壱岐島の科学研究会 占部英幸
塩津留氏は対馬島主の宗貞国の家臣となった。宗貞国はしおつる氏に朝鮮、九州方面や石見、若狭などに交易するすることを認めた、こらは朝鮮貿易に先に書いたように幾口もの図書を塩津留氏が持っていたのでこの権利を対馬の宗家がねらい接近を図ったのであろう。
1510年に釜山など三つの港に住んでいた日本人が暴動ををおこした三浦の乱で朝鮮側が図書(銅印)を与えていたのを厳密に審査して信頼のできるものから新しく造った図書を再び支給した。1519年に鋳造された「源正」の印は松浦党の呼子氏が壱岐に派遣していた代官の牧山源正のことでこの図書は塩津留氏が朝鮮に持ち込み改給され名義料を払いながら30年以上も対朝鮮貿易に使用された。
牧山氏は塩津留氏に対して名義料を徴収していたがしばしば滞り、この仲裁役を対馬島主が行ったが次第にその通行の権利は対馬に集中するのは当然の成り行きであり宗家の繁栄は実にこの日朝貿易にあった。
1555年壱岐守護代の波多氏の配下六人衆は、郷ノ浦町の亀岡城にいる壱岐城代、波多源五郎隆をを除こうとした。隆はこれを知って夜半に城を抜け出し沼津の長嶺の古渓時に逃げ込んだ。この時に隆は門前の老婆に口止めに刀を与えたが、追っ手がきて取り調べると「このころ寺には高貴な客があるとみえてよいお膳や茶碗で、ていねいなまかないがされている」と語ったので住職は隠す所がなく、ひそかに西の縁から逃がした。
隆は途中すみ川でイモ洗いをしている女に刀を与えて自分の通ったことを言わずにくれとたのんだが、追っ手が迫ると女はありのままを語った。隆は、うのべの海岸に逃れて、半城のほうから迎えの船が見えたけれども間に合わず、隆はこれを敵とあやまって従者の馬渡ら3人とともに自害した。この主従の墓は有安の海岸にあり、近所の人々は盆や正月そしてお彼岸など折々にお参りされている。
また翌年に弟の源七郎重を六人衆は殺そうとしたため重は家臣とともに城を抜けだして深江の安国時にかくれた。追っ手に包囲されたために家臣三人とともに筒城方面に逃げた。十手田原で3人は殺されたが重はさらに逃げ、権現崎に潜んだが鎧が海に写ったために、追っ手に見つけられ射殺された。重は若くして撃たれたため、人々はこれを惜しみ西福寺の近くに葬る。
重塚(しげつか)は石田町指定文化財となっている。壱岐は倭寇【海賊】の根拠地として多くの良港に恵まれ、季節風に影響されない港は天然の貿易港は古代より貴重であった。さらに鯨組みは平戸藩の財政をも潤しても余りあるほどであった。対馬の万松院に残る宗家一族の墓所の豪勢さに比べ壱岐の塩津留城跡の墓所のわびしさは致し方ないことであるが、日朝貿易に駆けた海のロマンは少しも色あせることがない。
松浦源氏・源鎭真公の願主による現在の壱岐国分寺は全国の国分寺中でも十指内にはいる古刹で、観音寺は松浦源氏の菩提寺として現存している。幾多の時代に翻弄された語り部である中世の城跡など島内には隠れた古城が50っか所以上存在すという。華渓寺、安国寺、長栄寺、東光寺をはじめとした寺院など島内の文化財として整備し保存し積極的に活用されることが望まれる。
とりわけ近年には中世の城跡の遺跡を探して島を訪れる歴史愛好者や研究者が多い。その方々のご先祖の縁があると言われた。このように文化は歴史経済という分野にまで発展する。観光立島をめざす壱岐はたとえ最初は数人の来訪者であっても壱岐の歴史を案内することによってリピート客が数十倍となる可能性を秘めている。(おわり)