1370年 中国・朝鮮 :倭寇が明高麗の諸都を侵す。
明の国使、大宰府へ懐良親王倭寇禁圧を拒否

1369年 筑前 :明の洪武帝(42)が大宰府の懐良親王(かねよし)(41)のもとに国書が送られた。内容は、前年の即位を告げるとともに、倭寇の禁圧を求めるものであった。倭寇は1350年以降、活発な活動をくりひろげ、朝鮮半島だけでなく明もその攻撃対象となっていた。1366年には、高麗から幕府に対して倭寇の禁圧を要求する使節がが訪れたが、幕府は積極的な方策をとることができず、日本・明・高麗にとって、倭寇対策は大きな課題となっていた。

このころ征西将軍として九州の大部分を制圧し、最盛期にあった懐良親王、使節が携えてきた国書の中に「倭寇がつづけば太祖(たいそ)みずから兵船を出し、日本国王を討伐する」と書かれたのを怒り、これを拒否、明使はふたたび九州に上陸し、今度は京都に向かおうとするが、親王に抑留され、目的を果たすことができない。

1381年にも、親王のもとに使節が訪れる。このころ親王は大宰府を奪われ、矢部(福岡県矢部村)に隠退していたが、明が武力を背景に倭寇禁圧を求めたの対し、日本も敵を防ぐ用意があると述べてこれを拒否する。親王の軍事力の背景には海賊衆があり、倭寇と一体のものだったため、明使に対するこのような対応となったのである。倭寇はこののち、勘合貿易のかいしのともなう日明両国のの懐柔策によって鎮静化していく。