ていく人を何人も見てきた。多くの子供たちは、本来なら最も信頼する親との絆を断ち切られた傷を受けて収容される。「愛されたい」という欲求は「愛されなかった」という結果の 裏返しなのだ。嘘や虚言、自傷を抑えることは難しい。 そのすべてを公表し、そこから見えてくる問題に取り組むことができればいい。だが、そこにはプライバシーや人権が立ちはだかる。症例ひとつ発表できず、発表すれば、「それは誰で、なぜ発表するのか」「個人の尊厳に関わることは許されない」と騒ぐ人がいるから、なかなか真実と実態を把握することができないのだ。 それが虐待している実の親であっては何をかいわんや、である。ここにもモンスターペアレンツがいる。そんな親にかぎって全ての責任を社会に転嫁し、自分の責任を回避していることが多い。 虐待がもはや個人や施設の力だけで解決できないのは"はっきりしている。世相も家庭も教育も生活のありようも情報もすっかり変わってしまった今、虐待の加害者も被害者も同じく、人間性を見失い、心が壊れてしまっているのかもしれない。 ではどうすればいいのか。まずは家庭という「根」を女性たちが今一度見直すことだ。女性が「命」に目を向ければ、それを育む家庭における母親の役目の重要性も見えてくる。教育現場でも虐待防止は家庭一「根」見直しから形式ばかりでなく本当の意味での「命」に目を向けてほしい。 生まれたことを怨む人間が育てば、ゆがんだ「命」が放たれてしまう。セックスはおおらかに表現されているのに、命を愛(いと)おしむ賛歌の声は届かないままだ。性虐待が増加する一因はそこにあるような気がしてならない。 日本人がよき伝統として守ってきた「家」という柔らかで、優しいシステムが崩壊し、機能を失いつつあるならば、社会や法が徹底的に子供を守ることをもっと明確にすべき必要があるかもしれない。虐待されたり、親に殺されたりするよりもずっといい。 生まれてきた命…。どんなことがあっても生き抜いてほしい。決して虐待させたり、死なせてはならない。 |