倭寇海賊船のお話
倭寇の大軍、中国沿岸部を襲撃 王直ら密貿易の商人が海賊に転じる
1553年4月*中国・・・中国人の海賊王直(おうちょく)が、根拠地としている日本の五島や平戸から数百隻の船団を率いて中国に向かい、江蘇省(こうそ)から浙江(せっこう)省の沿岸をいっせいに襲撃した。ついで現地の海賊の手引きで内陸部にはいり、大規模な略奪を行った。明は建国以来、民間人の対外貿易を禁じる海禁政策をとっていたが、その裏で密貿易が横行していた。15世紀後半には海禁政策がゆるんだため、浙江や福建、広東の沿岸に、なかば公然と密貿易を行って巨富を築いた海商大賈(かいしょうたいこ)【大貿易商】浙びん大姓(せつびんたいせい)【浙江や福建財閥】が出現した。彼らはもともと小舟1艘から出発して、やがて集団を形成し、拠点の港と私兵を持つまでになり、密貿易だけでなく略奪も行った。
王直は安鰭徽省(あんきしょう)の出身で、当初、塩商を営んでいたが、1540年に仲間とともに大型船を買って、硫黄・生糸などを日本や東南アジア方面へ密輸出して財をなし、やがて財閥のボスの1人許棟の集団に加わり、彼の跡を継いだ。しかし、浙江巡撫巡朱がんらが密貿易の取り締まりにあたるようになると、王直は平和的な密貿易商から海賊へと転じた。根拠地を日本の五島列島や平戸に移して中国から朝鮮半島の沿岸を荒らしまわったのである。
彼は「倭寇」として恐れられたが、このころの倭寇【本来は日本人の海賊の意】には日本人は一割程度しか含まれていなかった。こののち、王直は浙江総督胡宗憲(こそうけん)の策略にのせられて、1557年に平戸から帰国。投降すれば海外貿易を許すという約束だったが、彼は捕まえられ処刑される。その後、倭寇の報復的な襲撃が続くが、副総兵戚継光(せきけいこう)が浙江地方で規律厳格な農民兵を組織して、浙江や福建、広東の倭寇をつぎつぎと破り、60年代後半には倭寇はほとんど鎮圧される。

泣く子も黙ったジャンク船(倭寇海賊船?)
”幼少のころ、すねたり、ごねたり、すると(ジャンク船)が来るよと言われおとなしくなった記憶がよみがえります。(蒙古の来襲・倭寇の活躍が庶民の間で恐れられていたということが十分に想像できます”。(ジャンク船:本来は中国人が沿海・河川などで用いる運送船のこと)
明が海禁政策を緩和中国人の渡航と海外貿易を公認する
1567年*中国・・・福建省巡撫(地方長官)と沢民の要請で、明朝政府は中国人の海外貿易および海外渡航を禁じた海禁政策を緩和し、一部の条件をつけてこれらの活動を公認した。明は建国以来、王朝の管理による朝貢貿易以外は対外貿易を認めない鎖国政策をとってきた。とくに、倭寇が活発になった嘉靖期(かせいき)(1552ー66)には海禁が厳重に行われた。しかし、嘉靖末期の1564年に戚継光やゆ大猷らの活躍で倭寇が平定されてからは、海禁を解いて経済発展を促すべきだとの意見が出始めていた。このたびの緩和政策は、全面的解禁ではなく、日本への渡航は禁止され、硝石・硫黄・銅・鉄は海外への持ち出しが禁じられるなど制限つきのものだった。しかし、中国商は続々と南海方面に出かけて貿易を行い、福建省の海澄港は多くの貿易船が出入りしてにぎわうようになる

(長岡秀星さんのイラスト拝借)
この船は17世紀ごろの広東船。船首は平らで、帆は竹を裂いて編んだ網代帆。江戸時代初期、日本に来た、外国船を描いた「唐船図巻」にある絵??
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