1375年 朝鮮:高麗の使者が来航して倭寇の禁圧を求めるが、将軍義満は使者を京都に呼び、拘留する
高麗使、倭寇、禁圧を要請。九州探題今川了俊は協力を約す

1377年9月 筑前:倭寇の禁圧を求める高麗の使節鄭夢周(41)が博多に来航した。南朝方の菊地氏と戦うために肥後桜井に陣を張っていた九州探題の今川了俊(41)は、急遽博多にもどり使節と会見した。高麗の使節は2年前にも来日し、幕府から私信の回答を受けていた。しかし、幕府には積極的な倭寇禁圧策をうちだすことはできなかった。この6月にも使節がやってきたが、病死したため、改めて鄭夢周が派遣されることになったのである。了俊は倭寇の禁圧が容易でないことを告げたが、自分の可能な範囲なら高麗に協力することを約束した。

使節の帰国のさいには、日本側の使いの僧信弘(しんこう)とともに、倭寇による高麗人の捕虜数百人を送還し、鎮圧のための軍隊を送った。了俊は、翌年に来日した使節の帰国のさいには230余人の捕虜を送還、大内義弘も186人軍勢を高麗に送る。その後、今川、大内の両氏は捕虜送還とともに武器を送り、高麗からは人参や金銀工芸品が送られてくる。使節の来日をきっかけとして、高麗との貿易が行なわれたのである。高麗に対する了俊の積極的な対応には、高麗との交易による利益の獲得と、南朝の軍事力の基礎となっている倭寇の打破という目的があったとみられる。