朝鮮軍、対馬を急襲。倭寇への報復、応永の外冦

1419年6月26日 対馬:20日に突然対馬を襲撃し、各地を転戦していた朝鮮軍が仁位(にい)(長崎県豊玉町)に上陸、糠岳(ぬかだけ)で対馬軍とのあいだで激しい戦闘がくりひろげられた(糠岳の戦い)。日本側の被害は焼失した家1939戸、斬首されたもの114人。朝鮮軍側も百数十人が戦死したとされる。「応永の外冦」といわれるこの朝鮮軍の対馬来襲の背景には、5月5日にはじまる倭寇の朝鮮襲撃があった。

1392年、李成桂が李氏朝鮮を建国以来、倭寇の禁圧と懐柔策が功を奏して倭寇の活動はしばらく沈静化、日朝間も友好関係を保っていた。しかし、倭寇禁圧に功績のあった対馬守護宗貞茂が前年4月に死亡すると、倭寇の動きがふたたび活発化してきたのである。

朝鮮側は5月5日の事件を重視し、報復措置として今回の対馬襲撃を決定した。6月17日朝鮮の巨済島を出発した李従茂(60)率いる227隻の船団は、20日に対馬に到着、対馬島民は最初この船影を倭寇の帰還と誤認し、祝宴の準備をしたといわれるが、大軍が浅芽湾口に姿を現すに及んで事態の急を悟った。

朝鮮軍は交通の要衝をおさえ、ついにこのたびの激戦の火蓋が切られた。両軍ともゆずらず、戦闘は膠着状態に入ろうとしていた。そこへ守護宗貞盛(36)の「台風シーズンがまもなくやってくる」という警告書が届き、朝鮮軍はやむなく撤兵を決意する。朝鮮側ではこの戦闘を「己亥(きがい)の東征」と呼んでいる。