より善くあろう 私たちは日々朝起き実践を重ねております。朝は「希望の朝」だからです。希望の朝の「希望」とは何でしょうか。私はそれを、今日一日を「より善くあろう」とする意欲だと考えます。そしてこの意欲こそ、私たちの毎日にとって、最も大切なものだと思います。 さらに言えば、日々「より善くあろう」とする意欲さえあれば、きのうどうであったかはもちろん、今どうであるかということさえ、実はあまり問題ではないのです。 これからどうあろうとするか、また、明日の希望に向けてどのように実践を重ねていくのか、それが最も肝要だと私は思っております。 今から二千四百年以上も昔のギリシアに、アテネの全盛期を築いたペリクレスという大政治家がおりました。世界史の教科書などで有名なこの人物は、実に三十年にわたって政治の中枢にあり、アテネの民主政治を完成し、アテネを地中海で最も栄えた強国としたことで知られています。 そのペリクレスがアテネの繁栄の根幹はアテネ市民一人一人の生活態度、各自の行動原則にあると演説しています。 「われわれは美を愛する、ただし節度をもって。われわれは知性を尊重する、ただし溺れることなしに。われわれは富を追求する、ただし可能性を保ち続けるために。 愚かにも自慢するためにではない。…・・・アテネでは貧しいことは恥ではない。だが、貧しさから脱しようと努めないことは恥辱である」と。 「より善くあろう」と努力することこそが大切である。ただし目的を達成するために、節度を欠いたり倫理に悖(もとる)ことをしてはならない。そして、現在どうであるかは恥としないが、「より善くあろう」と努力しないことは恥である。こうした精神がアテネを繁栄に導いたのだとペリクレスは言うのです。 私たちが今日、ギリシア文化として知っている哲学、叙事詩、演劇、美術、建築など、すべての分野の黄金期がごのペリクレスの時代と重なっています。輝かしいギリシアの文化も節度ある向上心というアテネ市民の健やかな生活態度から生まれたものだったのです。 現在どうであるかは問題ではない。しかし、「より善くあろう」と、日々の目標に向かって努力しないことは恥辱であるという、このペリクレスの言葉を、倫理に生きる私たちは、よくよく噛みしめておく必要があるのです。 「より善くあろう」と思わない人はありません。なぜなら、大自然の摂理の下にある人間は本性的に善であり、倫理的に生きたいと願っているからです。事実、年の始めに思うことや、入学、結婚に際して誓うことは、まことに健やかな善きことです。 しかし、これが「日々新たに」となると、話は別です。とかく人は現状に安住しやすいものだからです。たとえ、日々新たに「より善くあろう」と目標をもったとしても、それだけではいけません。目標に向かって努力すること、実践することこそが大切なのです。本当に難しいのはこの「実践」です。 目標が目標であるうちは、まことに健やかな善き志も、複雑な現実の事態に直面すると、悪しき思いや歪んだ感情が生じて、事態を紛糾させていくのが普通です。 私たちの日々の実践活動も、善き思いに始まっても、いざ実践の段階になると、さまざまな困難に直面することになるのです。 この間の機微を、三百年近く前に書かれた『百姓分量記=ひやくしようぶんりようき』という農民の生活心得の「嫁と姑の始終」と題するお話にみてみましょう。 嫁入りする嫁は「夫も舅や姑も一生添うものだから、まことの親よりも心を尽くして仕えよう。たとえ無理難題を言われても口答えなどせず、何であれ言いつけ通りにしよう」と決心してやってくる。 一方、姑のほうも、世間の醜い嫁姑の争いを聞き、自分が嫁であったときの辛かったことを思い出すにつけ、「今度、嫁がきたならば、まことの心をもって分け隔てなく可愛がってやろう。 実の子だとて心が通じ合うのは難しいのに、ましてや他人なのだから、ずいぶんと寛容にも扱おう。たとえ嫁の性格が悪くても、我慢し、ゆっくり理解を待てば、木で石でもないのだもの、やがてわかってくれるはずだ」と思い定めて嫁とりをする……。 ところが夫となった息子は、嫁を猫可愛がりにして、側から放さず夜語りなどするので、早起きで気働きのよかった嫁も朝寝をし、横着になり、夫の言うことばかりをきくようになる。そうなれば、どんな姑であったにしても嫁を「憎たらしい」と思うようになる。 初めは健やかな善き心で美しい決心をしたものの、いったんお互いの感情がささくれてしまうと、理も非もあったものではない。つまらぬことでも大騒ぎになり、憎み争う日々になる。 「これ皆はじめの志は善にして、末の心は悪になる。これ、はじめありて終わりなし、という愚人のたとえなり」と『百姓分量記』は締めくくります。 ペリクレスの演説と『百姓分量記』という、ずいぶんと時代も場所も内容も異なる二つの例から、私は、日々の実践にとって大切な教訓を汲み取ることができると思います。 まず、私たちは日々新たに「より善くあろう」と努力しているかどうか、ということです。現状に埋没したり、自分を過大に思い込んだりしてはいないだろうかと、反省したいと思います。 さらにまた、善き心をもって、善なる志を立てたということだけに満足して、実践という困難を忘れてはいないかということです。倫理を学び、倫理を志すことはまことに尊い志です。しかし、それは実際に実践され、実践を通じてさまざまな困難を乗り越えてこそ、尊いのです。 ペリクレスは、今の自分を恥じることはないとも言っています。今日と明日にかくありたいという目標があり、それに向けて努力し、実践を続けていればよいのです。 最も恥ずべきは、現状をよしとし、過去の実績をいたずらに誇って、今日の実践を忘れることです。現状を恥じることはない、という言葉は、翻ってこれを思えば、実はまことに厳しい言葉でもあるのです。たとえ過去にどんな善行や精進があったとしても、過去と現状に甘んじて、今日の実践を忘れた者は、最も恥ずかしい存在なのだ、そう言っているのです。 さて、来るべき秋の大会では、春以来の実践がどんな実りをつけたのか、そのお話も楽しみですが、それ以上に、明日どうあろうと希望しているのか、そのために今日どんな実践をしたのかを、是非ともお尋ねしてみたいと思っております。(平成九年十月号) |