吾唯知足
(われただたるをしる)の心 上廣榮治(うえひろえいじ)

「上機嫌の実践の秘訣って何ですか」。先日、若い会友さんから訊ねられました。「朝の誓」を実践すれば、いつも上機嫌でいられますよとお答えしたものの、それは模範解答ではあっても、質問者の気持ちに応えられていなかったのではないかという思いが残りました。皆さんなら、どうお答えになるでしょうか。

枯山水(かれさんすい)の石庭で有名な京都の龍安寺(りょうあんじ)に行きますと、石のつくばいがあって、そこに判じ物の文字のようなものが刻まれています。「つくばい」とは、茶室の庭先に置かれた手を洗うための鉢のことです。低い位置に置かれているので、茶会に招かれた人はしゃがむ姿勢で手を洗います。しゃがむことを「つくばう」と言いますから、これが名称の由来でしょう。

つくばいの中央の水が溜まる部分は漢字の「口=くち」になっています。その上下左右にそれぞれ漢字の一部が彫られていて、中央の「口」と合わせると、「吾唯知足=われただたるをしる」という四字熟語ができあがります。吾唯知足とは「私は足りていることだけを知っている」、つまり、現状に満足しているということです。

人間、あれが足りない、これが足りないと不満を言い出すときりがありません。「知足」は現状をあるがままに受け入れる「現実大肯定」の態度です。もちろん、安易に現実に盲従するのではなく、一歩進んで、現状をより善い方向に進める努力を惜しんではならないという戒めも含んでいると、私は解釈したいと思います。

現実を大肯定したうえで、そこから「我も人もの仕合わせのため」に努力して、「新しく大地に生き貫く」ことこそ大切なのです。考えてみると、私たちは「足りない」ことには敏感です。その一方で、すでに「足りている」状態を意識することはほとんどありません。足りているのは「当然」だと思い込んでいるからです。

たとえば、健康なとき、人は健康であることに感謝することはありません。病気になってはじめて健康の有り難さに気づきます。大地震の影響で公共交通機関が止まって、何時間も歩きつづけて帰宅した。そのときはじめて、交通網が発達した文明社会の恩恵に思いが及びます。

便利さの恩恵を知るのは、便利さを失ったときなのです。便利になればなるほど、それを失ったときの不便さは大きくなります。それなのに、人はどんなに豊かになっても便利になっても、「もっと、もっと」という「不足の思い」を験らませます。

現実に不満なら上機嫌ではいられません。しかし、足るを知れば、この不満のハードルは下がって、いつも上機嫌でいられます。現実をあるがままに受け入れて、より善くあろうと、希望に向かって努力するだけだからです。

楽観的な人と悲観的な人の違いのたとえに、よくコップの中のビールやジュースが引き合いに出されます。コップ半分になった飲み物を見て、「もう半分しかない」と思うのは悲観的な人で、「まだ半分もある」と思うのは楽観的な人だというわけです。

現実大肯定の立場からすれば、「半分しかないが、半分はある」とあるがままに現実を見るべきでしょうが、さらに一歩を進めて「まだ半分もある」と考えるのが上機嫌の秘訣です。物事には必ず光の部分と陰の部分がありますが、光の部分を見つめて、もっと光を増やしていこうというのが、実践倫理の立場なのです。

上機嫌を損なうものは「不足の思い」であるということは、もうおわかりいただけたと思いますが、もう少し上機嫌について考えてみましょう。

上機嫌の対極にあるものは不機嫌です。そしてその最たるものが「怒り」の感情です。こう申し上げると、賢明なる皆さんは「朝の誓」の「腹を立てず不足の思いをいたしません」の一条を思い浮かべられることと思います。

普通なら腹立たしく思うこと、たとえば、ネット上で本会に対する誤解や偏見から、匿名の誹謗(ひぼう)や中傷(ちゅうしょう)を目にしたときです。しかし、私たちは、それに対して、腹を立てるようなことはいたしません。ただ、そうした非難もあるという現実をそのまま受け止め、もしも自らに改めるべきことがあれば、粛々と改善していくだけです。

私たちは「人の悪をいわず己の善を語らない」という立場から、相手の非をあげつらって争うことは慎みます。仏教の創始者であるブッダの言葉に、次のようなものがあります。「他人が怒ったのを知って、それについて自ら静かにしているならば、その人は、自分と他人と両者のためになることを行なっているのである」

(『ブッダの真理のことば・感興のことば」中村元(はじめ)訳岩波文庫)。この「自ら静かにしている」という態度は、我が会の教えにぴたりと当てはまります。そして、倫理の実践のすべてが「自分と他人と両者のためになる」ことなのです。

このブッダの言葉について、あるお坊さんから、次のような解説を聞いたことがあります。たとえば、あなたに非がないのに、人から「あなたはとんでもない人だ1」と怒りをぶつけられたとしましょう。そのとき、あなたが怒りを感じて、「私には一点の非もない。あなたこそとんでもない人だ1」と怒り返したとしたら、あなたは二つの過ちを犯したことになる、というのです。

二つの過ちとはなんでしょう。相手の怒りに対し、あなたも怒りの感情をもったことが一つです。二つ目は、相手の怒りに対して怒りの言葉を返したことです。

怒りを不快なエネルギーだと考えるなら、相手の怒りに対して、こちらも怒りの感情を抱いたなら、相手の不快なエネルギーを受け取ったことになります。さらに、その怒りを相手に返せば、怒りのキャッチボールが始まって、不快なエネルギーは際限なく増殖しつづけます。

怒りは、それを受けた人にとって不快であるだけでなく、怒りを発した人にとっても不快な感情なのです。上機嫌が連鎖するのと同じように、怒りもまた連鎖するのです。

では、二つの過ちを犯さなければどうなるでしょう。あなたは、たいへん善いことをしたことになります。なぜなら、相手の怒りに対して怒りの気持ちをもたなければ、怒りの言葉を返すこともなく、不快なエネルギーは消滅してしまうからです。

人の怒りに対して反応しなければ、怒りを受け取ったことにはなりません。受け手のない怒りは行き場を失って、自然に消えていくものだというのです。確かに、相手の振り上げた拳(こぶし)に対して、こちらが「静かにしている」ならば、相手は拳を下ろさざるを得ないでしょう。

それが、相手と自分の双方にとって最善の行為なのです。今からちょうど八十年前、宮沢賢治は三十七歳で亡くなりましたが、彼の死後、「雨ニモマケズ」の詩が書かれた手帳が弟の手で発見されました。

賢治がなりたかったのも
「慾よくハナク決シテ瞋(いか)ラズイツモシヅカニワラッテヰル」、そんな人だったのです。

「腹を立てず不足の思いをいたしません」という一条を唱和するとき、私はそんな賢治と、彼が夢みた共生社会の姿が、ありありと心に浮かんでくるのです。
情報源:倫風7月号から転載