「人の悪をいわず」、それは共生の条件です
                                上廣榮治(うえひろえいじ)
 「今日一日人の悪をいわず己の善を語りません」と私たちは毎朝誓います。でも、これが難しいと、若い会友さんが言っていました。よい人間関係を築くうえで、このことが大切であることは、誰もがわかっています。それにもかかわらず、毎朝この一条をあらためて誓うのは、それほど人間は人の悪口と己の自慢をしがちだということなのかもしれません。

 江戸時代の後半、大田錦城(おおたきんじょう)という儒学者が江戸で私塾を開いていました。そこには、歌人の村田春海(むらたはるみ)と画家の鈴木芙蓉(すずきふよう)がよく遊びに来ていました。二人とも「舌はろくろの如し(ごと)」というくらい話し上手で面白い人物でした。ただ、他人の悪口も大好きで、「人の悪口は鰻の蒲焼(うなぎのかばや)きより旨し」と言って揮ることがなかったといいます。鰻の蒲焼きといえば、昨今は高嶺け花ですが、当時は美味いものの代表でした。

 その鰻よりも「旨し」というのですから、よほど人の陰口(かげぐち)が好きだったのでしょう。このエピソードを伝えた錦城の息子、大田晴軒(せいけん)は、当時十五、六歳。「父のかたわらにいる自分にまで、人の悪口を披露するので、聞くのも辛かった」と述懐しています。

 そして、孔子の弟子の子貢(しこう)が語った「訐(あば)きて以(もっ)て直(ちょく)と為す者を悪(にく)む」(人の隠し事をあばきたてて、それを正直だと思っている者を憎む)とは、この二人のような人のことだろうか、と記しています。

 子貢のこの発言は、『論語』の中に出てくるものです。ある日、子貢は孔子に「先生のような君子でも、人を憎むことがありますか」と尋ねました。すると孔子は、「あるよ」と言って例を挙げます。「人の悪口を.言いたてる者を憎む。自分が劣っていることを棚に上げて優れた人をそしる者を憎む。蛮勇を振るって礼儀をわきまえない者を憎む。自分を押し通し頑固で譲らない者を憎む」と。

 子貢も、自分が憎む者の例を挙げます。「人の智をかすめとって、自分はいかにも頭がいいという顔をする者を憎みます。傲慢に振る舞い、それを勇気だと思っている者を憎みます」。そして最後に、先ほどの「人の隠し事をあばきたてて、それを正直だと思っている者を憎みます」と続きます。

 孔子と子貢が憎む者には、みなはっきりとした共通点があります。それは自分さえよよければいい」という他を顧みない自己中心的な発想です。
「人の悪をいうこともまた、他人を貶めることによって、「自分は正しい、自分のほうが優れている」と、自分の優位を誇っているのです。つまり「人の悪をいう」ことは自己中心的な行為なのです。

 先ほどの会友さんから、「人の悪をいわずという誓いは、人が本当に間違っていても、口に出してはいけないということですか」と聞かれました。たとえば、子どもをかばい過ぎる友がいたら、「過保護は子どもにとってよくないよ」と忠告するのが、むしろ本当の友情ではないかというのです。

 もちろん、そのとおりです。友の過(あや)まちを忠告するのは「人の悪をいう」ことには当たりません。むしろ気づいていながら黙っているほうが、友だちとしての信義に欠けることになるでしょう。

 忠口は、相手に対する愛情や友情に発するものです。相手を認め、肯定し、共により善くなりたいと願っているから、アドバイスするのです。

 これに対して「人の悪をいう」とは、人の欠点を言い募(つの)ることであり、陰口などはその典型です。陰口は悪意から発して、相手を否定し、非難するものです。相手がより善く変わることを望んでいるのではないのです。だから多くの場合、本人には直接言わず、陰で言いふらして貶めるのです。

 面と向かって相手を批判し、非難する場合もあります。これも悪意と無縁ではなく、私たちが自らに禁じている「人の悪をいう」ことと同じです。それなら、悪意のない批判ならよいかというと、そうとも言えません。

 
批判は往々にして自分は絶対に正しいとして相手を否定する「自己中心的な批判」になりがちです。それもまた「人の悪をいう」ことに近いでしょう。

 では、人の過ちはどのように指摘すればよいのでしょうか。大事なことは、その指摘が共により善い明日を目指して向上するための意見や提言でなければならないということです。そうした建設的な意見を糧としてこそ、互いの進歩も改革もなるのです。
それが建設的な意見であるか否かは、その根底に相手に対する愛和の思いや共感があるかどうかにかかっています。

 人の考えや言動に異を唱えるときには、相手の過ちの中にも正しい部分があり、自分の考えにも正しくない部分があるに違いないと、よくよく顧みることが大切です。そうした心配りは相手にも伝わって、意見のやり取りがお互いを高めることにつながります。それが相手のことを心底思う親身なものであるならば、信頼関係はいっそう深まることでしょう。

 それでも人は耳に痛い忠告や指摘を嫌いがちです。それが的を躰ていればいるほど、自分の今を守ろうとして、思わず反発したりします。しかし、忠告や指摘を嫌い、耳に心地よい言葉だけを喜ぶのは、進歩する機会を自ら捨てているようなもの{孔子は自分の失言を指摘されたとき「私は幸せだ。たとえ私が間違いを犯しても、誰かがきつと気づいて正してくれる」と喜んだといいます。

 
人の意見や指摘は自らを改めるチャンスとして、しっかりと受け止めることが大切です。
それがたとえ悪意を含んだものであっても、あるがままに受け止める。それが実践倫理の現実大肯定の流儀です。

 最近の悪口でとくに気になるのは、インターネットを使った匿名の発言です。名を隠すことで自らを安全圏に置き、感情にまかせて「死ね、殺せ」などと暴言を吐き相手を侮辱する。そんな書き込みがたくさんあります。
それは匿名でなければ書けない卑劣な罵詈雑言(ばりぞうげん)です。

 その悪口の対象は個人やグループにとどまらず近隣の民族や国家にまで及んでいるから、その影響は深刻です。ネット上で悪口と悪口が、互いにエスカレートしていったらどうなるでしょう。「愛和」や「共生」とは対極の「憎悪」と「争い」しかもたらさないことは明らかです。

 国連のユネスコ憲章の冒頭に
「戦争は人の心の中に生まれるものだから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」とあります。ネット上に垂れ流される憎悪や悪口に、戦時中の狂気を連想するのは、私の世代だけでしょうか。

 人の悪をいわないことは、人と人、国と国が共生していくために欠かせない絶対的な条件です。愛和や仕合わせの条件でもあります。今日一日、「人の悪をいわず己の善を語らず」に、ただひたすら元気に明るく、倫理の実践に励みましょう。