天手長男神社
鎮座地 郷ノ浦町柳田大字物部田中触
祭神 天忍穂耳尊 天手力男命 あめのうずめのみこと
例祭日 十月十六日 神幸式 大神楽(おおかぐら)流鏑馬(やぶさめ)
特殊神事 十二月十六日 報賽祭 大神楽
六月十六日 風止五穀成就祈願祭
境内地 百七十五坪
[由緒沿革]
延喜武内の名神大社であり。神巧皇后、三偉征伐の時に功績があり、皇后が親しく祭られた由緒ある神社。天手長男神社のある丘を「ハチガタ山」と伝えられ、昔、神功皇后が三韓征伐の時に御兜を鉢に納めて、戦勝の祈念をされた、ことにより付けられた名前とする。また、この丘陵を田中嶋ともいう。いわれは、古来壱岐郡およぴ石田郡の境を流れていた頃は、このあたりまでは、毎水の満ち引きがあり、水上の孤島のようであったという近古までこの付近の水田の中から、船材の朽ち腐れたものが出ていたという。祭神の天忍穂耳尊は天照大神とスサノウの尊が「天眞名井」で誓約をされた時にスサノウが天照大神の左の美都羅の珠を請い取り、かみ砕いて吹き出した息の中から生まれた神様であり。天照大神が命じられて、あしはらの中津国の主君として、降されたが、その時にお生まれになられた、ニニギの尊を大神に請い願われて、代わりに降ろされた。別名に、天大耳命、天忍穂根命、天忍穂別命、ともいう。
天手力男命
天照大神が天岩屋に隠れられえとき、岩戸を引き明けて出された、この神は力が秀でておられたので、手力の名前を付けられた。後に、天孫降臨にしたがって、ながく天皇家の守護のためにはたらかれた。天手力男命の神の別名は、天石戸別命、櫛盤窓命、伊佐布魂神、明口名戸命・阿居太都命(あげたつのみこと)、天背男命、天岩戸別安国玉命、天嗣鉾命(あめつぎほこのみこと〕とも言われる。この神は、天底立神の御子、また、天思兼神の御子とも天太玉命の御子ともいはれる。天宇豆女命(あめのうずめのみこと〕天照大神が天岩屋にこもられたとき、異様な装いをされて、いわやの前で踊り舞われて、御心を和はし奉りになられ、大神が岩屋より出てこられてからは、常に従われた、天孫降臨に従われて、天八街に国神、猿田彦を迎えて、「天孫はどこにいげばいいだろう??、またあなたはどこに行かれるのか?と問われた、猿田彦は「天孫は日向の高千穂の榔触峰に行かれるがいいだろう、私は伊勢狭長田の五十鈴川上にいこう」と答えられた。猿田彦神を伊勢におくり後に夫婦となり猿女の君の氏の姓を賜る。天字豆命は天太玉命のの御子と言われており、別名を、大宮質神、大宮姫神、宮比神矢之羽羽思伎神とも言う。
天手長姫神社 別名・幡宮
鎮座地 郷ノ浦町柳田大字物部田中触
祭神 拷幡千千姫尊 種日女命 木花咲邪姫尊 豊玉姫尊 玉依姫尊
拷幡干千姫尊は高産霊尊の娘、天忍穂耳尊の后として天津彦彦火町暫杵尊(ニニギノミコト)をお生みになられた、稚日女命は拷幡千千姫尊の別名であり古事記には「天衣織姫』とあるのと同じ神様。天衣織姫が織殿に入り神服を織っている時にスサノウ尊が馬の皮をさかはぎにして屋内に投げ入れた時に陰部を傷つけて亡くなられたという。天照大神の御妹ともあるが、天照大神の后(きさき)ではないか、天照大神は神衣も男装だったということから男神であると思う。木花咲邪姫尊は大山祇神の娘で、絶世の美女、花のように美しいというので付けられたニニギノミコトの皇后とな「彦火火出見尊」をお生みになられた。豊玉姫尊は、海神の豊玉彦の御娘で彦火火出見尊の海の宮に来られた時にお会いになられて、一目で互いに好きになられて結ばれて、葺不合尊:(ウカヤフキアワズノミコト)をお生みになられた時に、その姿(鰐わに)になっている所を夫に見られて恥じて自分の国に帰られた。王依姫尊は豊玉姫尊の妹で、葺不合尊(ウガヤフキアワズノミコト〕の皇后。神武天皇の母親である、玉俵姫尊は登玉姫尊の本当の姉抹ではないようた。香椎宮の社家系図には武内宿祢と壱岐・真根子の娘、豊子との間に生れれたのが武内宿祢の子であり、中臣、アマコの娘、玉津が武内宿祢の孫を産んでいる。壱岐・真根子の娘、豊子が豊玉姫として、中臣、アマコの娘、玉津が玉依姫とされたのではないだろうか。玉依姫という名は、拷幡千千姫尊は高産霊尊Φ娘・天忍穂耳尊の后として別牲であり、三島の溝杭耳神娘、活玉佐姫、また、建角身命の子 玉依姫がいる、加茂御神祖神は神武天皇の御親という説がある。
ここで「軍越の神事」がおっこなわれていたと記されています。八幡寓話記、「宗像の神が赤、白の旗を振り上げ振り下ろして敵をほんろうし、戦いの後に、「沖の島」に立て置いた」と記され、この赤、白の旗を織ったのは「ここ、手長の神」であったのではないか?と推測されています。もともと、宗像・鐘崎の「織幡神社」も壱岐にあった「天手長姫神社」ではないかと言われています。大手長男神社と天手長姫神社は昔は真向かい側に祭ってあったが今は天手長姫神社は鳥居だけになっている。五所姫大明神とされているが『御所姫大明神』ではという。
全国の一の宮で「天」のつくお宮さんは壱岐の一の宮天手長男神社だけなのです。天手長男神社の姫神である天手長姫神社はそれほどに格式の高いお宮なのです。ぜひ、再建をして欲しいお宮たと。思います。古代において、卑弥呼と男弟によるいわゆる日子(ひこ)と日女(ひめ〕はよる政治体制が耶馬台国において行われていたことが魏志倭人伝こ記される、そして壱岐、対馬国の平狗(ひこ)は雷大臣(壱岐・対馬の祖)であると考えられている(太田亮氏日本古代
史研究)手長の神は穀霊の祭司ではないだろうか?人間が生きて行く上において穀物の種の命の永続性と穀物の豊かな実りが何よりも重要な事である。
天手長男と天手力男(アメノタジカラ才)とよく似た名前である、手力男はアマテラス大神が岩屋に隠れた時にタジカラオが岩戸を大力で開けてアマテラスを岩屋の中から出したという。天の岩戸を開く事は日本のかいぴゃくを物語るきわめて重要な事が含まれている。この大きな力を古代の海人族(あまぞく)壱岐氏に置き換えてみるとどうだろうか。天手力男〔あめのたじからお)は月読尊(つきよみのみこと)の子とも天思兼尊(あめのおもいかねのみこと)了また天太玉命の子だともいわれている。天思兼尊(あめのおもいかねのみこと)は高天原(たかまがはら)の知恵者でいろいろな事を思い巡らされアマテラスの政治的な分野の担当をされたと思われます。天思兼尊と天児屋根尊(あめのこやね 壱岐氏の始祖)は兄第という。兄弟はえとでありまた一支国(いきこく)の支は千支(えと)の始まりの国を表すといわれている。壱岐国の先祖が素晒らしい文化(古神道)を持っていたかの表れであると思われる。このような古事記の裏書を書いたのは壱岐の先祖だとされている。(太囲亮氏著 姓氏家系大辞典より)
白村江(はくすきのえ)の敗戦により、壱岐、対馬の人々と神々もまた歴史の表舞台より消された運命だった。志賀島(しかのしま)の奴国(なこく)の綿津見紳{わたつみのかみ)と深くかかわるようである。延喜式内社、壱岐国神社誌にある24社の神々で神代の物語がわかるようになっている。壱岐島の先祖が残した貴重な歴史この遺産が有形無形の大きな価値を生む源泉となる。歴史は繰り返し今毯の時代の道標(みちしるべ〕となる。
「一の宮」とは
日本ては旧国、68州に、一の宮と国分寺が制定されています。これは、その国々では最も古い、由緒あるお宮が選ばれています。壱岐国・一の宮・天手長男神社と天手長姫社が鎮座している、柳田触は・物部村とも言われ・古代の豪族「物部氏」とも関係したと思われます、ここに「車出遺跡」があり、弥生時代の国特別指定遺蹟の「原の仕遺跡と同じ時代』の遺跡です。
弥生・古代の壱岐の先祖がお祭りしていた壱岐で一番占い神社であったので「壱岐・一の宮」として選定されたのです。「壱岐の一の宮は全国の一の宮のなかても一番古い由緒を持つお宮と言われています。」これは、壱岐の宝で「後世に伝え残さなげればならない大事なことです」なぜなら、日本の国のおこりは「壱岐から始まった」ということになる。京都の「松尾大社」に、「雷神」と「市杵島姫」と「月読尊」三体の神像があります。「雷神」は壱岐の先担、「市杵島姫」は神功皇后・ヒミコ?『月読尊」は壱岐直の祖「壱岐眞根子」?とも考えられます。壱岐国の復輿は壱岐の由緒ある神々を祭り、平安な時代を祈ることは日本の原点でもあると考えました。
|