「カミ」と「ホトケ」の共存共栄

一種の幸福論だった
古代仏教

 
日本が仏教を入れることになった直接の原因は、蘇我稲目(そがのいなめ)とその二人の娘であったといってもよいであろうが、この稲目が日本の神様を粗末にしたということはなかった、というところが面白いところである。それどころか、ひじょうに篤く敬っていたらしい。 稲目の仏教導入は、やはり当時の国際政治の絡み合いで、信教の保護の必要があったからであろう。 仏教を信じた天皇もカミを尊重し続けたことは先に見たとおりである。そこで興味があるのは、日本の古代の律令が出来てきたときに、仏教がどのように扱われたか、ということである。
           
 大化改新(
六四五年)は、聖徳太子が亡くなられてから専横を極めた蘇我氏を、皇太子であられた中大兄皇子「なかのおおえのおうじ」(のちの天智天皇)が滅ぼされた一種のクーデターであった。クーデターのあとに一種の国体宣言のあることは、アメリカ独立、フランス革命、ロシア革命、明治維新などに見られることであって、それを日本が七世紀の半ばごろにやったということである。
                     
 このときの総参謀になったのが中臣鎌足「なかとみのかまたり」(のちの藤原鎌足)である。鎌足の先祖は蘇我馬子に滅ぼされた中臣勝海(かつみ)であり、鎌足の母もまた、そのとき滅ぼされた物部守屋(もののべのもりや)の子孫であった。父系から見ても母系から見ても、ホトケ様支持派に滅ぼされた神代以来のカミ様派の反撃のように見える。それが単なる国粋派の捲き返しでなかったところが面白いのだ。鎌足がクーデターの準備をしていたころのプレーソになったのが、なんと聖徳太子によって大陸に送られて帰朝した新知識人である僧旻(そうみん)や南淵請安(みなぶちのしようあん)であった。

 大伴氏や中臣氏は、元来は、反大陸・国粋党のはずであったのだが、一たび政権を握るや、大陸の制度に倣った政治機構を作り上げたのである。その新政府の要職には留学生が参加していた点、幕末の壊夷派が、一たび国政を執るや、開港にすりかえた、あのやり方とよく似ている。したがって、明治政府が幕府の開港政策をさらに推し進めた開化政策を採ったように、大化改新の政権は、蘇我氏の開明政策をさらに進めた大陸風の政治をやり出し、その論理的結論として、大宝律令(たいほうりつりよう) が出、その改修版としての養老律令が出て、古代律令国家が成立するのであるが、その古代律令における仏教の地位こそ、まことに日本的であった。
    
 その僧尼令(そうにりよう)の第二十七条に、次の規定がある。 
        
「オヨソ僧尼タルモノ、上ハ法象(ホウシヨウ)ヲ観、カリニ災祥(サイショウ) ヲ説キ、語(カタル)コト国家二及ビ、 百姓ヲ妖惑(ヨウワク) シ、ナラビニ兵書ヲ読習シ、殺人奸盗(カントウ)ヲナシ、オヨビ詐(イツワ)リテ聖道ヲウルト称スル者ハ、マタ法律ニヨリ、官司二付シテ罪二科ス」 

ということは、仏僧たちが天文を見て、吉凶を述べたり、国家のことを語って人民をまどわせたり、治安に害のあることをしたら、処罰されるということである。また、「オヨソ僧尼ノ吉凶ヲト相(ボクソウ)シ、マタ、小道・巫術・療病スルモノハ、ミナ還俗(ゲンゾク)セシム」ともある。
               
 つまり仏教徒は小道をなしてはいけない、つまりお守札など売ってはいけない、おまじないや、お御籤をやってはいけない、青凶禍福(きつきようかふく)を説いてはいけない、病気の治療に関係してはいけないとされていたのであった。 実際にはともかく、建前としての仏教は、一種の幸福論というべき宗教的哲学であり、個人が善根(ぜんこん) を修めて前世の宿業(しゆくごう)を断って、よい後生を得ることのようであった。
       
 これに反して陰陽道(おんみようどう)のほうが青凶を占い、わざわいを除く仕事をしていたのである。陰陽道のほうは、いろいろな自然界の現象などは、天に代わって政治の善し悪しを反応して見せるものだ、という立場でやるのだから、はじめから、日本のカミとも矛盾しないで、宮廷でも重く用いられていた。この陰陽道のほうは足利時代ごろまでに、その機能の大部分が仏教のお寺に取られてしまったから、われわれにはピンとこないけれども、古代においては、きわめて重要な役割を果たしていたようである。


律令に拘束されない
天皇の行動
                            
 
ところが建前と実際が喰い違っても平気というのが日本人の特色というべきか、律令で仏僧の国家関与を禁じながら、片方では、どしどし仏教関与を推し進めていったのであった。 それは当時、朝廷で主として使ったお経の種類を見ればわかる。つまり国家の安泰を祈り、国民の豊楽を祈る金光明最勝王経「こんこうみようさいしようおうきよう」(金光明経の新訳一〇巻本のこと)や仁王経(におうきよう)が盛(さか)んに用いられたのである。                                                      
 金光明経は国家鎮護を趣旨とするお経である。このお経が広まれば、仏の大光明によって、国王は無病にして災厄なく寿命長遠(ちようおん)、怨敵退散して兵士は勇健、人民は安穏豊楽(あんのんほうらく)になるという結構なお経であるので、たときの詔にも、聖武天皇の天平十三年(七四一)に、諸国に国分寺を創立せしめられたときの、詔にも、「コノ経王ヲ講宣読諦シ、恭敬供養(グキヨウクヨウ)シ流通セバ、ワレラ四王、常二来ッテ擁護シ、一切ノ災障ミナ消殄(ショウテン)セシメ、憂愁疾疫(シツエキ)モマタ除キ差(イ)エシメンソ……」 というこのお経からの引用があり、この経を金字で写して塔ごとに置かしめたのであった。
                                    
  これと並んで、奈良時代から平安時代にかけて多く読まれたのは仁王経(におうきよう)であった。このお経は詳しくいえば、仁王護国般若波羅蜜多経(はんにやはらみつたきよう)という。 仁王とはお釈迦様がまだ生きていたころに、すでに仏教を信じて、それを外敵から護ってくれ た諸国の国王のことである。 それが、このお経を国家に災難が現われたときに読鐘誦(どくず) すれば、それを免れることを得るというのである。
                  
  いずれも律令に反したことを天皇自らやっていることになるのだが、これは問題にされなかったらしい。だいたい、律令自体には天皇に関した規定がないのであるから、律令などに拘束さ  れなかったのかもしれない。
                                 
  昭和の軍人も、「軍人は政治に関わらず」などという軍人勅諭(ちよくゆ)を一兵卒にまで暗誦させながら、現役の陸軍大臣が総理大臣になっても、当人も国民も平気だったのだから、日本人は古代から、 成文律を忘却できる国民だったのかもしれない。


揺るぎない
カミの地位
 
しかし、天皇がいくら仏教を信じたからといって、日本には古来の神々がいて、祭政一致だったはずである。これはどうしたのだろうか、というと、それはそのまま、依然として盛大に行なわれたらしい。 すなわち、仲春(ちゆうしゆん) (旧二月)には祈年祭(としごいまつり)をして農事のはじめに当たって五穀成就(ごこくじようじゆ)を祈り、季
春(りしゆん)(旧三月)には鏡花祭(はなしずめ)をやって疫病神をおさえる。次に風神(ふうじん)祭、水神(すいじん)祭をやって大風の吹かないよう、水が涸れないように祈る。また春秋の神衣祭(かんみそまつり)は、天照大神
(アマテラスオオミカミ)以前からあった祭りということで、もちろん厳重に守られる。そして秋の収穫を終えると、十月には神嘗祭(かんなめまつり)、十一月 には新嘗祭(にいなめまつり)で一年一度の大祝宴をやることになっていた。
                                
 皇室で新嘗祭を行ない、廷臣たちが豊明の節会(とよあかりのせちえ)(新嘗祭の翌日、天皇が廷臣たちに新穀を賜わる儀式)を楽しむとき、日本じゅうの村々では氏神(うじがみ) 、あるいは産土神(うぶすながみ)の祭りをやっていた。これは宵(よい)祭、本祭、裏祭があり、村じゅう挙げて楽しんだものであった。 私の子どものころも、村々の神社において秋祭りは厳格に三日行なわれ、その楽しさは今でも記憶に鮮明である。村の男たちは、いつも閉じたままになっている村の神社の拝殿に集まって飲む。年ごろの女の子たちはお酌をする。家々の主婦は一年一度の大振舞いをする。 このごろは、しきりにコミュニティの連帯感などと言われるが、そんなものではなく、それはそれは、底抜けに楽しい、村を挙げての祭りであった。村の人たちは、いつもはお寺を大切にするのであるが、この祭りにはお寺は全然関係がない。
 
この楽しい村祭りが神代以来のものであること、そして在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん)(『伊勢物語(いせものがたり)』の主人公、六歌仙の一人)が宮廷でもてたのも、宮中での豊明の節会でその社交能力を示したからであることを、東京の大学で勉強しているときに知ったものであるが、その繋がりの長さと新鮮さに打たれたものである。日本はカミの国だと実感したものである。昭和三十年ごろですら村祭りは生きていた。いわんや天平時代においてをやである。
天皇が国分寺を作ってお経を上げさせても、そんなことは関係なく、日本じゅうの神社では、春夏秋冬の祭りは厳密に執り行なわれ、しかも、仏教を広めることに熱心だった天皇ご自身も、宮中では、やはり神代以来のしきたりでカミを祀っておられ、その祭りをよく行なうことこそ政治の根本という認識は、いささかも揺るいでいなかったのである。 仏教が広くひろがったあとには、多くの文化的指導者が仏教徒であったことから、日本の神社の影が薄くなったように見えさえするようになった。しかし、それは小さい神社のことで、伊勢神宮をはじめとして、熱田、出雲、住書、加茂、宗像、阿蘇、諏訪などの大社は、少しも揺るがぬ勢力を持って存在し続けたのである。仏教に対する保護が篤かった徳川時代にも、奈良の大仏が雨曝(あまぎらし)というような具合であったが、たとえば伊勢神宮は、いかなる仏閣とも類を絶した尊崇を受け、神領数千町歩を寄進されていたのである。さらに驚くべきことは、奈良時代にあれほど卓越した仏教美術、仏教建築を作った日本人が、こと古来の大神社に関するかぎり、全然その影響を受けさせなかったことである。

天武(てんむ)天皇に見る「日本らしさ」の展開 
これについては、たいへん面白い偶然がある。 天武天皇(第四十代)はきわめて篤く仏教を信じられた方であり、諸国に金光明経(こんこうみようきよう)や仁王経(におうきよう)を講ぜしめられたり、薬師寺を建立なされた方である。そして六八五年には、大和法起寺に三重塔を完成させ、しかも全国の家ごとに仏壇を作って仏像を拝むように命じられた。
                             
 しかし、まさにこの六八五年に、同じ天武天皇が伊勢神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)(正遷宮。定期的に神宮を建て直すこと)をお決めになったのである。この定めに従って、持統(じとう)天皇の年代に、第一回の式年遷宮が行なわれて以来、本年度ハ昭和四十八年度)の第六十回正遷宮に至るまで、約一三〇〇年間、そのことが廃らなかったことは、世界史の奇跡といっても誇張でない。何度も言うが、石で出来たビラミツド・・・それでさえ、表面のアラバスター石はだいぶはがされ持ち去られている・・・が残っているのとわけが違うのだ。 ここに、さらにもう一つの不思議が残る。神宮を二〇年ごとに造り替えるようになった理由は、おそらくその屋根がかやぶきのため、鳥の巣や鼠の巣などが出来たり、雨漏りするからであると思われる。まさか八咫鏡が祀られている上に屋根職人が上がるわけにもいくまいから、全部建て直すより仕方がなかったのであろう。
      
 だが神代ならいざ知らず、天武天皇の時代には、もうそれより半世紀以上も昔に法隆寺さえ建っているのだから、瓦を用いれば何のことはない、はるかに耐久性のある社殿が容易に造れたはずである。しかし天武天皇はそうなさらなかった。それで神代以来の復元の繰り返しを一三〇〇年間近く、日本人はやってきたのである。法隆寺や薬師寺を建てながら、神宮は史前史の建築様式のままで、というのが日本人の生き方であった。 このメンタリティが藤原時代になると和魂漢才と言われ、明治以降は和魂洋才などと言われるものになるのであるが、この奇妙な取合わせが、すでに天武天皇のときに鮮明な形で出ていることに注目したい。

 これは明らかに、近代的工場を作るときに地鎮祭をやったり、超高層ビルの上に小さい社を残す現代日本人の心と連なっているものである。 ちなみに天武天皇は伊勢神宮のみならず、日本じゅうの神社の修理を命じておられるのだ。まさにカミもホトケも平等に扱っておられるわけで、こんな仏教信者がいることを知ったら、お釈迦様も、ど胆を抜かれる思いをなされたことであろう。

                                     
この天武天皇的発想は、お盆には寺詣りをし、クリスマスにはケーキを子どもに買って帰り、「サイレソト・ナイト」を歌い、新年には明治神宮に出かけ、初夢には七福神の絵を枕に敷くような普通の日本人のものである。したがって平均的日本人が戦死した場合、その兵士の霊は靖国神社と、自分の家の寺との両方で祀ってもらうほうを喜ぶにちがいない。私の知っているキリスト教信者の中には、信教の自由に反するという理由で靖国神社反対運動なんかやっている人もいるが、こういう人たちは、日本のことがよくわかっていないのだ。筋の通った日本の神社のカミは、日本人の先祖であり、靖国神社も先祖、ないしは血族の記念に捧げられたもので、それをお参りするのは、血の繋がりという事実の確認行為が根底にある。われわれが先祖から生まれたというのは事実であり、キリストやマホメットや釈迦を信ずるのは信仰である。 事実と信仰はぶつかり合う必要のないことは、聖徳太子や天武天皇がとっくにお示しになっていることだ。
                  
カミとホトケが共存するための神学・・本地垂迩(ほんちすいじやく)
 ところが、昔の日本にも、そう簡単に、聖徳=天武式の両立信仰ができた人ばかりではなかった。特に仏教をやった人は、先祖崇拝と仏教をそう簡単に両立させることはできず、両立させる ための神学を考える人たちが出てきた。 その結果が、本地垂迩(ほんちすいじやく)説とか神仏習合(しんぶつしゆうごう)とかいう、日本独特の思想的努力である。これは奈良時代からしだいに生じて、藤原時代に完成した神学であり、天台宗系から出たものを山王一実神)さんのういちじつしん) 道、真言(しんごん)宗系から出たものを両部習合(りようぶしゆうごう)神道と言う。
                  
  内容は複雑で詳説するに耐えないが、要するに、カミとホトケは同じである、あるいはカミは  ホトケとなることができるということなのだ。  ホトケは元来、無始無終で絶対的なるものである。このホトケを「本地」というわけだが、この本地は人間を救うために、ほうぼうに具体的な形で現われる。これを「垂迩」という(この本地と垂迩の関係は、プラトン哲学における、イデアの世界と現象界との関係に、ちょっと似たところがある)。この本地が日本に垂迩した場合、それが日本のカミだという。だから日本のカミもその源は全部ホトケなのである。

  仏教における、元来の本地垂迩説では、絶対的・理念的なホトケである木地が、歴史的・現実 的にこの世に現われた垂迩が釈迦であるということで、法身(ほつしん)と応身(おうじん)ともいう。ところが、日本の本地垂迩説は、このアナロジー(類推)を、釈迦とカミとの関係に引き伸ばしたのである。もちろん純正仏教徒からいえば、日本のカミは生きている人間同様、救われるべき衆生であるにすぎない。だから、いっさいの衆生を救う仏教を尊べば、カミも苦界から救われ、苦悩を解脱できると考えた。したがって、カミを救うための神前読経というものも、古代にはよく行なわれたのである。

 これは、現在のカトリックの先祖に対する祈り方と、まったく同じである。キリストの道を知らずして死んだ先祖の霊(古代日本語で言えばカミ)は、カトリックの神学的理論からいって、地獄に行っているわけはないし、天国に行っているわけもない。したがってその中間の状態、つまり煉獄(れんごく)にいるにちがいない。このように中間帯にいるカミが天国に行けるように、神、すなわちキリストに祈るというのである。 だが、日本の本地垂迩説はここでとどまらず、さらに進んで、平安時代になると、カミは仏法によって悟りを開いて菩薩になることができるというようになった。八幡宮(はちまんぐう)のカミを八幡大菩薩(だいぼさつ) などと言うのがこの例である。ところが、さらに時代が下って藤原時代になると、カミは菩薩どころか、ホトケになることができるところまで進んだ。つまり、カミとホトケは同じものになる。カミはホトケが仮の姿で現われたもの、つまり権現(ごんげん)であるというのである。熊野権現などがその例であろう。        

 家康が日光に祀られて、東照権現と言われたのも、大乱を治めて泰平の御代を開いたこの英雄は、とてもただの人とは思われぬ、カミかホトケが仮の姿で現われた、つまり権現したとしか思われぬ、という意味であった。 この神仏同体説を説明するため、両部習合(りようぶしゆうごう)神道では、真言の両部、つまり金剛界と胎蔵界(ともに、密教におけるホトケや菩薩の体系のこと。前者は大日如来の智慧の面から、後者は理性(りしよう)の面から現われたもの)を用いて、日本の在来のカミはすべてホトケの権化であるとして、いちいちその本地を定めることをしたのである。
         
 かくしてイソドの弁財天が安芸の厳島姫となって権現し、同じくインドの摩詞迦羅天(まかきやらてん)が日本 思われぬ、という意味であった。の大国主命(オオクニヌシノミコト)として、つまり大黒天(だいこくてん)として権現したという。
  
なかでも傑作なのは奈良の大仏の大日如来で、あの一六丈の毘慮遮那仏(ぴるしやなぶつ) が、天照大神(アマテラスオオミカミ)の本地だということで、非常な崇敬を集めたこともあったのである。 これはサソスクリットのMaha-Vairocanaが「大日」と漢訳仏典にあるため、「天照」と結びつけられたものであろう。またこのホトケは真言密教の根本仏であって、万物を総括した無限宇宙の全一を指すわけであるから、日本のカミのカミなる天照大神との均合いが取れてないこともない。 

 この神仏習合のうちで、最も早かったのは、おそらく八幡宮である。この神社は元来、「やはた(八畑?)」という地名を指すという説があるが、ご神体は応神天皇である。応神天皇は朝鮮征服の神功皇后の息子であり、朝鮮との関係も深いとされていたせいか、古く豊前の宇佐地方一円を支配していた宇佐一族に氏神として尊崇されていた。そして場所がら逸早(いちはや)く本地垂迩説の影響を受けて、菩薩号を奉られた神社の第一号である。それで例の道鏡事件の起こった称徳天皇(孝謙天皇の神護景雲三年(七六九)に、和気清麻呂がこの宇佐八幡に祈願したとき、次のような神のお告げを得たという。
 
 「ソレ皇緒(コウチヨ)ヲ紹隆(ショウリユウ)シ国家ヲ扶済(フサイ)セソガタメニ、一切経(イッサイキヨウ) 及ビ仏ヲ写シ造り、最勝王経(サイショウオウキヨウ)萬巻ヲ諷諦(フウシヨウシ)一伽藍(ガラン)ヲ建テ、凶逆ヲ一旦(キヨウギヤクをイツタン)二除キ、社禝(アハショク)ヲ萬代二固メソ。汝コノ言ヲ承ケテ遺失アルコトナカレ(「私(神)は皇室の繁栄と国家守護のため、写経、読経(どきょう)や寺院の建立などをし、逆賊を除き、国家安定を図ろう。汝は、この私の決心をくれぐれも忘れず、実現に努力せよ」編集部簡訳)」と。

 八幡宮のご神体である応神天皇は、四世紀末ごろの方であり、その後二〇〇年も経ってから輸入されたお経を知っておられたはずはないのだが、そこは、本地垂迹説ではかまわないということなのであろう。そして八幡宮は清和源氏によって氏神として尊崇され、特に源頼朝が鎌倉の鶴岡に勧請(神仏の分霊を迎えること)してその守護神としてからは、武士たちが自分の領地にも祀るようになったため、今日でもその神社の数は、郷社(ごうしや)以上約四〇〇、末社(まつしや)の数は全国の神社の約半数に及ぶ、といわれているぐらいである。このように両部神道は1100年以上も日本にも広がったのであるが、明治政府の神仏分離政策によって八幡大菩薩は八幡宮に、山王様は日枝神社に、熊野権現が熊野座神社になった。
                              
私の祖母などはいつも山王様と言っていたのに、お宮には日吉(ひえ)神社としか書いていないので、子ども心にも、おかしいと思ったことがあるが、考えてみると、私の祖母は若いときに事故でほとんど盲目になり、小学校にも行かなかったので、その知識はほとんどすべて旧時代のものであったのである。

カミに守譲されるようになったホトケ

 このようなわけで、日本の伝統的宗教というものはなかなか奇妙なものである。今例に挙げた日吉神社の例などもきわめて面白い。日吉(ひえ) はもちろん、比叡山の「ひえい」から釆ており、神代以来の地主であった大山咋神(オオヤマクイノカミ)を祀る。ところが、伝教大師最澄が、比叡山に延暦寺(えんりやくじ)を開いたとき(七八八年)、この神を、新しい寺の鎮守神にしたのである。最澄は、唐の天台宗国清寺(こくせいじ)に祭られている山王祠(さんのうし)をヒントにして、 この神を山王権現(さんのうごんげん)にしたともいうが、最澄のころは神仏習合説はまだそこまで進んでいなかったと思われるので、最澄も聖徳太子式に、カミもホトケも崇めたのではあるまいか。
                
 何はともあれ、この神は徳川家の産土神(鎮守の神)というので江戸の神社の首位に置かれ、この前の空襲で焼失したものの、今では前よりも壮大な社殿が出来ているのであるから、この神代のカミも不死身である。またこんな妙な話もある。明恵上人(みようえしようにん)(1173〜1232年)は、後鳥羽上皇や建礼門院に戎(かい)を授け(仏門に入ることを許すこと)、北条泰時の帰依を受けた当時第一の名僧である。この方が三二歳ごろのときに、唐からインドに渡ろうと志して、途中まで出かけるが、そこに春日明神が橘氏の女に乗り移って現われ、いろいろな幻術を見せて、それを思いとどまらせる。これは 『春日権現験記(ごんげんけんき)』 にある話であるが、仏僧を渡海の危険から守るため、春日の神、つまり藤原氏の氏神が出てくるのは、まことに奇妙である。

 さらに、この物語はポピュラーな謡曲『春日竜神』となったのであるが、それを誰もたいして奇妙に思わないところが、なお奇妙である。 藤原氏は氏神として春日神社、氏寺として興福寺を持っていたのだ。もう一つ例を挙げれば、例の和気清麻呂であるが、彼は宇佐八幡宮の誓によって神願寺を建てている。 要するに、この種の奇妙さを挙げれば、きりがない。そしてこの種の奇妙さの中に日本の精神史を解く鍵があるのである。まつ つまり仏教という高級宗教は、日本のカミに骨抜きにされ、先祖を祀る宗教にされてしまったのである。神仏習合説は最初、ホトケがカミを包み込むために考え出されたものであったが、気が付いてみたら、ホトケとカミの差はなくなり、いつのまにか偉い死者はカミ、偉くない近親者の死者はホトケというような差までつけられてしまったのである。 専門の学者はこの現象をどう呼ぶか知らないが、私はこれを「仏教のシヤーマナイゼイショソ」、つまり「先祖崇拝化された仏教」、もっとはっきり言えば、「カミに従えられたホトケ現象」と呼ぶことにしている。
                               
 先に挙げた春日神社の例で言えば、この藤原氏の氏神は法相(ほつそう)擁護の霊神になった。つまり氏神が仏教の守り神にされたのである。ホトケより格の上のカミ本地より高い垂迩というものが出来たわけであるが、そんな無茶な仏教があるものか、と単細胞的なピュアリズムで怒ってはいけない。大乗仏教が今なお国家的規模で生きているのは日本ぐらいだから、大乗仏教に関するかぎり、確かにホトケはカミに護られているのである。
情報源:日本史から見日本人 古代編 「日本らしさの原点」 渡部昇一著(祥伝社黄金文庫)