日朝貿易に海を駆けた松浦党と壱岐(上)

壱岐島の科学研究会   占部英幸

 鎌倉時代から壱岐は大宰府の直轄地となり、少弐氏から壱岐守護代が選ばれて政務を執ることになったが、二度にわたる蒙古の襲撃にかなりな痛手をうけ島民の生活は苦しく復興にはかなり年月を要した。その後には松浦地方から移住して来る者があり、さらには倭寇の基地として松浦党の中から勢力をもち少弐一族に変わって壱岐を支配するようになった。

 壱岐の中世は五氏が分治した時代で、志佐氏は芦部町湯岳戸城あるいは浅井城にかまえて印通寺港などを母港に、志佐氏は可須の河頭城、現在の勝本町東触の東光寺の付近に勝本港などを寄港地として、呼子氏は郷ノ浦の庄触の白石城、立石古城とも呼ばれ現在の長栄寺付近で渡良の各港を寄港地とし、鴨打氏は郷ノ浦の物部の大屋の古城(現在の郷ノ浦町栄住宅の一帯)で半城湾などを寄港地とし、塩津留(しおつる)氏は芦部町国分東触の郡城(こおりのじょう)または国分当田の、つるかけ城にかまえて国分の当田橋の上流に荷揚げ港を持っていた。

 呼子氏は唐津の呼子を拠点とした松浦源氏の一党で壱岐、牧山家は上松浦呼子氏の代官として郷の浦の庄触一帯を支配し、朝鮮と歳遣船一船の定約をし、牧山帯刀源実、その子は牧山源正で近年にまで対馬に「源正」印の実物が存在したという。塩津留(しおつる)氏は現在の佐賀県鎮西町で大字塩鶴の上場地区1400年前半に壱岐に移住し牧山源正より図書(銅製の私印で通行者の姓名を刻したもの)を借りて朝鮮貿易を行っていた。

 塩津留氏の居城の国分の郡城は三重の堀をもつ城で壱岐に定着した時はすでにあった郡司(こうりのつかさ)国司という大宰府から派遣された官人居城していたともされ、国分一帯は古くから壱岐直(いきのあたい)が居住していたのでその後に入ったとも考えられるがくわしい事は分かっていない。

 ともあれ、しおつる観音寺と呼ばれる古刹(由緒ある寺)の付近に郡城蹟があり今は畑となって殿屋敷と呼ばれる古い墓所がる。塩津留氏は観音寺、少林院など一族でそれぞれ一船(計四隻)を出して朝鮮から日本海の諸地域と活発に交易を行ったいた。しかし1472年11月にに壱岐では大きな政変が起った肥前上松浦の岸岳城主である波多泰が突然に壱岐に攻めこみ壱岐を分治していた志佐、呼子、鴨打の代官と塩津留氏を追放して壱岐の領主となったのである。

 塩津留氏は対馬に逃亡した、この時に逃げおくれた、塩鶴姫は乳母とともに鶴かけ城のそばにかくれた。その乳母の墓というのがあり姫はその後どうなったのかはわからない。つるかけ城の裏山には墓が一所に「あるがあるいはそうかもしれない   (つづく)

【壱岐日報平12.8.21寄稿から転載】

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