日本船、朝鮮を襲撃。関係ふたたび緊張。困惑する対馬の宗氏

1544年 朝鮮:慶尚道の蛇梁鎮(だりょうちん)で、この日未明、日本船20隻あまりが東の江口から襲撃し、背後からは200人あまりが城を囲んで水軍一人を殺害、10人を負傷させる事件がおきた。甲辰の変である。朝鮮政府は日本国王と大内・少弐両氏をのぞく日本人との通交を断絶する措置をとり、対馬の宗氏は、1510年の三浦(さんぼ)の乱後につづいてふたたび朝鮮との関係を断たれることになった。

宗氏は三浦の乱後、日本国王の幹旋のかたちで1512年に壬申条約を結び、通交を回復していた。しかし、渡航船数の半減などそれ以前に比べ通交内容が大幅に縮小されていたため、その拡大を狙っていた矢先の出来事だった。

通交断絶は、1547年に丁未(ていび)条約が結ばれるまで3年あまりつづく。丁未条約では、交易港がこれmで船の出入りがもっとも多かった斎浦(せいほ)から釜山浦に変更され、歳道船の数も従来の25隻にすえおかれるなど統制のゆるむ気配はない。


朝鮮半島沿岸に脅威!倭寇の70余隻、達梁浦を襲撃

1555年 朝鮮:全羅道南海岸の達梁浦(たつりょうほ)が、倭寇の頭目である中国人王直(おうちょく)の率いる70余隻の船団に襲撃され、大被害を受けた。この年は明の嘉靖8かし)34年にあたるが、東シナ海における倭寇の猛威はピークに達しており、朝鮮や明側では、一連の王直の行為を「嘉靖の大倭寇」といって恐れた。

王直はもともと塩商だったが、密貿易に転じ、禁制品をもって日本や東南アジア諸国と交易、1540年ごろから肥前の五島を根拠地として莫大な利益をあげていた。それが明の海禁政策によって海賊行為を働くようになり、中国大陸や朝鮮半島沿岸を襲うようになった。

1512年の壬申条約、47年の丁未条約で、日本が朝鮮へ商いのため派遣できる歳道船は25隻に制限されていた。これまで事実上朝鮮貿易を独占してきた対馬の宗氏が、歳道船の増加と交易品の制限緩和を朝鮮側に求めたため、王直はそれに対抗しようとしたのである。

朝鮮側は、たび重なる倭寇の襲撃ですでに兵制は崩壊、その対策のため宗氏に助力を求めざるを得なかった。2年後、倭寇討伐を条件に、宗氏とのあいだに歳道船を5隻増加するなどの丁巳(ていし)条約が実願する。


倭寇対策の手引き「ちゅう海図編」民国で完成

1562年 中国:倭寇対策に手を焼いてきた明の浙江総督胡宗憲が地理学者の鄭若曽に命じて編纂させていた「ちゅう海図編」全13巻が、このほど完成した。鄭若曽は前年、倭寇関係者から直接収集した情報なぢにより「日本図ちゅう」を著していたが、本書にも同じ情報が全面的に活用されている。

内容は、世界図や、明の沿岸地方図などの地図を中心とし、日本との交通・貿易の沿革、日本の事情、明の沿海における防備施設の状況、倭寇の歴史や被害、その動静などを総括的に記述したもの。このころの日本人が明から生糸100斤を銀50〜60両で買い、帰国後約10倍の値段で売りさばいていたことなど、日明貿易の実情にも詳しい。海防のための倭寇研究書として著された本書は、以後、中国の日本研究に多大な影響を与える。