聖徳太子に見る「日本らしさ」(情報源:日本史から見た日本人古代偏 渡部昇一著)
            
平和への理念を打ち出した「十七条憲法」
その国のお札にどんな肖像が刷られているかを見るのは、なかなか面白いものだ。たとえば王制の国のイギリスでは紙幣には時の王様(今は女王)が刷られている。 アメリカでは一ドル札には初代大統領ワシソトン、二ドル札には第三代大統領ジェファソソ、五ドル札にはリンカーソ、十ドル札にはフェデラリスト(連邦政府主義者)のハミルルトソ、二十ドル札には第七代大統領ジャックソソ、五十ドル札には第十八代大統領のグラント、六十ドル札にはフラソクリソというふうになっており、さらに五百ドル札のマッキソレー、千ドル札のクリープラソド、五千ドル札のマヂソソ、一万ドル札のチェイスというふうに、われわれにあんまり関係のない金額になると、よく知らない人物が肖像になる。私が在米中、実際使つたことがあるのはフラソクリソまでであるが、紙幣の肖像をどのような基準でアメリカ人が選んだのかを考えると、なかなか面白かった。

ドイツの高額紙幣の肖像も、なじみのない顔が多く、「これは誰ですか」と訊いても、即答できたドイツ人は大学の先生も含めて一人もいなかったことは、妙な体験として今でも記憶に残っている。いつたいどういう基準でドイツ人は紙幣用の肖像を選んだのだろうか。これに反して日本は、戦前の一円札の武内宿禰(たけのうちのすくね) 、戦後では一〇〇〇円札の伊藤博文、五〇〇円札の岩倉具視などいろいろあるが、何といってもお札は聖徳太子である(昭和四十八年当時)。事実、聖徳太子はお金の代名詞になっているといってよい。そしてこの太子の名前を、毎日使うお金で記念し、忘れるひまのないようにするのは、はなはだよいことだと思う。考えれば考えるほど、聖徳太子の日本人に及ぼした影響力の大きさに驚かざるをえないからである。     
                     
 太子といえばまず憲法である。これは推古天皇(第三十三代)の十二年(六〇四)の夏四月に、自らお作りになったもので、憲法(いつくしきのり)と読むらしい。「いつく」は「斎く」、つまり「心身を清めて神につかえる」という意味から出ているのであるから、憲法とは、おごそかな気持ちで取り扱う掟ということになる。この十七条の十七という数字は、維摩経(ゆいまぎよう)に仏陀が浄土を作る源となる菩薩の心事を十七項目挙げてあることによるものとされている。このお経には太子自ら注をつけておられるので、よくご存じであったのである。 

太子が叔母である推古天皇の摂政になられたころ、日本では物部・蘇我などの大氏族の争いが多く、これが皇位継承問題と絡み合って、ついには穴穂部皇子(あなほべのみこ) 殺害、さらにすすんで崇唆(すしゆん)天皇暗殺という大逆事件を生ずるに至った。しかも、穴穂部皇子の殺害の黒幕は、敏達(びたつ)天皇の皇后で、のちに推古天皇となられた炊星姫であり、崇唆天皇を殺させたのは蘇我馬子であるが、聖徳太子は、この殺されたほうにも、殺したほうにも血の繋がりがあった。この血なまぐさい氏族の争いを見てきた太子が、憲法を制定するときに、この日本を浄土、つまり楽園とするために、菩薩の浄土建設の心事十七項にのっとって、十七条を選び出したお気持ちはよくわかるような気がするではないか。      

そのゆえに、この憲法の第一条は
「和ヲ以テ貴シトナス」ではじまり、第十条、第十四条、第十五条と繰り返して和の精神を敷衍(ふえん)なさっているのである。 これは長い間の戦と、それに続く敗戦という手痛い体験から生じた現在の日本国憲法が、その前文において、また第九条その他において、繰り返し世界平和を訴えているのと、その精神においてまことに似ている。ただ平和を訴える対象が太子の場合は各氏族など国内に向けているのに対し、現憲法は当然のことながら「平和を愛する諸国民の公正と信義」に向けているという違いである。                 
 したがって太子の憲法は、あくまでも憲法であって単なる掟ではない。どこの種族にも具体的な掟はある。古代のゲルマソ民族などにも精細な取り決めがある。しかしそれは憲法ではない。「理念」を打ち出していないからである。

 英語のコソステチューショソ(constitution)という単語が、今日で言う憲法を意味するようになったのは、十七世紀の末ごろから十八世紀にかけてであり、最初にはっきりした定義を示したのは、ポリソグブルックの『政党論』であると言われる。しかし彼がコソステチューショソと言つたときには、イギリス流の成文になっていない憲法のことを意味していた。

はっきりと成文憲法が出来たのは、アメリカ憲法(一七八八年)からである。この世界最初と言われる成文憲法の前文には、「より完全な政治的結合を形成し、正義を樹立し、国内の平安を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し・・・・」というふうになっている。その調子が聖徳太子的であることは一見して明らかである。もちろん、それに続く規定は近代的に精密である点、太子のものと違っているわけだが、太子のものも、大網は示しているわけであるから、近代的な意味で憲法と言ってよいものである。

 アメリカ憲法が出来る
約1200年前に、わが国が単なる掟ではない「憲法」を持っていたことは驚くべきことであり、それから約100年後の明治に、国家の根本法典たる西洋のコソステチューショソという単語を訳すとき、その訳語を、太子のお選びになった「憲法」という言葉を借用したことは、明治の学者の達識を示すものとして、今さらながら感心させられるのである。

連綿と続く聖徳太子の理念

 この憲法を逐条的に考えても、ひじょうに面白いことは出てくるのであるが、今、いくつかの特徴を思いつくまま述べてみよう。
  まず
第一は、国家の主権は一つだということを明確に打ち出していることである。現在では国 家の主権が一つであることぐらいは子どもでも知っているが、当時はかならずしも明確でなく、 多くの人々の中には、皇室の権威と大氏族の権威の差がぼやけていた場合があったと思われる。  それは、アメリカ独立当初の連邦政府と州政府の関係に似ていた。アメリカは、諸州がそれぞ れ違った建州の歴史を持っており、州権は強大であった(今でも、日本の地方自治体などとは比較 に絶した強大な権限を持っている)。そして州権にウェイトを置くか、連邦に置くかの考え方の違いが、南北戦争の真の原因ともなるのである。

したがって独立当初に、合衆国の法律や条約は、この国の最高の法(the supreme law of the land)に帰属し、各州の憲法や法律中に反対の規定がある場合といえども連邦の憲法に拘束されると明記したのである。 これは太子の憲法の「国二二君ナク、民二両主ナシ」(第十二条)とか「詔 ヲ承ケテハ必ズ謹メ」(第三条)の趣旨と同質のものである。 リンカソが南部諸州に要求したのも、まさにこのことで、「アメリカに二つの政府なく、アメリカの国民に二つの連邦なし。連邦の命を承けてはかならず謹め」ということであった。
                             
 
第二に、太子が明らかにされたことは、政治の公正、裁判の公明正大、人材登用における適材適所ということである。これも氏族制度の弊害を除かれようとした意図からでたものであることは明らかである。これによって古代日本のカースト制的職業の世襲は、少なくとも理念的に打破されたのであった。 しかも、さらに重要なのは、第十七条において、政治の重大事は「独断スべカラズ、必ズ衆卜論ズべシ」としていることである。このあたりは、それから約一二五○年後に出された明治天皇の五力条の御誓文に驚くはど似ていることが明らかであろう。
                                  
 日本の歴史においては、ときどき聖徳太子的理念の復活が叫ばれるような事態が生ずるのである。徳川の治世はいかに優れたものであったとはいえ、将軍と大名を中心とする氏族政治であり、衆議を経て決断する体制ではなかった。明治の議会は精神的にはここに返ることであったのである。ところが昭和になると、陸軍と海軍という一種の大氏族が議会や政党を踏み潰して戦争を起こし、衆論はいっさい、非国民の言として処断された。そして敗戦後、再び議会の復活となったわけである。

 また逆のケースになるが、日本の会社などにおける稟議書の制度などは、西洋の真似でなく、衆議をよしとする伝統が生きていた一つの例ではなかろうか。

 
先祖崇拝と宗教は矛盾しない
 次に興味を惹く点は、この憲法における宗教の扱われ方である。誰でも、この憲法が仏教の興隆をすすめていることを知っている。第二条に
「篤ク三宝ヲ敬へ。三宝トハ仏・法・僧ナリ」と いう項目があることから見て、明らかなようである。しかし、これが今日考えるような仏教であ ったと考えてはいけないであろう(一四五ページ参照)。 

太子の憲法に流れている思想系統は、主として儒教・仏教であるほかに、法家や道家の思想も 入れられている。その条文に用いられた用語には漢訳仏典系のものも多いが、そのほか詩経・書経・孝経・論語・孟子・荘子・中庸・礼記・管子・史記・文選などから採ったものがある。つまり太子は、当時の唐・天竺の文化と思想の精髄を集めようとなされたらしいのである。
                                                  
  仏教は、当時にあっては、まだ優れた
宗教哲学としてのみ存在し、大祈願など、今日の仏教がやるようなことはやっていなかった。したがって、「法」とは優れた思想からくる学説であり、「僧」は学者である。つまり今流に言えば、仏・法・僧を重んずるということは、学問精神を尊び、学者を大切にし、民主主義思想を重んずるといった意味に近いと解釈したほうが実体に近いであろう。 したがって太子が寺を建てたのは、今日でいえば大学を建てるのに似た行為であった。

  さればこそ、太子の憲法の中には、日本のカミについての規定が何もないのである。太子にとって(また当時の日本人にとって)日本のカミは自分の先祖のことなので、その霊が不滅であることは誰も疑わなかった。太子であろうが太子の敵であろうが、日本のカミについての意見は一致しているので、憲法が採りあげるほどのことはなかったのである。
        
太子自身が、篤く日本のカミを尊ばれたことはよく知られて.いることであり、太子が「カミよりもホトケを好まれた」などと言うのは、まったくのナソセンスである。この点が明らかでない、今日の憲法においても神社が論争の種になったりするのだ。 世の中にはいろいろの宗教がある。そして世界の起源についても、いろいろな説がある。しかし誰でも疑いえぬことは、人間はその親から生じたことである。そしてその親は、またその親から生じたことである。

 これは先祖崇拝と言われるものであるが、それが、ほかのいかなる宗教とも矛盾しないことは、前に触れたように、典型的な一神教であるユダヤ人の間に先祖崇拝の念が強く、それは神の掟になっていることからもわかる。カトリックもまた先祖の記念を重んずる。もちろん先祖崇拝の内容はそれぞれの宗教において違ってはいるが、共通項はあるのである。 
太子の時代において先祖の霊の存在の確実さは、現代の重力の存在のように、確かと思われてしたがって、太子に見られる崇祖と、外来の宗教に対する極度に寛容な受容性は、何ら矛盾するものではない。それは今日の欧米でも、無名戦士の慰霊祭では、参加する人の宗派が問題にならないのと同じことである。

 太子の憲法は、その後も長く日本人の意識に影響を与え続け、わが国の成文法の起源として今日に及んでいるのである。大化の改新も律令の制定もここからはじまった。嵯峨天皇の御代の弘仁格式もそのことに触れており、後世の武家もこれの真似をした。すなわち貞永式目(297ページ参照) の五十一力条は十七の三倍、建武式目十七か条や朝倉敏景の十七条はその数まで太子の憲法に合わせたものである。 そのほか日本の旧家にはいろいろな家憲がある。さすが十七条を真似ることは遠慮しているが、三井家の十三条、本間家の十二条などいろいろあるが、いずれも太子調というべきものが感じられる。

世界的レベルだった太子の仏教理解

 太子が、その後の日本の理解に重要な鍵となるのは、その秀才性のゆえである。太子のことを豊聡耳皇子とも申しあげるるのは、その超凡の理解力を讃えたものであるが、それは次の一例からでも察しられよう。 太子が仏教を学ばれたのは、高麗から来朝した慧慈についてである。そのころは日本に仏教が伝来してから、四、五〇年といったところで、まだそれを消化する伝統は形成されていなかった。

太子は勝鬘経の注釈も二年足らずで仕上げられ、さらに唯摩経の注釈も二年足らずで仕上げられた。その後法華経の注釈に取りかかられ、一年ちょっとで仕上られた。この三つの注釈は『三経義疏』(さんぎようぎしよ)と呼ばれ、そこには太子自らの見解が示されている。
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  この注釈書の内容が優れていることは、のちに唐に伝えられ、唐の僧によって、またその注釈太子は法華経のときなど、シナの僧の注釈本をテキストとして用いられたのであるが、それを正確に理解されたのみならず、納得のゆかないと聖徳太子であると言ってよいであろう。ドイツのカメラを入れて、改良して逆輸出しているのを見ると、妙な話だが、私は太子の 『勝葦経義疏』 の例を思い出すのである。
           
  また
『法華経義疏』が法隆寺から皇室に献上した御物の中から発見されたが、これは太子の自筆にほぼ間違いないと言われる。したがってこれが日本人が紙に書いたものとしては最古のものである。 新しい日本文化の創始者と言うべき方の書いたものが現存しているのを見ると、日本人の物持ちのよさに驚くが、これについては、あとで述べることにする(一九二ページ参照)。