特別付録 天皇陛下即位10年 記念講演
      皇室と日本人  世界に示す日本の誇り
                 上智大学教授 渡部 昇一
★比類なき国体
 第百二十五代の天皇陛下の御即位十年を記念するこの集いで、こうしてお話させていただく機会を得、大変光栄に存じております。私は「天皇陛下」と言うときには、必ず「第百二十五代」と前につけることにしております。何となれば、この「第百二十五代」の中に天皇の御存在の本当の意味がこめられていると思うからです。私は昭和のはじめ頃に生まれましたので、「日本は比類のない国である」ということを教えられて育ちました。確かに日本という国は比類のない国であります。その意味で言えば、どの国もそれぞれ比類のない国です。しかし、日本の比類のなさは、これは掛け値なしの比類なさなのです。私はこのことを、自分の専門でありますゲルマン語学、英語学をやっている時に、しかも異国で偶然ヒントを与えられました。 たまたま昨日、大学院のクラスで『古代ゲルマン文字』の「WENNE」という項目の解説を読んでおりましたら、昔、私が留学中にその講義で輝いて、電撃に打たれたよぅな衝撃を受けたことを思い出しました。これは、「WENNE」という言葉の語源を辿った私の恩師の解説なんですが、こういうことが書いてありました。ゲルマン人にはたくさんの部族があり、各部族にはそれぞ酋長がいました。その酋長たちの家系を辿っていくと、一番はじめの先祖は神様なんです。神様なんですね。その神様にもゲルマン人の神様の系図がある。我々が習ったドイツやイギリスの歴史は、キリスト教が入ってからの話ばかりで、そういうことを私は知りませんでした。キリスト教が入る前のゲルマン人の歴史というものを、私は本物のゲルマン学者から初めて聞いたのです。ゲルマン人の部族の酋長は、みんな天皇家みたいだったのです。先祖を辿っていくと神様、先祖神になる。そして、その先祖神もまた神様の系図の中にある。しかも、これはインド・ゲルマン全体に言えるそうで、例えばギリシャでもそうです。我々が英雄として知っているアガメムノン王。王はもちろん本物の人間ですが、その系図を辿りますと、大体お祖父さんのお祖父さんぐらいでゼウスの神に行き着きます。

 ところがこの系図は、後になると消えてしまいます。これは国境を越えた宗教が入って来たためです。国境を越えた宗教というものは必ず、ものすごい説得力を持つ哲学や神学やら諸々の議論の術を持っていて、先祖崇拝を基本とした民族的宗教は消されてしまうのです。そして残るのは神話だけ。ローマ神話、ギリシャ神話、ゲルマン神話等、神話と呼ばれているものは数多くあります。しかし、その神話の末裔は消えてしまっているのです。留学時代、私はこの講義を聞いているうちに、日本人ですから、パッと日本が比較されました。日本も宗教の形としては同じです。高貴なる家系をずっと遡っていくと、神様に辿り着き、その神様には神様の系図がまたずっと続く。天皇の系図で言えば、初代の神武天皇までは人間で、それ以前は神様になります。神武天皇のお祖母さんのお祖母さんくらいが天照大神(あまてらすおおみかみ)様で、さらに神様が続く。この構造はゲルマソ人の部族と同じです。ゲルマン神話の末裔は今はない。ゲルマソ人だけではありません。少なくとも、我々が知っているような普通の国で残っている国などありません。ところが、日本にだけ残っているんです。本当の原始の形が生きて残っている。私は「あ、これが日本が比類なき国体であるという意味なのだな」と、その時に解りました。日本のような国は、昔は世界中にあった。しかし、それらは全部消えて、日本だけが残った。だから比類ないんです。

★ドイツ留学での体験
 私がドイツに留学したのは、昭和三十年のことでした。戦後十年ですから、復興はまだ大したことはありません。私が住んでいた四谷の寮は何もなくて、水もありませんでした。別の建物にいかなければ顔も洗えません。冬は外と同じくらい寒く、夏は外より暑い、そういう所に住んでいました。食べ物はといいますと、まだ外食券で、それを持ってパン屋にいき、コツペパンを買います。すると「バターにしますか、ジャムにしますか」と聞かれるんですが、バターと言ったって本物のバターなんか使うわけはなくて、安物のマーガリンをさっと塗るだけです。ジャムもさっと塗るだけ。それで十三円。それがドイツに行きましたら、同じ敗戦国なのに、まず寮がセントラルヒーティソグで冬寒くないんです。冬でも夏と同じような格好をしておれる。こんなことは私は生まれて初めて経験しました。もちろん部屋の中にもちゃんと水が来る。それから食べ物は、パン一つとっても、バターを「塗る」んじゃないんですね。切ってのせるんです。バターが3,4ミリもある。その上にまた厚いハムなんかのせて、一番簡単な朝食でもそうなんです。もう「まいった」って感じでしたね。やはりせっかく日本からドイツに来たんだから、何かお国自慢がしたいじゃないですか。ところが、ドイツ人を感心させるようなものは何も持ってないんです。戦前なら「戦艦長門だ!」と言ったかも知れませんが、もう水の底ですからどうにもなりません。「湯川さんがノーベル賞をもらった!」と言っても、ノーベル賞なんか向こうは掃いて捨てるほど貰ってますから、これもダメです。「経済は……」、向こうはとっくに復興しています。強いて言えば「芭蕉」と言ったって、知っている人はまずいない。「紫式部これこそは!」と言っても、学生なんかはまったく知りません。一方ドイツの方は、「第二次大戦で悪かったのはヒットラーとナチスであり、これはドイツ文化とは本質的に関係ない」と割り切っていましたから、ドイツの文化は、べ−トーべソ、モーツァルト、ハイドソ、ゲーテ、カソト・・・とこう並べ、それからレントゲンからはじまってノーベル賞受賞者の名前をパーツと挙げますと、これはいくらでも自慢することがあるんですよ。 そんなある時、こういうことがありました。当時、ドイツは復興は早かったけれども、何しろナチスの名残がありますから、肩身の狭い思いをしており、大きな顔をできるのは同盟国だった日本人にだけといったところがありました。ですから向こうの学生は、日本人の学生をよく家庭に招いてくれたりしました。そのときのことです。「テノ(ドイツ人は、天皇を”テソノウ”と発音できずにこう言う)はまだいるのか」
 「いらっしゃいます」
 「それは新しいテノか」
「いや、もとのままです」
 そうしたら向こうはものすごく驚くんですね。ドイツは第一次大戦でカイザーをなくしました。ドイツに限らず戦争に敗けた国は、オーストリア・ハンガリー帝国でも、イタリアでも、みんな君主はなくなりました。だから、日本も当然なくなったんだろうと思っていたら、戦前も戦後も同じ方だと聞いて、かのドイツ人は驚いたんです。そして何と言ったか。「日本人は重厚な民族である」僕は日本人は軽薄だと思っていましたが、向こうから見れば、勝とうが負けようが、戦前であろうが戦後であろうが、同じ天皇がずっといらっしゃるということは、想像できないほどの感動だったようです。それで、私は「これだ」と思いました。日本人の誇りとして自慢できるものが、たった一つある。最後の踏ん張りにして、ぐらつかないものがあるぞ、ということに気づいたんです。

★異国の地での自信
 それからは、私はことあるごとに、「日本の今の天皇(昭和天皇)は第百二十四代で、王朝は神話の時代から一つである。譬えて言えば、アガメムノン王の子孫が今のギリシャ王だったと同じような状況が、日本である」と言いました。これには、少しでも教養のあるドイツ人なら電撃のようなショックを受けたようでした。私は、ドイツ留学を終えると、日本に帰らずにそのままイギリスに留学しました。イギリスでも機会があれば、「我が王朝は・・・」とやりました。向こうも王朝のある国ですから、では自分たちの王朝は・・・と考えると、実は二百年ちょっとなんです。しかも、敵国ドイツから来ていたわけですよ。ハノーヴァ王朝といっていますが、一七一八年か一九年ぐらいに来たんです。そして第一次大戦の時にはイギリスはドイツと戦ったものですから、ドイツのハノーヴァから来た王朝じゃ具合が悪いんじゃないかということで、戦争中にウィンザー王朝と名前を変えて今日に至っているわけですね。そんなことはイギリス人はみんな知っていますから。古さにおいては、向こうは二百年そこそこ。こちらは二千六百数十年。学中、私はこれだけが自慢できることでした。 もちろん、私は日本で育っていたときから、皇室や神様を尊敬することは知っておりました。家には二メートルぐらいの長い神棚がありまして、皇大神宮をはじめ、いろいろな神様の小さなお宮があり、一番右の方に、私が生まれたので、少し勉強をするようにといつて、天満宮のお宮が乗っておりました。しかし、敗戦直後という極限状態に近い時代に、異国に一人置かれたとき、日本人として究極的に、どの西洋人、どんな豊かな国に対しても、胸を張って言えるものを持ったことは、本当に有り難かったです。

★山上憶良(やまのうえのおくら)、日本への二つの自信
 帰国してから、いろいろとものの本を読んでいるうちに、山上憶良は私と同じような経験をしたんじゃないかと思うようになりました。 万葉集に、憶良の「好去好来の歌」という長歌があります。「・・・神代より言い伝て来らく そらみつ 倭の国は 皇神(すめらぎ)の 厳(いつく)しき国 言霊(ことだま)の 幸はふ国と 語り継ぎ 言い継がいけり・・・」 ここは、日本を定義したような箇所であります。憶良が日本を自慢しようとしたとき、二つ挙げた。「皇神の厳しき国」、「言霊の幸はふ国」。彼は、何故こんなことを言い出したのか。私は、これは国文学者には分からない、敗戦直後に外国にポツンと留学した人間にしか分からない点だと自惚れています。
         
  白村江(はくそんこう)の戦いで、百済(くだら)を助けに出た日本軍は、新羅(しらぎ)と唐の連合軍に敗けて引き揚げてきました。憶良は、その中の一人で、当時まだ少年だったという説もあります。いずれにせよ、憶良は四十代の半ば頃、数年間、唐に滞在しています。当時の日本は唐の存在を意識せざるを得ない状況に置かれていました。あの頃の唐の文明の高さは圧倒的です。世界に奇跡的な文明が何度か起りました。エジプト、ギリシャ、メソポタミア、そして黄河下流に出た周の文化。どうしてあの時代にあんな文明が出たのか、ほとんど想像もできないくらい高いものがポンと出たんです。そうすると、その周囲はみな蛮族になってしまうんです。周以来のシナ本土の文明と周辺では、桁が違うんです。憶良はそれを知っていた。そして、帰って来て日本を自慢したいと思って、何を自慢したらいいのかというときに、「これだ」というものが、「皇神の厳しき国」と「言霊の幸はふ国」だったんです。「皇神の厳しき国」。これは簡単に言えば、万世一系、王朝が変わらない、ということです。これは唐に対して自慢できるな、と憶良は思ったんですね。シナは易姓革命の国ですから、王朝の名字が変わります。例えば、周は「姫」、漢は「劉」、隋は「楊」、唐は「李」といったように。姓が入れ替わるということは、ほとんど民族も入れ替わるという意味なんです。専門家が書いたものなどを見てみますと、唐の時なんかは、八〇%ぐらいの人間が入れ替わっているという説もあるようです。元が蒙古族であることはみんな知っていると思います。清は満州族。とにかく替わるわけです。同じ地域に建てられた王朝でも、全 く別物なんです。
                                                          
  それに対して、「我が国は」と憶良は考えたんです。我が国は神代から王朝が変わらない。「易姓革命」の「姓」が、天皇家にはない。変わらないから、ないんです。唐に派遣 されたことのある憶良が、あの唐の文明に対して、ぐつと踏ん張って、「我が国は」と自慢しようと思ったときに、「皇神の厳しき国」と言ったんだと思います。  これさえ出せば、唐であろうが、「つい最近できた王朝じゃないか」と、こう言えるわけです。それはちょうど、我々が「イギリス王家はつい最近できたんですねえ」と言える のと同じことです。
   
 「江沢民(こうたくみん)さん? ああ、つい二、三十年前にできた政権ですね。まあ、お宅は二百年も続けば万々歳ですね」と言えるわけです。今までだってシナの王朝は大体そのくらいで変わっていますから。しかし我が国は「皇神の厳しき国」、神話の時代から変わらない。これは揺るぎなき自信ですよ。  今外国に駐在している日本人がいっぱいいますが、私はその子供たちにこのことを教えたいんです。アメリカなどにいくと、「自分の国のことを語れ」と言われるんですが、日本人は語れないということをよく聞きます。GNPがどうの、年間貿易黒字がこうのとか、いろんなことをごたごた教えることはありませんよ。覚えても悪いことはありませんが、語ることの一番重要なのは、「皇神の厳しき国」、まずはこれが第一等ですね。

★歴史と考古学の違い
  第二番目は、憶良が言ったように、「国民文学があります」ということです。国民文学 がない国はたくさんありますが、日本の国民文学は王朝とともに古いわけです。確かに、 語源学的に言えば、「この単語はどうもハワイ諸島あたりだな」とか、「これは南シナ海の あたりだ」とか、いろんなことが言えます。  しかし、「国語」というものは、ある国民が生活していて、あるときパッと目覚めて、 「我が国は」と言ったときの言葉なんです。「我が国は」という意識が生じてからの歴史が 国史なんです。戦後の日本は、歴史と考古学の区別がつかない人間を、意識的に作ってきましたが、本来、考古学は歴史の補助学に過ぎないのです。いくら掘り返しても本当のことは何も分からないんですよ。  僕はいつも例を挙げるんですが、私の田舎で、友人の親父が実業家で、戦前金持ちでした。戦前、個人の住宅で風呂場の壁がタイルでペニスの風景なんです。それが自慢で僕も 何度も見せられました。後で考えてみたら、もしも天変地異があって、あの辺が地震で全部ぶっ壊れる。それから四、五百年か千年か経って発掘したら、ペニスの風景があった。 あっ、ここにペニス人が来ている、と言ったらお笑いでしょ。考古学というのは大体そんなところがあるんですよ。だから書いたものが一番頼りになるんです。 僕はよく言うんですが、泥棒が入った。そして足跡も残っている。排泄物を残した。その泥棒の足跡を調べ、排泄物を分析したら、ゆうべラーメン食べたとか分かる。足の大きさから体重も推定できる。しかし、その泥棒が何を考え、どういう人間であったかは絶対に分かりませんよ。ところがその泥棒が、逃げるときにポケットから手帳を落としたとか、日記帳を落としたとかすれば、すっかり分かりますよ。これが記録の意味なんですよ。書いたものでなければわからないです。古代の日本人が何を考え生きていたか。これは『古事記』、『日本書紀…万葉集』によるより仕方がないんですよ。
     
★神話にまで遡る国民文学
 戦後はそれをみんな抜けちゃって、地面から掘り起こしたものしか扱わない。しかも書いたもので頼るものは何かというと、『魏志倭人伝』なんて全然当てにならない文献をこねくり回して奉っているわけですよ。『魏志倭人伝』と、日本人が日本のことを知ってて書いた『古事記』、『日本書紀』の資料的価値がどのくらい違うかというのは、考えないことに決めたんですね、戦後は。私は国民文学というのは、本当に日本人が日本人としてパッと目覚めたときに、自分たちの言葉の文学だと感じたのがそれで、これが「やまとことば」の文学ですよ。後からたくさん膨大な量の漢字、漢文が入ってきました。これは全部日本人から見れば音読みです。音読みのものは外来語、外国語と感じたわけです。そして訓読みのものはやまとことばなんですね。そして、『古事記』でもこれはやまとことばで書いてあります。『日本書紀』、これは地の文は漢文ですが、あそこに出てくる膨大な数の地名、神様の名前、短歌、 長歌、これはやまとことばのままで絶対に翻訳しないんですよ。全部漢字を発音記号として用いて書いているわけです。 だから長歌のようなものは、翻訳できない、翻訳したら意味がなくなると少なくとも当時の人は感じた。だからそっくり残してくれた。そうすれば、あと漢字を表音記号として 使うということは、すぐ慣れますから、『万葉集』なんかにワーツと出て、それから仮名文字文学なんかにもいくんです。そしてついに世界で一番古い小説、『源氏物語』が出たんです。しかもこれは女性が書いた。これは『源氏物語』がひとりでぼこっとあるわけじゃないんですよ。随筆があれば何もある。それは膨大な国民文学があるんですよ、日本には。 その国民文学が神話にまで遡る記述がずっとあるわけですよ。これはやはり自慢できるんですよ。神話の部分はシナの文献に比べても膨大なものですね。お経もこれは漢文で訳してますから、これも記述がものすごい。だけどシナの方は王朝がちょん切れていますからね。古代のはわからない。司馬遷という人は偉いんだろうけど、日本の神代の巻に相当するものはほとんど抜けちゃつたわけです。だから民族の歴史の根がないような感じになります。日本の方は国民文学がある。この二つを私は山上憶艮が「我が日本は」と言った時に言い出したその気持ちが痛いほどわかります。

★言霊の幸はふ国」への自信
 あれだけ膨大な漢字が入っているのに、和歌には漢語と感じられるものはほとんど入っていないんですね。ゼロと言ってもいいと思います。試みに私は百人一首にやまとことばと見なされないものがいくつあるかと思いましたら、二つだけです。それは「菊」。菊というのは音しかないんですね。訓がないんです。ところが、当時の人達は「菊、菊」と使っているうちに日本の花だと思ったから、やまとことばと見なしたんでしょうな。見なしやまとことばですな。 それから「衛士」もそうですね。あれも「門番」のことですが、「衛士、衛士」と言っているうちに、日本語だと思った。誤解したんでしょうな。その他は、これは天神様、菅原道真のような、和歌を作るより漢詩を作る方が簡単がというような、ああいう漢文のすごい人も、和歌を詠むときにはやまとことばしか使わないんですよ。それだけ、国語というものに対する誇りと自信と尊敬心があった。漢文は書きます。漢詩は作ります。しかし、和歌の道は、つまり敷島の道は、やまとことば、こういう伝統があるんです。これはお隣の国と比べるのは、別に向こうを貶めるためじゃなくて、違いを強調するためでありますけれども、同じ似たような民族でも、半島としてくっついたために、シナ文化に圧倒的にぶっつぶされて、国民文学がない国もあるわけです。朝鮮には朝鮮語で書いた古い文学はゼロと言ってもよろしいです。昭和何年までは。そして昭和九年ごろに、朝鮮半島が日本帝国の一部だったころですが、日本に学んだ向こうの人が、日本の『万葉集』のようなものを見て、自分の国の民謡を集めたというのが、これは岩波文庫にも入っていますが、これが言わば向こうの『万葉集』ですよ。露骨に言えば、昭和九年ごろに出来ているんです。 そういう国民文学がなくなって、国語では文学ができない状態がずっとあって、自分の国のアイデンティティーが小中華としかできなかった国と違って、日本は海を隔てたおかげもあって独自の「言霊の幸はふ国」と胸を張ってやっていけた。だから、安心してむしろ漢文も自由にいくらでも勉強出来たとも言えると思います。

★日本と仏教
 山上憶良が自慢したのはこの二つなんですが、私はもう一つ付け加えてもいいと思うんですね。それは、仏教との折り合いなんですね。 仏教というのは圧倒的なんですよ。儒教も来ましたけど、儒教はどう考えても圧倒的じゃないと思います。儒教の中の一番重要なのは、『論語』ですよね。『論語』を開けば「朋あり遠方より来る。また楽しからずや」「友達が遠くから来て一杯やって嬉しかった」とかね。そういう話でしょ。「学んで時にこれを習う」「何かを習って発表会をやりました。楽しいですねえ」こういった程度ですよ。『論語』は分かりやすい。非常に人間的な重要な道徳は説いているけれども、圧倒するという感じはないんです。ところが、お経は圧倒的ですよ。インドから始まって、ずっとまわってきているうちに、どんどん膨らんで、その中には哲学あり、文学あり、神学あり、量から言っても圧倒的です。入ってきたときどうしますか、これは、ということなんですよ。例えば、仏教を入れた周辺の国は、それ以前の先祖崇拝の宗教はほとんど消えるんです。宗教としては。百済、朝鮮ですね。その前の宗教は消えるんですよ。僕は朝鮮の学者の方にも、仏教が来る前の百済の宗教は何だか知っていますか、と言うと、「えっ」なんて言うんです。宗教がないわけないですよ、仏教が来る前に。神道があったんですよ。朝鮮的な神道が。ちゃんとあったんです。ところが仏教に圧倒されてしまって、なくなって しまった。仏教はそれだけの力があるし、内容があるんです。 日本でもそれについては、ごたごたがありましたが、すぐなくなりましたが、そして日本人はそこで考えたんですね。これが私はものすごく偉いと思うんですがね。「本地垂迩説」といって、わけがわからないという学者もいるんですが、最も分かる学説なんです。 うんと要約して「本地垂迩説」を言えばですね、もし仏の教えが真理であれば、それはあらゆる国に、あらゆる時代に現れているに違いないと。これは当然ですね。重力の法則 が真理であれば、イギリスにも重力があれば、日本にも重力がある。これは同じことですね。宗教的な真理でもそれが真理であるとすれば、全ての地域にまた全ての時代に現れなければいけない。それがイソドではお釈迦様で現れたとか、大日如来として現れたとか、 いろんな如来・菩薩その他現れた。日本では先祖の神として現れた。ですから、あえて相当するものを比べればということになって、伊勢神宮は天照大神(あまてらすおおみかみ)だから、大日如来と何か似てますね。だから同じものの違った形による顕現であると一応規定したわけです。

 これは私は素晴らしいことだと思うんです。真理が現れるとすれば、どこの国にも現れていなければならない。現れ方は違うはずだ。日本の場合、昔から、それこそ神代から、 先祖神を貴んできた。全然知らない外国の神様が来ました。これが全然違う神で、今までの神様よりすぐれておったら、それまでの宗教がなくなりますよ。ところが日本では、いや、それはインドでの現れ方はそうで、インドの現れ方はインドの現れ方で非常に参考になる現れ方をしておる。日本の現れ方は日本の現れ方で、これはこれでいいと、両方立てちゃったんです。そして両方、日本でのみ栄えているわけです。だから、西行が、伊勢神宮に行きまして、「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」と歌を詠んだ。彼は北面の武士ですから、非常に位の高い武士でした。それが仏教徒になって、伊勢神宮にお参りするわけですよ。彼は両部神道、つまり本地垂迹説ですから、伊勢神宮を拝むときに、大日如来として拝もうかな、日本の神様として拝もうかな、まあどっちでも同じだと拝んでいる、その歌ですよこれは。これが、日本をして今唯一世界的に大乗仏教の大学が何十かある、唯一の国にしている理由です。仏教が学として本当にやられている唯一の国といっていいと思います。神道はもちろん、日本にしかありません。この残り方ですね。この残り方が私はやはり、消えてしまったゲルマンの宗教の場合と違って、なるほど日本の残り方の方が何とも柔軟だなと思います。

★ゲルマン人とキリスト教
  ゲルマンの世界にも、国境を越える宗教が行きました。これはやはりいろんな文化を吸 収し、あらゆる学問を吸収していきますから、論理は構成している、神学は出来ているんですね。それにドグマなき先祖崇拝の宗教がどうやって対抗できるかという問題がおこったわけです。これは日本に仏教が釆たときと同じ問題ですよ。  こういう話があります。ラートボートというあるゲルマン人の酋長がいたんです。この人は、ボニファチウスという宣教師の話を聞いて、当時カトリックの宣教師ですね、感心しましてね、「そうか、お前の言うことはなかなかいいな。よし、教会も建ててやろう。 その洗礼とやらも受けて天国にいってやろう」という約束をしたわけです。それでいよい よ洗礼を受ける段になりましたらね、疑問が生じたんです。「まてよ、俺は天国にいくら しいけど、俺の先祖はどうなるんだ」という疑問を起こしたわけです。  私はこれは実にまっとうな疑問だと思います。ある宗教に自分は入って自分は助かる と。じやあ親はどうなるんだ。親のことは知らないよといったら、これはよくないです よ、やっぱり。その酋長はそういう疑問を起こしたわけです。そしてその宣教師に「先祖はどうなるんだ」と聞いたら、その宣教師がまたコチコチ頭だったんですな、「それは地獄にいます」と言ったんです。洗礼を受けてないんだから。そしたらそのラートボートという酋長が怒って、「何言ってるんだ。天国なんかに行かなくて結構だ。お前の言う地獄だろうとなんだろうと、俺は先祖のいらっしゃるところに行く」。それで教会も焼いてしまえ。宣教師も殺してしまえという話になったわけです。というのはたまたまそこで起ったんですけど、頻々としてゲルマン地域でそれが起こったんです。ゲルマン人は先祖をとても尊敬しておったんです。そのときに、偉かったのはローマ教皇で、たとえば聖グレゴリウス一世は、そういう報告を受けて、「それはゲルマン人の言ってることの方が本当だぞ。キリスト教の洗礼を受けたら、受けた人は助かる。先祖は地獄のまま。これはおかしいよ」、と孝えになったんです。それで「煉獄」を作ったんです。煉獄というのは、新約聖書のどこを見たって煉獄の「れ」の字もないんですから、あれはローマ教皇が作ったんですよ。煉獄いうものがあるんだ。皆さんの先祖で、まだキリスト教を知らないで立派に死んだ人がいると。この人たちは煉獄にいる。ここは浄化されるところである。天国みたいに楽しくはないけれども、そう悪いところでもないと。そこにいて待っているんだと」。あなたが洗礼を受けて、煉獄の霊のために祈るのを待っているんだと。ああそうか、というわけで、信者になって死者の霊のために祈るわけです。そうすると、先祖の死者はそれによって天国に行くと、こういう仕掛けになったんです。それで全西ヨーロッパは、改宗したんです。ですから、中世の芸術作品というのは、ものすごくたくさん煉獄の話があります。ダソテの頃まではですね。宗教改革頃になると、先祖の話はどうでも構わなくなっちゃって、煉獄もみな忘れられて、近ごろは煉獄の「れ」の字も言う人は一人もいなくなりました。しかし、ゲルマソ人の先祖に対する気持ちを煉獄という形で救ったわけです。ローマ教皇は。

★世界に例をみない宗教の両立
 日本の場合は、その先祖を大切にする気持ちを、真理があるとすればインドでも現れるだろうが、日本でも現れた。それは国が違うのだから、現れ方も違うであろう。だから、どっちでも分かりやすい方をやりなさいよ、両方やって構わないよと、そういうことだったと思うんです。 ところで、二十世紀の生んだ最大の宗教学者メルシア・エリアーデという人がいますね。この人は東ヨーロッパ生まれの人ですが、戦後はシカゴ大学の教授だったと思いますが、十何巻の宗教学辞典を書きました。この人が『聖と俗』という本を書いています。その本が世界的なべストセラーになったものですから、日本でも「聖と俗」という言い方が流行したんですが、その中にちゃんといっていますね。日本人が千何百年前に考えぬいたことを。宗教的な真理は、あらゆる民族、あらゆる時代に現れていなければならない。そうでなければ真理でも何でもないんですから。ただ受け取る方の民族の文化水準がでこぼこしていいますからね、あるところでは非常に迷信的な受け取り方が幅をきかせている。あるところでは非常に高度な受け方をしている。違いはあるけれども真理の粒としては同じである。比喩で言えば、重力はどこでもある。ただ、重力を井戸の水を汲むときも、手で汲むような使い方しか知らないところと、ポンプの原理を発明するという差はある。しかし、重力は同じ。というような解釈なんですね。そしてこういう見方をしないと、結局世界は宗教戦争になるんですね。真理が現れるとすれば、どこにも現れたはずである。その現れ方はいろいろある。その現れ方がいろいろあるのをうまく両立させた国が、これが日本しかない。今までのところ。

★日本の誇りへの自覚と危機の克服
ですから、私は、日本では、厳しき皇神がいたために、つまり王朝が途絶えないであったために、この天皇家の宗教とでも言うべきものと、国境を越える高い教義を持った大乗仏教という宗教とが、両立し得たんだと思います。これは皇神がいなかったら、つまり聖徳太子みたいな人が皇室にいなかったならば、これはもう宗教戦争の国になりますよ。かくして我々は、神話の時代からそっくり生きてきました。そしてそれは仏教受容にも見られるように、決してコチコチのものではなくて、 非常に弾力的なものなんですね。それで日本人は危機がある度に原始記憶に帰ったと思うんです。  例えば、十九世紀の中頃、黒船が来ました。あの連中はとにかく世界中を植民地にするつもりだったわけです。究極的には、世界をアパルトヘイトにもっていこうとしていたと思いますよ。白人が主人で色の薄い黄色人種のほうが召し使いで、濃い方が奴隷でね。まあ、大体そんなものだったと思うんです。 ところがその危険な、強烈な十九世紀後半の植民地文明が押し寄せて来たとき、日本人は何をやったかというと、やはり昔に戻っちゃうんですね。幕府じゃだめだ。普通なら幕府を倒したところで、内乱とかになっちゃって、白人に乗り込まれて植民地になるんだけれども、幕府はだめだ、となると神代以来の「皇神の厳しき」というのを、もう一度みんなの意識に復活させて、そして明治維新をやったわけです。  そして「言霊の幸はふ国」であって、日本語なんてどんなにやったってなくならないことはみんな知っているわけです。奈良朝時代のあれだけの圧倒的な漢文学、お経が来ても、やまとことばはなくならない。だから日本語の消失を恐れることなく、外国の文献を全て翻訳してしまったわけです。そして、外国のいいものはみな取り入れましょう。これは仏教の場合と同じことです。だから、黒船で驚いたら、戦艦大和を作るなんてな話でね。この前の戦争は電子機器や工作機械で負けたとなれば、電子機器や工作機械で一番になれとかね、そういう風にやってるんだと思うんです。 要するに我々の刷り込みは、千数百年前からできあがっている。そしてこれは如何なる危機の時でも、日本人を乗り越えさせて釆て、世界にたった一つ、太古から先祖崇拝を宗教としながら、高度の文明を保った唯一の国として今日あるわけです。そして、その象徴が第百二十五代の天皇陛下であって、その方の即位が今年十年、誠にめでたい限りでございまして、こういう集会ができましたことを心からお祝いしたいと思います。

 《編集部注・この記念講演は、平成十年十一月二十八日東京国際フオーラムホールで行なわれた

アインシュタインの言葉

近代日本の発達ほど世界を驚かしたものはない。その驚異的発展には他の国と違ったなにものかがなくてはならない。果たせるかなこの国の歴史がそれである。この長い歴史を通じて一系の天皇を戴いて来たという国体を持っていることが、それこそ今日の日本をあらしめたのである。
 私はいつもこの広い世界のどこかに、一ヶ所ぐらいはこのように尊い国がなくてはならないと考えてきた。なぜならば、世界は進むだけ進んでその間幾度も戦争を繰り返してきたが、最後には闘争に疲れる時が来るだろう。このとき人類は必ず真の平和を求めて世界の盟主を挙げなければならない時が来るに違いない。
その世界の盟主こそは武力や金の力ではなく、あらゆる国の歴史を超越した、世界で最も古くかつ尊い家柄でなくてはならない。世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。神が我々人類に日本という国を作って置いてくれたことである。」

A・シュタインの名言
日本の家族制度ほど尊いものはない。欧米の教育は個人が生存競争に勝つためのもので極端な個人主義となり、あたり構わぬ競争が行われ、働く目的は金と享楽の追求のみとなった。家族の絆はゆるみ、芸術や道徳の深さは生活から離れている。激しい生存競争によって共存への安らぎは奪われ、唯物主義の考え方が支配的となり、人々の心を孤独にしている。

日本は個人主義はごく僅かで、法律保護は薄いが世代にわたる家族の絆は固く、互いの助け合いによって人間本来の善良な姿と優しい心が保たれている。この尊い日本の精神が地球上に残されていたことを神に感謝する。