倭寇、高麗沿岸に侵入2000人の海賊は日朝の海民

1350年2月  朝鮮 :倭寇の船団が高麗沿岸の固城・竹林・巨済(きょさい)・合浦(がっぽ)に侵入し、これと戦った高麗軍が300人を倒した。倭寇の各船には20〜40人が乗りこみ、2000人ほどの大集団で襲撃を行なったが、その中心には「三島(さんとう)の倭寇」とよばれる日本人がいた。対馬・壱岐・松浦(五島列島)などの島々に勢力を張っていた中小武士や漁民たちが中心となって活動していたのである。しかし、一団には、日本人だけではなく高麗人、とくに高麗王朝から卑賎視されていた下層民衆も参加していた。「倭人は1〜2割で、朝鮮人が倭服を仮に着て乱をおこした」ともいわれ、このころの倭寇は日本・朝鮮の海民が連合したものだったと見られる。

こののちも4月には100隻、5月には66隻の倭寇の船団が順天府を襲い、6月、11月にも襲撃が行なわれる。以後、倭寇の侵入が激化するが、この年が庚寅(こういん)の年であったことから「庚寅以来の倭寇」といわれる。倭寇の襲撃は毎年のようにつづき、1380年には、のちに李氏朝鮮を建国する李成桂と、倭寇の将軍で弱冠15,16歳の阿只抜都(あきばつ)が南原山城(なんげんざんじょう)で戦う。阿只抜都は優秀な将軍で、白馬にまたがって戦場をかけめぐり、李成桂を苦しめたが、最後は李成桂軍の矢によって殺される。

この戦いで高麗軍は1600頭の馬を捕獲したといわれる。1592年朝鮮王朝が成立するころには倭寇も沈静化し、倭寇対策は貿易振興などの懐柔策に変わっていく。