随所に主となって改革に取り組もう
                                上廣榮治(うえひろえいじ)
 ある壮年の会友がこんな体験を話してくれました。自分は仕事でパソコンを使うことが多いのですが、あるとき、駅の階段で駆け降りてくる若者と接触して転落し、利き腕の右手を複雑骨折してしまいました。当然、ギプスをした右手は使えません。しかし、仕事を休むわけにはいきません。やむなく左手の指だけでたどたどしくキーボードを操作して、なんとか仕事に励みました。

 それから二か月、右手が完治して両手の指が自由に使えるようになったとき、驚くべき変化が起こっていました。それまであまり得意でなかったキーボードの操作が、実に軽々とできるようになっていたのです。当然、仕事の能率も格段に上がった、というのです。

 典型的な右利きだった彼の欠点は、左右の手の動きのバランスの悪さにあったのです。それが右手の故障によって期せずして左手の特訓をすることになり、その結果、左右の指の動きのバランスがよくなって、苦手としていたキーボードの操作も自在にこなせるようになったのです。まさに、禍(わざわい)を転じて福となしたのでした。

 この話を聞いて、東日本大震災後に新聞に掲載された鷲田清一(わしだきよかず)さんのコメントを思い出しました。鷲田さんは大阪大学の教授や総長を歴任された哲学者で倫理学者でもあります。その話とはおよそ次のようなものでした。

 どんなに優秀なリーダーでも、すべての問題の責任など背負いきれるものではない。ましてこのような大災害に当たっては、市民がそれぞれの場で、できることを自発的に行なうことが大切である。それが市民社会というものだ。リーダーに任せきるのではなく、ときには「ここが手薄だ」とか、「ちょっと行き過ぎだ」とアドバイスをする。いざとなれば自分が出て行く。それが「フォロワーシップ」というものだ。

 これからは、リーダーシップよりも、そうしたフォロワーシップこそが大切だ、というのです。そして、震災の二週間後に行なわれた大学の卒業式の式辞で、鷲田さんは民族学者の梅悼忠夫(うめさおただお)さんの言葉を引用します。「請(こ)われれば一差(ひとさ)し舞える人物になれ」と。

 ふだんは後ろに下がっているけれど、いざ頼まれたら「人差し舞える」人間になれというのです。いざとなれば、その場のリーダーシップも取れる人がフォロワーシップのある人だということでしょう。いつもは右手の脇役にすぎないが、右手が故障したときには、右手に代われる左手のような存在です。

 「フォロワー」とは「ついて行く人」という意味です。市長に対しては市民、上司に対しては部下、監督に対しては選手がフォロワーです。そのフォロワーとしての気構えが「フォロワーシップ」です。リーダーにただ従うのではなく、「自発的に」自分の役割を果たすことで、全体に貢献しようとする積極的な精神のことです。つまり、「随所に主となる」のがフォロワーシップのある人です。

 人はしばしばリーダーに強力なリーダーシップを求めます。しかし、どんなにすぐれたリーダーでも、一人の力には限度があります。アメリカのオバマ大統領はたぐいまれな弁舌の持ち主ですが、自発的に彼を支え、ときには批判することも辞さない真のフォロワーたちがいたからこそ、大統領になれたのだし、世界のリーダーとして活躍できるのです。

 何年か前、三十二歳の若さで早稲田大学ラグビー部の監督に就任し、二年連続でチームを優勝へと導いた中竹竜二(なかたけりゆうじ)監督は、自らを「日本一オーラのない監督」だと言いました。彼が理想としたのは、「リーダー(監督)主導ではなく、フォロワー(選手たち)が自主的に考えるチーム」だったのです。

 選手みんながそれぞれの部署で、リーダーと同じように考え行動するチームづくりを目指したのです。

 運動部にかぎらず、すべての組織にはリーダーとフォロワーがいます。そして、その組織の優劣を決めるのはリーダーの力が二割で、フォロワーの力が八割だとよくいわれます。リーダーの力量や熱意が大切であることはもちろんですが、最後はフォロワーの質こそが組織の力を決めるのです。フォロワーが自主性を失って指示待ち人間ばかりになったとき、その組織は沈滞し衰微していくほかはないのです。

 勢いのよかったベンチャー企業が、大きくなるにしたがって停滞していく例は少なくありません。組織の拡大とともに、リスクを厭(いと)い攻めの姿勢を失って、守りに入ってマンネリ化し、権威主義や事なかれ主義、保身ばかりが横行して、時代の変化に対応できなくなっていくからです。このように、時の経過とともに垢(あか)を溜め込み少しずつ劣化していくのは、組織の持つ宿命です。

 では、どうするか。常に組織自身が勇気を持って自ら変わっていかなければならないのです。我が会とても組織である以上、マンネリ化や指示待ち化の例外ではあり得ません。倫理の教えこそ不変でありますが、組織は常にリフレッシュしていく必要があるのです。

 ご承知のように、昨年の暮れ以来、我が会は「改革」の一歩を踏み出しました。一言でいえば、不自然な建前をなくし、初心にかえって真摯な実践努力をして活力を取り戻そうということです。会友一人ひとりが自らの実践の現状を見直して、新たな出発をしようということです。

 しかし、改革はまだ緒についたばかりです。まだまだ改善すべき点は数限りなくあるはずです。会友一人ひとりが何をどう改善していくべきかを、自ら真摯に考え、勇気を持って提案し、実践努力をしていただきたいと思います。

 もちろん私も果敢に改革を進めていく所存ですが、改革が成るも成らぬもフォロワーである皆さんが、随所に主となって改革に取り組んでくださるかどうかにかかっています。

 各レベルのリーダーの皆さんは真摯に改革に向き合うとともに、会友の自発的な力を最大限に引き出していただきたいのです。くれぐれも、言われたこと、指示されたことにただ従順であることをもとめるのでなく、会友一人ひとりが自主的に力を発揮できる大らかで自由な環境を作っていただきたいと思います。

 変化をを恐れず、目前の問題を克服していく勇気と気迫を持っていただきたいのであります。そもそも倫理の実践とは、人に命じられてするものではなく、自分が自分のために自発的に行うものです。

 倫理の道は自分が正しいと思い選んだ生き方にほかなりません。その意味で、自発的であることが倫理実践の生命です。

 本来、指示待ちなどとは反対の、「千万人といえども吾往かん」という気概に満ちた人生であるはずです。初心に立ちかえって、会友一人ひとりが改革を我が事として取り組んだとき、我が会は再び活力を取り戻し、我も人もが仕合わせな共生社会に向かって力強く歩みつづける素晴らしい仲間たちの組織になってしくに違いないのです。

 重ねて申し上げますが、「改革」は誰のためのものでもなく、自分のための改革です。随所に主となって改革を推し進めていこうではありませんか。