言いたいことを言い合える愛和 上廣榮治(うえひろえいじ)

ある雑誌を見ていたら、夫婦喧嘩の実態調査の結果が掲載されていました。二十代後半から三十代前半の若い既婚者を対象に行ったアンケート調査で、それによると、夫婦喧嘩をまったくしないと答えた人は約一割にすぎません。もちろん、日頃から夫婦愛和を実践している皆さんのほとんどは、この一割に入っていることと思います。

それでもときどき、夫婦喧嘩の相談をされることがあります。夫婦喧嘩は相手に対する不満から起こります。多くの場合、夫婦の会話不足が原因です。普段から夫婦間の意思の疎通ができていれば、不満を溜め込むこともなく、ほとんど夫婦喧嘩には至りません。

そもそも冷静に考えると、相手に対する不満の大本(おおもと)が自分にある場合も少なくなく、そう気
づいたら、自分が変わればいいのです。自分が変われば相手も変わって、不満は信頼に変わるはずです。それでも夫婦といえども他人ですから、意見が違って言い争うことはあるかもしれません。

実のところ私は、夫婦喧嘩が絶対駄目だとは思っていません。喧嘩がきっかけで、相手の考えや悩みを知り、相手の立場に立って考え、互いに誤りを認めて、許し合う。それによって愛和の絆が強まるのなら、たまには夫婦喧嘩も悪くないと思うのです。

しかし、険悪な夫婦喧嘩は子どもたちの心を不安定にして、家族の愛和を損ないます。やはり、家庭愛和の要(かなめ)は夫婦の愛和なのです。

家族が互いに「おはよう」「おやすみなさい」などと挨拶を交わし合い、ときには言い争いもして、よく笑う。そういう家族はいい家族だと私は思います。言うべきことを言い、言いたいことを言い合える家族だからです。そんな家族には強い絆で結ばれた一体感があります。

たとえば、そんな家庭の居間に置かれたカレンダーには、家族みんなの予定が書き込まれていて、互いの行動と居場所がわかるようになっているはずです。ひとりの家族の喜びは家族みんなの喜びで、悲しみもまた皆で共有しています。

もちろん、言い争いをすることもありますが、それは打ち上げ花火のようなものですから、ドッカーン、パチパチと派手にやった後は、互いの至らなさを認め合って許し合い、スカッと仲直りするのが、自然な、いい家族です。

かつて、霊長類研究などで大きな成果をあげていた京大の今西錦司(いまにしきんじ)さんを中心とした学者グループ(今西グループ)は、周囲から「人情は紙より薄く、団結は鉄より固し」と評されていました。人情が紙より薄いというのは、お互いに是は是と認め合いながらも、そこは厳しい学問の世界ですから、非は非として情け容赦なく批判し合っていたということでしょう。

言葉を換えれば、ざっくばらんに言いたいことを主張し合える家族のような人間関係があったということです。

メンバーが切磋琢磨(せっさたくま)するこのグループは、学界にいくつもの貴重な成果をもたらしまし
た。そして、このように真剣な論争と密接な協力が裏表(うらおもて)の関係で補強し合っていたからこそ、団結は鉄よりも固かったのでしょう。

家族も同じです。厳しさと信頼があいまって、真の家庭愛和が完成するのです。ところが、最近の家族は少し違ってきたのではないでしょうか。子どもに遠慮している親が増えてきたように思うのです。たとえば、テレビドラマで家族が会話するシーンなどを見ていると、親と子の言葉遣いが変わってきたのがわかります。先日見ていたドラマでは、こんなシーンがありました。

男子高校生が父親に、「おやじ、どこ行くんだ?」「うむ、ちょっとあたりを散歩しようと思ってな。一緒に来るか?」。すると息子が一言「うぜーよ」。思わずぎょっとしたものでした。

ご存じと思いますが、「うぜーよ」とは「うっとうしくて気が進まない」というほどの意味です。ちなみに、彼は不良少年役でもなんでもない、普通の高校生の役なのです。皆さんのまわりではいかがでしょうか。「親しき中にも礼儀あり」ということわざは、もう死語になってしまったのでしょうか。

私ならば、「おやじ、どこ行くんだ?」と子どもが言った時点で即座に、「こら、その口のきき方はなんだ。『お父さん、どこに行くのですか』と言い直しなさい」と叱りつけたでしょう。子どもの言葉遣いを正すのは親の務めだと私は思っていますから、少々きつい言い方で叱りつけたものです。

父親とは、子どもの間違いに気づいたら、その場で厳しく叱る存在なのではないでしょうか。とはいえ、最近、そういう親御さんは少なくなりました。いつの頃からか、世の中に「価値観の押し付けは止めよう」という風潮が広まりました。

その伝(でん))で「親が子の言葉遣いを注意するのは、価値観の押し付けでうつとうしい」という子どもからの反発も多くなったと聞きます。しかし、どんな価値観もありだというのは断じて間違っています。倫理に惇(もと)る価値観など認めるわけにはまいりません。たとえ時代の流れがそうであっても、私は私の言うべきことを言うつもりです。家族の間で何の遠慮もいらないのではないでしょうか。

家族は言うべきことを言い合ってこそ、愛和の絆が深まるということは、すでに述べました。しかし、そのために絶対に欠かせないものが一つあります。それは「相手を思いやり、許し合う心」です。

以前、ある同窓会で元気なご婦人が「私は主人が勝手なことをしたら絶対に許さない。目には目よ!」と気炎を上げていました。しかし、「目には目」が行き着く先は、破滅を賭けた争いしかありません。ところが先日、イスラム教でいう「目には目を、歯には歯を」は、やられたら必ずやり返せという意味ではないということを、ある本で知りました。

著者のイスラム法学者によると、イスラム教では、やられたらやり返す、という復讐を勧めているのではなく、あくまでも許すのが一番いいと、『コーラン』には書かれているのだそうです。その趣旨は「
人の罪を許せば自分の罪の償いになる。だから許すのが一番いい。それができない場合には、やられたのと同じことをやり返してもいい。しかし、自分がされた以上の復讐は絶対に御法度(こはっと)だ」というものだそうです。

キリスト教では「汝(なんじ)の敵を愛せ」といい、瀬戸内寂聴(せとうちじゃくちょう)さんは「許すということ、これが仏教の極意です」といっています。この「許すのが一番いい」という考え方は、愛和の秘訣でもあります。

たとえば家族の間で、自分の思うところを言い合って諄(いさか)いになったとしても、後へ引きずらない、朝晩の挨拶は欠かさない、食卓では仲直りして食事を共にする、という構えです。そういう構えのある家族には、愛和の団結力がうかがえます。

根本に「相手を思いやり、許し合う心」があるからです。寛容こそが、すべての対立を解消する鍵なのです。「許し合う心」が根本にあれば、人間社会もまた、愛和に満ちた平和な社会になるに違いありません。