国難一号「元寇の役」 国難2号ペリー1852−韓国独立1952年 100年 国難3号国境の危機

隣国ロシアの動向 東シナ海 対馬が危ない 対馬が危ない・その二 対馬が危ないその三 対馬が危ないその四
排他的経済水域密漁 対馬が危ないその五 対馬が危ないその六 国会議員が動いた 意図的「領海侵犯」

モンゴル帝国    
 
平治の乱(へいじらん)で平氏が勝ち、源頼朝(よりとも)が伊豆(いず)にながされたころ、モンゴル高原に、一人の男の子が生まれました。 その名はテムジン。この子が成長して、世界をふるえあがらせるように なるとは、だれが想像したでしょうか。 テムジン、のちのチンギス=ハンは、十三世紀のはじめ、モンゴル高 原で狩と遊牧の生活をしていたモンゴ〜の部族を統一して国を建てました。かれの率いる騎兵隊は、中央アジアを征服し、西アジア・南ロシアにも侵入しました。その子孫は、中国北部・南ロシアを征服し、東ヨーロッパにも遠征軍を送りました。
                          
 その後、モンゴルは、十三世紀の後半には、高麗をしたがえ、五代目のフビライのときに、都を今のペキン(北京)に移し、国の名を「元」と定めました。フビライは、南宋を滅ぽして中国の全土を支配し、世界史上空前の大帝国(モンゴル帝国)を築いたのです。 元の時代は、東西の貿易や文化の交流がさかんに行われました。そのため、陸路や海路を経て、西アジアやヨーロッパから、使節や宣教師、商人などが元をおとずれるようになりました。日本(ジパング)を、黄金の島として、ヨーロッパに紹介したイタリア人のマルコ=ポーロも、その一人です。

 朝鮮半島では、十世紀のはじめに高麗が国をたて、鴨緑江にまで勢力をひろげ、はじめて半島全体を統一しました。しかし、その後、高麗はたびたびモンゴルの侵略を受け、約三十年間にわたって、モンゴルの大軍にはげしい抵抗を続けましたが、一二五九年、ついに降伏しました。

 フビライは、つづいて日本もしたがえようとし、高麗に、日本遠征のための食糧の調達や兵士の徴集、それに軍船をつくることを命じました。しかし、元の支配に反対する高麗の軍隊の反乱がおきるなどして、元の日本遠征はひきのばされました。
                          
 これよりさき、フビライは、高麗を通じて日本にも服属をもとめて、文永五年(一二六八)には、最初の元の使節が国書を持参して、通交をもとめてきました。しかし、朝廷と幕府はこれを拒否し、返書をだしませんでした。その後も、たびたび使者を送ってきましたが、執権北条時宗はこれを追い返してしまいました。

これは当時の指導者が、断固たる決意を示したものであるという見方もありますが、一方では、いかに国際的感覚にとぼしく、外交ルートにも無知であったかという見方もできます。

とにかく、当然予想される蒙古襲来に備えての防衛の準備をしなければなりません。まず、朝廷や幕府は、異国のわざわいをはらう祈頑を主な神社や寺でしました。現在からみると非科学的ですが、当時の神々の意志は絶大なものでした。かんじんの防衛策は、「はやく蒙古襲来の防備をせよ。」との命令はでていますが、史料では大きな動きはありません。まして、国防の最前線となる壱岐や対馬に関しては、新たな防衛強化策もないまま、時は過ぎていきました。はたして、たびたびの国書にもかかわらず、返事がこないのに怒ったフビライは、ついに日本征服を決意しました。

文永の役
文永十一年(一二七四)十月三日、元の大軍は、朝鮮の合浦(がっぽ)を出発しました。元軍の兵力は、蒙古人・女真人(じよしん)・中国人など約二万人、高麗(こうらい)軍八千人と、梢工(しようこう=かじとり)・水手(すいしゅ)(かこ)など六千七百人。船は、大船三百艘、快速船三百艘、汲水小舟三百艘、合計九百艘。総司令官は洪茶丘(こうちやきゆう)と劉復亨(りゆうふつこう)。高麗軍は金方慶(きんぽうけい)が指揮していました。

遠征軍は、対馬・壱岐を侵略しますが、史料は残っていません。鎌倉時代の終わりごろにできた『八幡愚童訓』(はちまんぐどうきん)にわずかに書き伝えられてい
るぐらいです。 
       
十月五日の午後四時ごろ、多数の軍船が佐須浦=さすうら (小茂田=こもだの海岸)の海上に姿をみせました。急報をうけた守護少式氏の代官である宗助国は、八十余騨をひきつれ、深夜、現地にかけつけました。

そして翌朝、夜明けごろ、通訳の真継(まつぐ)を使者にたて、ことの子細をたずねようとしたところ、船からさんざん矢を射かけられました。やがて大船七、八艘から千人ばかりの敵が上陸を開始しました。助国らはこれをむかえ撃ち、必死に戦いましたが、二、三時間の激戦ののち、全員戦死しました。

この間、小太郎と兵衛次郎がようやくぬけだして、博多へ報告にいきました。対馬での組織的な戦闘はこれで終わり、その後、対馬の全島が戦場になったかどうかは知ることができませんが、九日間も対馬にいたのですから、広い地域で被害をうけたのではないでしょうか。

             
 
壱岐、襲わる
対馬が、さんざんにふみにじられたあと、十月十四日の申(さる)の刻(午後四時ごろ)、元の大軍はその姿を、壱岐の北西海岸沖に現しました。
    
 壱岐国の守護は、対馬と同じ少式氏ですが、壱岐をとりしきっていたのは守護代の平景隆(たいらのかげたか)です。 元軍は、まず二艘の軍船から四百人ばかりが上陸し、赤職(あかはた)をかかげ、三度おがんだといいます。

元軍襲来の報告を聞いた平景隆は、新城村の樋詰城(ひずめじょう)から家来百余騎をひきいてかけつけ、庄の三郎という者の城の前で、敵とであいました。すぐに矢合わせになり敵の矢は二町(220メートルぐらい)ほどの射程があるのに、日本側の矢は一町(109メートル)ぐらいしか飛ばないので、味方にたちまち二人の負傷者がでました。

それから、景隆の指揮のもと、壱岐軍は勇敢に戦いました。しかしなんといってもあまりにも少数です。やがて、夜になると、景隆は生き残った兵を集めて、樋詰城に引き上げました。

 翌十五日の早朝、元の大軍は樋詰城をとりかこみ、息もつかず攻めたててきます。カの限り防戦につとめますが、援軍のこない景隆たちの敗戦は、もはや時間の問題です。やがて、もえあがる城のなかで、景隆は家来の宗三郎に、元軍の壱岐襲来を太宰府に報告することを命じて、自害しました。残ったわずかの家来たちも、全員戦死しました。

日蓮は、「一谷入道御書=いちのさわにゆうどうごしよ」という手紙のなかで、対馬・壱岐のようすについて、次のようにのべています。
 
「去る文永十年十月に、蒙古国から九州へ攻め寄せてきたとき、対馬の者は守りを固めていたが、宗ノ埠馬ノ尉(宗助国)が逃げたので、〔 蒙古軍は〕百姓等を、男をば殺したり生取にしたりし、女をば取り集めて手をとおして (掌に穴をあけて綱をとおして)船に結いつけたり、生取にしたりした。一人も助かった者はなかった。壱岐に攻め寄せたときもまた同じであった。」

 日蓮自身が、現地にいたわけではありませんから、この記述はもちろん伝聞でしょう。宗氏が逃げたと書いてありますが、これは聞きあやまりでしょう。対馬・壱岐の被害は、元軍がこれまで行った殺りくの歴史を考えると、このていどのことはあっただろうと思われます。

元軍、本土へ
 壱岐を侵した元軍は、やがて松浦半島の沿岸の浦々と島々も侵しました。ここでも同じようなことがくりか えされ、この地方にたてこもった松浦党の武士も数百人の死傷者がでました。 十月十九日、博多湾に進入してきた元軍の大船隊は、海上で一夜をあかし、翌二十日、上陸を開始しました。

博多では、少式景資(しようにかげすけ)が大将として陣をはり、博多に進撃する元軍をむかえ討ちました。元軍は太鼓・どらを打ち鳴らし、ときの声をあげて、集団でおしよせました。

毒をぬった矢がはなたれ、火薬をこめた「てつぽう」がうたれました。一騎打ちを得意とする武士は、名のりをあげて突進しますが、馬はおどろき、とびはね、苦戦の連続です。戦争のしかたも、戦争にたいする考えかたも、元軍と日本軍では全くちがうのです。
 
菊池武房(きくちたけふさ)・竹崎季長(たけさきすえなが)らの活躍もおよばず、博多の各所に火の手があがり、箱崎(はこぎき) の八幡宮も焼けおち、日本軍は太宰府までしりぞきました。

 こうして、全く一方的に戦いをすすめていた元軍が、夜になると、どういうわけか、軍船に引きあげました。そして、二十一日の朝になってみると、昨日まで博多湾をうめつくしていた元軍の大船隊が、うそのように姿をけしているのです。

 博多湾から姿をけした元軍の大船隊は、その後、一か月以上もかかって、十一月二十七日に、高麗の合浦にかえりました。高麗王は、使者をだして、これをねぎらっています。元軍の約四万人のうち、かえらなかったものは、一万三千五百人でした。そして、日本からとらえてきた少年・少女二百人を高麗の国王や后に献上しています。

博多湾から合浦まで一カ月以上の日数がかかっているのは、おそらく大時化(おおしけ)にあい壱岐・対馬にたちより軍船の修理をしていたのでしょう。そして、かろうじて生き残っていた島民に襲いかかったのではないでしょうか。戦利品として国王に献上された二百人の幼い子供たちは、壱岐・対馬の少年少女だったと思われます。

 これまで、元軍の急な撤退の原因は、二十日夜半におこつた大暴風雨のためといわれ、これこそ「神風」とされてきました。しかし、気象学者の荒川秀俊氏は、この日の「神風」を否定しました。

これ以来、いろいろな論争がありましたが、風雨となったのは、十月二十日の夜から壱岐・対馬の近くにさしかかるあいだまでであることはたしかだと思います。

 
弘安の役

文永の役で、元軍のつよさをみせつけられた
幕府は、北部九州の防備を強化しました。博多湾を九州の御家人が定期的に警備する異国警固番役の制度をもうけました。博多湾沿岸には、石築地(いしついじ)といわれる高さ二メートルの防塁(ぼうるい)を築きました。この防塁は、現在でも「元寇防塁」とよばれて残っています。

 
しかし、文永の役で荒れはてた壱岐・対馬には、防衛を強化した形跡はなく、わずかに狼煙台(のろしだい)を設け、見張りの兵をおいたにすぎません。
                        
 建治(けんじ)元年(一二七五) と、弘安二年(一二七九) に、日本の服従をも
とめる元の使者がきました。ところが、幕府はこれらの使者を、
鎌倉の龍口(たつのくち)と、博多で、死刑にしてしまいました。これを知った元の宮廷は、驚きと怒りで、「日本、討つべし」「ただちに日本へ兵を送れ」 の声が高まり、フビライもついに第二回日本遠征の決意をかためました。

 
フビライは、遠征の方針を三点にまとめ伝えました。
@
洪茶丘(こうちやきゆう)と折都(きんと)は、蒙古(もうこ)人・高麗(こうらい)人と中国北部の漢人からなる四万人をひきいて合浦(がつぽ)から出発する。(九百艘の軍船)
               
A范文虎(はんぶんこ)は南宋(なんそう)人からなる蛮子(ばんし)軍十万人をひきいて江南(こうなん)から出発する。(三千五百艘の軍船)
                            
Bそして両軍は、日本の壱岐で合流し、一挙に日本を攻める。 

 さらに出陣にあたっては、諸将たちの不和をいましめ、一致協力をちかわせました。また、占領地の百姓をむやみに殺してはならぬと命令しています。そして、鋤(すき)・鍬(くわ)、種(たね)モミなどの農業用具を準備させ、長期戦にそなえています。

第一次壱岐合戦
弘安四年(一二八一) 五月三日、まず東路軍が合浦(がつぼ)を出発しました。 
 しかし、東路軍は、途中、巨済島(きよさいと)にしばらく碇泊して海上のようすを
みています。五月二十一日ごろ対馬の沖合に姿をあらわし、世界村大明浦(せかいむらだいみんぼ)から上陸をしています。世界村がどこであるのか、はっきりしませんが、対馬の佐賀村ではないかといわれています。その後、壱岐島にくるのですが、上陸した日が諸説まちまちでわかりません。
                           
 『高麗史』によると、五月二十六日、壱岐の忽魯勿塔(くるもと)(勝本町の浦海(うろみ)海岸)を目ざしている途中、大風にあって、百十三人の将兵と水夫たち三十六人が行方不明となっています。
                 
 伝承によれば、当時、壱岐には鎮西奉行少武経資(ちんぜいぶぎようしようにつねすけ)の子である少武資時(すけとき)が、守護代として在島していたといわれています。少武資時の居城は、瀬戸浦(せとうら、芦辺町)の船匿城(ふなかくしじよう)であったと伝えています。

おそらく、忽魯勿塔(くるもと)方面から上陸して進軍してきた元軍と、瀬戸浦海岸から上陸してきた元軍の両方から攻撃をうけ、激戦のすえ、資時はじめ
守備隊全員が戦死したのでしょう。資時は十九歳、芦辺町の少弐公園には、彼の墓があり、壱岐神社にまつられています。
                     
 ただ、「少武家譜」には「資時(覚恵孫・経資男(つねすけ)弘安四年輿蒙古戦於壱岐島前討死」とあることから、資時は海上での戦いにおいて討死したとも考えられます。
  
 『八幡愚童訓(はちまんぐどうきん)』には、 
「弘安四年五月二十一日、蒙古の賊船おそい来たる。こたびは、蒙古・大唐・高麗以下国々の兵等を駆具して、凡そ三千余艘の大船に、 十七、八万の大衆のりつれてぞ来 けり。その中に高麗の兵船四、五 百艘、壱岐対馬より上りて、見かくる者を撃ち殺しくる者をうち殺し、狼籍す。島民ささえかねて妻子を引具して深山に逃げかくれにけり。さるに赤子の
泣声をききつけて、さぐりもとめて捕えけり。さりければ片時の命をおしむ世の習ひ、愛する児をさし殺して逃げかくれするあさましき有様なり。」

    
 と、文永の役と同じようなむごたらしいようすを伝えています。つまり、野獣のような敵兵をみて、山奥に逃げた島民たちも、赤んぼうの泣き声で敵兵から発見されるのをおそれて、かわいい自分の子をさし殺さなければならなかったのです。「むごい」ということばは、このような残酷な悲劇のなかから、うまれてきたともいわれています。
     

第二次壱岐合戦

東路軍は、江南軍と六月十五日に壱岐で合流して、それから日本を攻めるという方針でした。ところが、東路軍はどういうわけか、単独で日本へ攻めいる行動をおこしました。

 博多湾では、六月六日から十三日ごろまで戦いが続きました。海上の戦いでは、日本軍が敵の船団を昼も夜もおそいましたが、大きな戦果はえられませんでした。陸上の戦いでは、志賀島(しかのしま)を中心に両軍が入りみだれて激戦が続けられ、両方とも多くの死傷者をだしました。
                         
 やがて、元軍の船団では、連日の著さと疲れなどから疫病(えきぴよう)が流行しはじめ、病死するものが続出したので、博多湾から壱岐へしりぞきました。 東路軍が壱岐へしりぞいたのを知った日本軍は、六月下旬、壱岐にいる元軍の大船団めがけて攻撃をかけたのです。 これが、
第二次壱岐合戦です。このとき、戦場となったのが、壱岐の瀬戸(せと)浦、芦辺(あしべ)浦を中心とした海上一帯です。
           
 参加したのは、
薩摩(さつま)・肥前(ひぜん)・筑前(ちくぜん)、肥後(ひご)
の御家人(ごけにん)です。本土から船で玄界灘(げんかいなだ)を渡って次々と攻撃をかけたのです。
            
 六月二十九日、薩摩国の島津長久(しまづながひさ)を首将する薩摩衆が壱岐の元軍を攻めました。これに続いて、肥前国の松浦党の武士たちも参加しました。この知らせを受けた大宰府では、少武経資(つねすけ)を大将とした一団を壱岐に送り、日本軍の指揮にあたらせました。この戦いで、少式資能(すけよし)(経資の父)は高齢をおして出陣し、重傷をうけ、後日息をひきとっています。

このほか、松浦党、彼杵(そのぎ) ・千葉・高木氏などや龍造寺(りゆうぞうじ)氏など多くの御家人が、壱岐攻撃に参加し、七月二日まで続きました。
  
元軍壊滅する
   
一方、江南軍は出発が予定よりおくれて、六月になってやっと中国の慶元(けいげん)(現在の寧波=にんぽう)を出発しました。
                  
七月にはいると、平戸や五島列島に到着し、東路軍と合流することができました。両軍の兵員は十四万にたっし、船艦は五千艘にちかい大軍です。その後どういうわけか、二十日以上ものあいだ江南軍と東路軍は、平戸から五島にかけての海上に浮かんでいました。そして二十七日になって、その主力は肥前の鷹島(たかしま)へ移ったのです。いよいよ全面的な攻撃が開始されようとしていました。

 こうして七月三十日をむかえました。風が吹きだし、夜になると暴風雨となり、吹き荒れました。太陽暦八月二十三日、大型台風が北部九州をおそったのです。嵐は元の大船団をほんろうし、多くの船を破壊しました。兵士たちは荒海に投げだされ、おぼれて死にました。

 その後、鷹島周辺では、日本軍による残敵掃討戦(ざんてきそうとうせん)が行われました。生き残った元軍の兵士たちは、捕虜となったり、逃げ帰ったりしました。
     
戦死したり、溺死(できし)したもの元軍十万、高麗軍七千。十四万の大軍はその四分の三を失いました。

こうして、元の第二次日本遠征は失敗に終わりましたが、壱岐、対馬をはじめ、日本側の受けた損害も、けっして少ないものではありませんでした。

蒙古襲来の影響
            
 中世の日本にとって、蒙古襲来(もうこしゆうらい)という大事件は、
本格的な外国軍の侵攻をうけた唯一の経験でした。たしかに壱岐・対馬をはじめ九州に深い爪痕を残しました。大人を震え上がらせ、泣く子どもをだまらせた言葉に「ムクリ・コクリ」があります。

 ムクリはモンゴル兵を、コクリは高句麗兵をさし、人々を脅(おぴや)かす言葉で六百年後まで使われていました。このほか「いたましい」とか「残酷な」という意味の「むごい」という言葉も、この蒙古襲来の悲劇のなかから生まれてきたといわれます。

 蒙古襲来に登場する武士団の活躍や、はなばなしい戦闘場面は史料にも残り、長く語り継がれています。反面、蒙古に追われて逃げまどい、泣き叫んでいる島民の悲惨な光景はほとんど忘れられています。蒙古に生け捕りになり、遠く異境(いきよう)の地に連れていかれた少年少女の運命など、どうなったのでしょうか。

 わずかに島に残っている伝承や遺跡によって、外寇(がいこう)で苦しみ、苦渋(くじょう)と迫害(はくがい)にみちた島民たちの歴史をたどるしかありません。                                
 蒙古襲来は、神風などのカによってこれを防いだのだという誤った歴史的風潮もただしていかねばなりません。この外寇の結末は、神風という幻想を遺産として残し、後世まで多くの日本人をしばり続けたことは事実です。
                             
 『蒙古来る』 のなかで
僧知真(ちしん)はいっています。
  
「なんの神徳、なんの仏カ。神様や仏様は一人一人、一家一家、一国一国の利害損得(りがいそんとく)には一向かまわしゃらんよ。とくに日本が可愛ゆいとて、 風を吹かしてくださるものか。運よ、運よ。ただ運がよかったというにすぎぬ。いつも運がよいとはかぎらんぞな。神様が助けてくださるなどと思うていたら、えらいことになるぞな。」

  蒙古襲来という大事件は、鎌倉幕府が再三にわたるモンゴルの使節を問答 無用で追い返し、あげくには使節の首を斬るという暴挙にでたことから はじまりました。蒙古の大軍が押し寄せてくるのはわかりきっていながら、
国境の島には何ら防備を強化していません。中央権力は、初めから 壱岐・対馬を見捨てていたのです。

 この後、登場する壱岐海賊衆の活動は、全く頼りにならない中央権力に対する決別の行動だったかも知れません。


コメント
時の北条時宗を支える人は宋から招いた無学祖元であり、かなりの元の情報は持っていたと考えられる。それをあたかも外交音痴として批判してフビライの怒りを誘発したのは日本人に原因を求める姿は今日の原爆投下、東京大空襲も日本人に原因があるとすることに・・・なんだか似ているように思われてならない。しからば、元の配下に下っていたならばどう歴史は展開したのか、話し合いで解決できる相手だったのか・・・。

文永の役と弘安の役に対する鎌倉幕府の対応は明らかに異なる。結果は偶然か運か神風かに救われたとは言え、壱岐対馬等の通過地の犠牲は余りあるものの、一度経験した日本人武士の対応(弘安の役)は今も心を打つ。私見ながら、ここに戦後の歴史から北条時宗が消えていたことの意味(不戦・平和のノーモアヲー)がわかるような気もすると共に今日の日本社会が失ったものもここに見る想いがする。歴史を無視する民族は亡びるとも。 Iron1

情報源:「壱岐の風土と歴史」中上史行著 ¥1500 壱岐市文化会館蔵