高麗で無血革命。李成桂が王位を獲得。李氏朝鮮建国。

1392年 朝鮮:高麗末期の政治的・社会的動揺に乗じて台頭した李成桂(58)が、群臣に推され禅譲(ぜんじょう)の形式で王位を獲得した。李氏は高麗末期に、女真人(じょしんじん)住地だった今の咸鏡道永興・咸興方面の高麗の流民からおこった。騒乱に乗じて女真人を征服し、優勢な武力をもって高麗に帰順。李成桂にいたって倭寇討伐などをきっかけに中央に進出し、一大勢力を築き上げた。明に対しては事大政策をとることをはかり、また旧勢力を掃討を目的とした。

田制(でんせい)の改革など種々の内政改革を運動をおこして、人心を掌握した。こうして李成桂は高麗の恭譲王(きょうじょうおう)から王位を譲られて太祖となり、翌年国号を朝鮮と定める。朝鮮半島を領域とする統一国家が完成していく。

倭寇対策の推進役今川了俊、捕虜送還で大蔵経を求める。

1394年7月13日 筑前:九州探題今川了俊(69)が、朝鮮使僧梵明に使者をつけて、倭寇が捕らえた659人の朝鮮人捕虜を送還した。ここ半世紀ほど、倭寇の朝鮮半島沿岸での活動が活発化し、食料の輸送船や備蓄倉庫の襲撃、沿岸住民の略奪をくり返している。捕らえられた住民は安価な労働力として、日本本土や琉球に売られた。また日本へ連れて来られた住民を捕虜送還の名目で送り返して、謝礼を受け取ることも行なわれていた。倭寇の活発化と南北朝の争乱が時期的に重なり、食料と人間の略奪は軍事力の補給につながることから、倭寇と南朝方とのつながりも推測されている。

朝鮮・中国は武力では倭寇を十分に取り締まることができず、南北朝合一後の日本側との外交折衝、貿易許可、土地・家財の給与などの懐柔策によって、沈静化に導いていった。その外交折衝の日本側当事者の一人が了俊であった。

10月6日 了俊の希望により、朝鮮は家鳩を3番(つがい)贈り、11日には使者を派遣して、捕虜の送還にたいする感謝の意を伝える。さらに了俊は12月に使者を朝鮮に送り、公家や武士の建立した寺院に奉納するため、仏教典籍の総集である大蔵経を求めている。このように了俊は、倭寇取り締まりの日本側の第一の功労者として朝鮮に優遇された。