と、のちに田口さんは語っています。「スターターは、全員の準備が整ったと判断したら、スタートの合図をする」とルールブックには記載されている。だから、自分がいちばん最後に構えれば、スターターは自分に合わせてスタートの合図をする。先に構えている自分以外の選手たちは、スタート音を聞いてから反応するけれど、自分はスタート音を聞かずに、構えたらすぐ飛び込めばいいのだから速いに決まっている」と。 このように田口さんは、ただ「運」の力に頼ったのではなく、級密な計算にのっとって人事を尽くしたうえで、自らの手で「運」をつかみ取ろうと「陰徳」を積み、ついに好運をつかんだのです。 ここまで読まれた皆さんは、倫理の実践に似ていると感じられたのではないでしょうか。たしかに、「利他」の実践は人が見ていようと見ていまいと行なう実践です。「上機嫌」の実践は周囲を明るくしますから、自ずと善い結果が付いてきます。「喜働」をはじめ「朝の誓」のすべての実践も「陰徳」を積むことであり、それが「陽報」をもたらすことは、私たちもしばしば経験するところです。 では、実践倫理と「陰徳あれば必ず陽報あり」という考え方とは同じであるかというと、少し違うように思います。実践倫理は、田口さんのように「陽報」を求めて「陰徳」を積むのではありません。「陰徳あれば必ず陽報あり」には、「陽報」という見返りを求めて、善をなしている節が見え隠れします。 一方、私たちは自分の損得利害に関わりなく、人としてあるべき道を進むだけです。「利他」を行なうこと自体が楽しく、人の喜びがそのまま自分の仕合わせになっているのです。倫理を実践する、そのことが私たちの人生を意義あるものとしているのです。 その結果、さらなる「陽報」があるとすれば、それはおまけのご褒美なのです。それにしても、田口さんの一日十善」は大いに見習うべきだと思います。 |