カミサマ ホトケサマ :神仏の共存・共栄=日本文化そのもの

日本人の叡智「神仏習合の元祖」

皇室と日本人
本地垂迹
 日本固有の神祇信仰と、外来の仏教信仰との調和・融合をはかろうと、神と仏との関係を説くために編み出された理論。本地垂迹という語は法華寿量品(じゅりょうぼん)にあり、理想化された絶対の釈迦本地、現実に生きた生き身の釈迦が垂迹とされている。これが日本では神仏の関係に応用され、平安時代には仏菩薩(本地)が駆りに神の姿となって現れた(垂迹)とする本地垂迹説がおこって、阿弥陀如来の垂迹が八幡神、大日如来が垂迹大神などとされた。一方、修験者の山岳修業によって山の神祇とと仏教の集合もすすみ、やがて、中世には、どの神社にも本地仏をあてるようになった。鎌倉時代以降、神道の側から逆に本地が神、垂迹が仏という仮本地垂迹説もおこり、室町時代には、神道唯一純粋性を主張した吉田兼倶(かねとも)の唯一神道が現れて本地垂迹説の時代は終わった。しかし、大勢として神仏習合状態は明治政府の神仏分離策まで続いた。(情報源:日本全史P−177)

神仏習合の象徴
薬師寺に
八幡三神像が制作される

この頃(900年) 奈良 薬師寺の別当栄紹大法師が宇佐神宮の八幡神を勧進し,寺の南に鎮守八幡社を建立した。さらに、応神天皇の化身である僧形八幡像を中心に左右に天皇の母の神后皇后像と天皇の妃の仲津姫命(なかつひめのみこと)像を配する八幡三神像が製作され、八幡社に祀られた。

仏教信仰と日本固有の神祇信仰が融合・調和した神仏習合は,平安時代に入ると、仏はかりに神の姿となって現れるという本地垂迹説を生み出し、阿弥陀如来の垂迹は八幡神、大日如来の垂逆は伊勢大神と考えられるようになる。八幡三神像は仏教と八幡信仰との習合を表現したものである。
薬師寺の八幡三神像は、いずれも檜の一木造(いちぼくずくり)神聖視された同一の材から木取りがなされており,その点,空海が指導して作製した東寺八幡三神像と同じである。(P160日本全史)


人心一新の期待こめ
延喜式
完成後40年ぶりに施行

   
967年7月9日 大納言兼民部卿(だいなどんみんぷきよう)藤藤原在衡(ありひら)は,天皇の勅命をうけて延喜式50巻を
5畿内諸国司に頒布することを命じた。
           
 式とは,刑罰を定めた律や行政を定めた令などを施行するための細則で,必要におうじて出されている。延喜式は,藤原忠平らにより編纂され,すでに927年12月26日に完成していたが,完成後40年間も施行されなかった。これは,内容の大部分が弘仁式(こうにん)と貞観(じょうかん)式を受け継いだものであり,施行を急ぐ必要がなかったためのようである。今年の5月,21年に及ぶ村上天皇の時代が終わり,18年ぶりに関白が復活することもあって,人心一新の意味をこめての施行と推測される。
 律令政治を運営するにあたっての,細則を詳細に規定した延書式は政治にたずさわる公卿の必携の書として重んじられるようになる。(P-172日本全史)


時代背景
丹生都比賣神社 〒649-7141 和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野
  延喜式内名神大社。通称天野神社と呼び、別に丹生神社、丹生高野明神、天野四社明神とも称される。明治6年県社、大正13年官幣大社。

高野山との関係
弘法大師空海は丹生都批賣命の導きで、高野山に真言密教の根本道場を創建したとされる。以来、丹生の神は高野山真言宗の守護神として崇敬されている。高野山・大師霊廟域内や京都・東寺境内に神社として狩場明神とともに祀られているという。
正に中世の神仏習合の形態である。