壱岐再発見
って見たくなる島・歴史の島・神話の






日本  象徴
明治天皇と平戸松浦藩
壱岐卜部
壱岐一宮物語
元寇の役
徐福伝説と蓬莱山
松浦党と日朝貿易
倭寇物語
壱岐は明治時代壱岐郡」と「石田郡の二つだったことを知っていますか
「海の声 彼方の声」”評伝 三富朽葉”(勝野良一著、近代文芸社)
(ページ32)石田郡長 三富道臣(雪州会初代会長)著「壱岐石田郡村要覧・1894年」
で再発見しました。

「松永安佐エ門」と「アーノルド・トインビー」
「日本人はいかにも視野が狭い。そのためにあんな戦争を始めて負けてしまったんだ。
これからの日本人は広い視野に立たねばならない。
それには、この「歴史の研究」を読ませるのが一番だね」


壱岐国ルネッサンスのきっけとなった・・・平成15年1目1日一の宮巡拝会報第15号から

壱岐国一の宮会    「壱岐島  占部英幸」

 壱岐の島起こしに、古代からの壱岐国一の宮天手長男神社が一の宮らしく、島中から尊崇されることに取組みたいと願っています。壱岐国一の宮の社名は全国的にもめずらしい名です。手力男名からもじったとも思えるます。天上の大力持ちという異名の神様で、天照大神を天岩戸から出されたと神話に記される思薫命の子とされる神です。祝詞の中に「天皇(スメラミコト)の手長(タナガ)の御世1というのがあります。手長は足り長という意味で、大皇の世に対するほめ言葉とも記されています。私は「ナーガ「蛇神」「龍神」ではないかと思っています。いずれにしても壱岐では一番由繕ある神社です。

 壱岐国一の宮の再構を行って壱岐島の再興を計ることは大変意義ある事業と心得ております。日本人の精神的支柱として神道の役割の重要さは現在でも変ることはありません。背骨のないグラゲのような人間に目本人をしてはなりません。この事をわきまえている人々が多くなるほど日本の未来は輝いて来そうです。神職まかせの神社ではいけません。氏子ならびに崇敬者の方々と心を一にして頑張ります。
江戸時代、『諸国一宮巡詣記』を残した橘三喜の父の故郷、壱岐国から国起こし・島起こしの声があがったことはまさに意気を感じる。
平成15年1目1日一の宮巡拝会報第15号
原点にかえろうと 壱岐国一の宮が動く 元冠の敵昧方の鎮魂祭を

一の宮巡拝で御朱印をいただくのに苦労する中の一つに壱岐国一の宮天手長神社かある。昨年四月に川原宮司が逝去され後任が決まらないので、去る八月に壱岐にいくつかの提案をしてはたらきかけた。司馬遼太郎「街道を行く2」ニ「日本神道というこの特異なシャーマニズムにおけるその古代的原型が対馬と壱岐に存在し、対馬神道とか壱岐卜部氏という古代シャーマンの存在がいまなおその専門の世界でやかましくいわれていることを考え」と書いている。

最近、壱岐国一の宮天手長男神社に遠くから御朱印帳の参拝者があとを絶たない現象もある。ルーツとなっている壱岐国一の宮に誇りをもとうと、壱岐の人、占部英幸氏ら壱岐人が島起こしに立上がった。そして壱岐国一の宮会をつくり観光協会と連携し島もあげて国づくり目指すことになった.。元冠の戦いで壱岐は占領された後潰症で、江戸時代に橘三喜が一の宮巡拝したときは埋もれていた。平戸藩主松浦鎮信によって再建、延喜式内も調査したような状態であった。

まず平成十五年に天手長男神社で元冠の戦いの敵・昧方の鎮魂祭をモンコル・韓国人を招いて行う。敵・味方の死者の供養のため北条時宗が鎌倉円覚寺を建立した例があるが、壱岐国を祓い清浄することが第一としている。さらに平成十七年には壱岐国一の宮にふさわしい荘厳な社殿を建立るという壱岐入のルネッサンスが始まった。

壱岐国一の宮を柱に「魏志倭人伝」の一大国、原の辻遺跡等、光を観る観光へと島への意気込みが立ち上がった。これは、諸国一の宮鎮座地の観光にもいえる。それぞれの足下から国起こしが始まり、全国一の宮巡拝は、その活路の動脈となる。

      偶然なんてない!  一の宮巡拝ですべての現象が見えてくる

                    
どのような道を 
                 どのように歩くとも 
                  いのちいっぱい 
                   に生きれば いいぞ 
                           ”みつを”


 己を捨てた境地になれるのが諸国一の宮巡拝である。それは理屈ではなく、清浄なる地に額づく.ことの繰返しで
何かが見えてくる。知識ではなく智慧が光ってくる。

有楽町の相田みつを美術館に、いのちをかけた言葉との出会いがある。春日大社葉室頼昭宮司が神道に感得したこ
とを一連の本になっている。
〈神道〉のこころ
神道と日本人
神道 見えないものの力
神道 〈いのち〉を伝える
神道 〈徳〉に目覚める
神道 感謝のこころ
神道 夫婦のきずな
神道 いきいきと生きる
一の宮巡拝という理屈ではない行為によ⊃て清浄な光か見えるが、それに確かなものにしてくれるのが、言葉との
出会いである。
病気が治り命をいただく
       茂原市小杉恒夫


平成十二年五月早期胃ガンのため入院・手術そして退院しました。それ以前よりわが家近くの上総国一の宮玉前神社等十二社に毎月一・十五日に参拝していましたが、玉前神社に置いてあった「一の宮巡拝会報」をいただき、『諸国一の宮を求めて、その年十一月十五日に玉前神社で『全国一の宮御朱印帳』に最初の御朱印をいただき巡拝を開始し,本年九月二十四日、北海道神宮で完拝しました。

 病気が治り、命をいただいたのは神様のお陰と、感謝の気持と心願をもって全国をまわりました,最後に妻の生国信濃国一の宮と浅間神社、富士山五合目の小御嶽神社を参拝して、足掛け三年の参拝が終わりました。昔はいざ知らず現在非常にさびれた一の宮、神主不在の神社総代に御朱印を書かせる神主、若い巫女による下手な字の御朱印など、驚き、落胆、寂しさ等複雑な気持があります。

 誰も参拝に来ないさびれた神社にお参りずるのは私は好きです。さびしがっている神様が私の参拝を喜んで、私の願いを聞いてかなえてくれると、肌で感じられます。例えば、何日間、どこ方向へ参拝に行きますので、雨が降らないよう、我が家の神棚にお願しして出桂けると移動中はともかく参拝中は絶対雨が降らないし、台風もそれて気持良く毎回参拝を済ませました。
神様に大いなる感謝の念を持つと同時に私の御朱印帳は我び家の最大、最高の宝になりました。

倭舞奉納一の宮行脚
   上総国玉前神社で            一月二十三日初舞い

伊勢国一の宮椿大神社で平成十四年六月六日、奉納の舞いはじめをした倭一二三さんは、すでに二十余の一の宮に奉納をした。九月四日の安芸国の宮厳島神社国宝舞台で、シンセサイザーの上野友煕さんの歌で「君が代」を舞い見てしる人に感動を与えた。石見国一の宮物部神社での奉納舞には、山陰プロック世話人キッドさんが、仲間十九人も連れて参列した。新春二十三日午前十一時より上総国一の宮玉前神社で行われる奉納舞は、倭一二三さんの名の一・二・三の日にあたる。魂をこめて舞うので、是非参列を。
書籍紹介  神道 夫婦のきずな 葉室頼昭著
宇宙物理学者が、宗教と科学とは別のものではない、同じことなんだという画期的な考えを示すようにな⊃た。ずべてのものは素粒子でで.きていることが証明された。存在するものが、この空間に雨あられと飛んでいるというのである。日本には古くから罪・穢れを祓う「大祓い」を年に二度行ないすべてをクリアーしてきた。

 病気もまた祓われ消えてゆくと考えが根底にあったが、明治維新の西欧文明から迷信と追いやられ、非科学的で片付けられ、百三十四年たった今日、その効き目がでて日本でありながら日本を失ってしまった。「あくまでもいのちを伝える基本は女性であって、男性ではありません。つまり生物が約三十八億年前にうまれたときから、いのちを伝えるのは女性の役割であって、女性が子供を生み子供にいのちを伝える。それが神代の昔から変らなく続いているのでず。」

 結婚式には神様に代わって縁を結ぶ仲人がいる。原子核でさえ、陽子と中性子を結び付ける中間子がなければ存在できない。二人が神様に導かれて日本人のいのちを伝えてきたことに感謝する、縁というものは自分で作ることができないものである。何故、このことか解らなくなってしまったのか、それは知識で曇らせたからである。知識より、本来もっている智慧を磨くこと、神様に感謝することを知らせている。(春秋社1800円税別)