上善(じょうぜん)は水の如し 上廣榮治(うえひろえいじ) 知人の娘さんと話をしていると、NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」のことが話題になりました。大フアンなのだといいます。「あなたも、歴女(れきじょ)なの」と聞けば、「いえいえ、岡田クンがカッコよくて」……。 どうやら主役の黒田官兵衛よりも、彼を演じる岡田准一(おかだじゅんいち)さんのほうに関心があるようでした。 黒田官兵衛は四十四歳で息子の長政に家督を譲り、のちに出家して「如水=じょすい」と号するようになります。とても爽やかな名前です。なぜこのような号を名乗ったのか、司馬遼太郎さんの「播磨灘物語」によれば、「身は褒貶毀誉(ほうへんきよ)の間に在りと雛(いえど)も心は水の如く清し」とか、「水は方円の器に随(したが)う」という故事成句から採ったのではないかといいます。 前者は、「人からどのように褒(ほ)められたり、貶されたりしても、そのようなことに惑わされることなく、心はいつも水のように清らかである」という意味です。後者の「水は方円の器に随う」は、水は四角い器に入れれば四角い形になり、丸い器に入れれば丸い形になるところから、人は交友や環境によって善くも悪くもなるという意味です。 あるいは、君主を器とすれば、民は水のようなもので、器が四角なら水も四角になり、器が丸ければ水もまた丸くなるところから、社会が善くなるのも悪くなるのも、君主の政治次第であるという意味にも解釈されます。 司馬さんの説に何かを加えるのもおこがましいのですが、私は「如水」という号から、むしろ別の言葉を思い浮かべます。それは、『老子』の「上善は水の如し」という言葉です。 日本酒が好きな方は、これと同じ銘柄のお酒があることを思い出されるかもしれません。「上善」とは最上の善であり、最も理想的な生き方のことです。つまり、水のような生き方こそ、理想の生き方であるという意味です。なぜ水の如くに生きることが理想の生き方なのでしょうか。 「上善は水の如し」に続けて『老子』は書いています。「水は善く万物を利して而(しか)も争わず、衆人の悪(にく)むところにおる。故に道にちかし」(水はあらゆるものに恵みを与えながら、争うことがなく、誰もが嫌う低いところへ自然に流れて、そこにおさまる。だから、人の道にかなっている)とあります。 たしかに、水は大地を潤(うるお)して草木を養い、喉(のど)の渇きも癒やしてくれます。そのように私たちにさまざまな恩恵を与えてくれる水ですが、それでいて我を張らず、他と争うことがなく、人の嫌がることも謙虚に行ないます。それこそ理想の生き方だというのです。 各界のリーダーにお会いするたびに、いつも感じることは、真にすぐれたリーダーは自分の能力や地位を誇らず、けっして偉ぶるところがないということです。逆に、ことあるごとに自慢し、「私の能力や努力が今の成功を導いた」などと言う人にかぎって、あまり人望がありません。それは、常に自分が相手より上位にいると思い、振る舞うからです。 自らを水の如く低きに位置づけ、感謝の心で働く人こそが、真に魅力的で人望があることは、皆さんもしばしば実感されるところでしょう。私たちが毎朝唱和する「朝の誓」には、「人の悪をいわず己の善を語りません」という一か条があり か ます。これも「上善は水の如し」の精神に通じます。「人の悪」をいい、「己の善」を声高に語る人に共通するものは、白己中心的で利己的な姿勢です。世界の中心に存在するのはいつも自分で、そのまわりを星座のように多くの他者が囲んでいるという構図が、彼の頭の中にできあがっているのです。 しかし、自らが世界の中心にいると思い込んでいる人も、白分一人では何事もできなかったはずです。たとえば、生まれてすぐの赤ん坊を想像してみればわかります。赤ん坊は母親の存在なしには、一日たりとも生きていくことはできません。 他の動物たちに比べて未熟な状態で生まれてくる人間の赤ちゃんは、とりわけ長い間、周囲の人の保護を必要とするのです。もちろん、その後の人生においても事情は同じです。社会的な存在である人間は、親の恩をはじめ、さまざまな他者の恩を受けなければ、生きてこられる はずがなかったのです。 私がこれまで出会った尊敬すべき人たちはみな、その恩に対する感謝の気持ちを強く持っていました。彼らは、白分だけの力で生きているとは思わないが故に、自らの才能や地位を誇ることがありません。少しでも世のため人のためになろうと、真塾(しんし)な努力を続けてきた人たちでした。そうした生き方からすれば、「己の善」や「人の悪」など語るに足りない小さなものに思えるはずです。 「人の悪」をいわないことは、一切の争いを避けることでもあります。それは、個人対個人の問題にかぎらず、国と国との関係にもいえることです。このようにいうと、腰の引けた「弱い」姿勢だと思われるかもしれません。しかし、自分に自信のない弱い人ほど、「人の悪」をいい、「己の善」を公言するものです。自信がないから、言葉で我が身を飾り立てようとするのです。 一見、軟弱そうに見える水ですが、そうではないと老子はいいます。「世の中でいちばん柔らかな水こそが、実は世の中でいちばん堅い金石(きんせき)をも思いのままに動かすことができる。水のように定形をもたないものは、どんな小さな隙間にも自由に忍び込むことができる」として、水のようにしなやかで、形にとらわれない生き方こそが実は最も強い生き方だというのです。 私たちも、水のように形にとらわれない柔らかな心を持ちたいものです。自然や人の恩に感謝しつつ、世のため人のために喜んで進んではたらく。そうした柔らかで争うことのない心こそが、ほんとうの強い心であることを胸に刻んでおきましょう。 話を黒田如水に戻します。「如水」の由来を調べていて、黒田官兵衛の盟友で、息子長政の命の恩人、竹中半兵衛の戒名が「深龍水徹」であることを知りました。「深龍」とは、深く隠れている英雄というほどの意味、「水徹」は水の流れに徹するということでしょう。号を「如水」と名乗った官兵衛の胸中には、この竹中半兵衛の戒名の「水徹」があったのではないでしょうか。 「水徹」になぞらえて「如水」とすることで、半兵衛の恩義を忘れまいとしたのではないかと思うのです。 「水の如く生きる」、そのことを思うたびに、私は宮沢賢治の『雨ニモマケズ』を連想します。「……慾ハナク決シテ瞋(いか)ラズイツモシヅカニワラッテヰル……ミンナニデクノボートヨバレホメラレモセズクニモサレズサウイフモノニワタシハナリタイ」という詩句から伝わってくるものは、他人の評価など気にせず、淡々と水のように清廉(せいれん)に生きていこうという賢治の決意です。 結局、「水の如く生きる」とは、「大自然の摂理とともに生きる」ということなのだと思います。 |