・・・先生は「鎮守の森の保存運動」をやってらっしゃるんでしょう?
      
上田 はい。社叢(しやそう)学会というもので「カミサマの森」の研究と保存です。 じつは鎮守の森との出会いは古いんですよ。昭和三九年(一九六四)に東海道新幹線ができたとき、初めてこれに乗って、その車窓から国土のあちこちに鎮守の森がたくさんあるのを「発見」しました。そこで都市計画の立場から鎮守の森の研究をはじめた。わたしも設計にかかわった一九七〇年大阪万博の「お祭り広場」というのは、その結果、生まれました。あれは、小豆島の亀山八幡宮をモデルにしたものです。 それから三〇年たっても本格的に鎮守の森の研究や保存をやる人がでてこない。「それでは大学定年を機にやろうか」ということでまた始めました。 始めてみてわかったことは、神社の神職さんたちの多くが、森のことについてあまりご存じない、ということです。その理由を尋ねると、ある神主さんは「神社の最初が森だったことはみな知ってるんですが、記録を調べると、鎌倉時代から神職たちは森のことを忘れてしまったようです」といわれたことがショックでした。なぜ鎌倉時代からか、というと、鎌倉仏教の影響が大きかったようですね。つまり仏教が大衆化して善男善女がお寺のほうへ流れていったために、各地の神社は大いなる危機感をもった。そこでお寺の真似をして建築に熱中するようになった。すると「森のことはすっかり忘れてしまった」というわけです。

 
・・・神社の元がなぜ森だったんですか?
上田
 森とどうじに山だったんですね。森と山とは古代日本語では同義です。沖縄にのこる『おもろさうし』という古謡にも、しばしば森と嶽、つまり森と山が並列して歌われています。 その山が「聖所」とされるようになったわけは、古い日本人が山の資源で生きていたためでしょう。長らくわたしたちの祖先は、山のコノミ、キノコ、クダモノ、サンサイ、それにキジやカモ、シカ、イノシシ、サケ、マスなどの資源を食糧としてきたのです。縄文時代の話ですがね。

・・・森が生活の拠点、命の源だったということですか?
上田
 そのとおりです。それは稲作をはじめた弥生時代以降も変わらなかった。つまり山からくる栄養をふくんだ水がイネを生育させるからです。またその水が海に流れてプランクトンを発生させ、魚貝類を生みだすのです。 そういう意味で山は「母なる存在」だった。昔の日本人がこの母なる存在である山を「聖所」としたのも不思議ではありません。

・・・そういう信仰が神道になったんですか? そして山がカミサマになる?
上田
 古神道、あるいは原始神道といわれるものはそういうことだったでしょう。なぜなら、いまでも古い神社では山を「ご神体」として拝んでいるからです。山や森は信仰の対象になっている。 しかし、山や森そのものがかならずしもカミサマではありません。たとえば神社の祝詞に「アマツカミは天岩戸におられ、クニツカミは高い山や低い山におられる」というのがあります。「天岩戸」は「高天原」にあるといわれる架空の場所ですが、「高い山や低い
山」は具体的な「山や森」といってよいでしょう。すると「山や森はカミサマがおられる場所であってカミサマそのものではない」ということになります。
   
 
・・・ 依代ですね。
上田
 まあそうですね。では「何がカミサマか?」というと、本居宣長という江戸時代の国学者が「神さまとは古書にある神さまや神社に祀られる御魂のことであるが、さらに鳥獣木草や海、山などおよそ偉大な働きをする恐ろしいものをいう」といっていす。これをアニミズムと解する人もいますが、かならずしもアニニズムではないでしょう。なぜならアニミズムというのは先にいったように自然の「精霊信仰」とかんがえられますが、本居のいう神さまは「霊」というような目に見えない抽象的なものではなく「偉大な働きをする恐ろしいもの」というように具体的な「力」をさしているからです。 日本は縄文時代からアニミズムがあったようにいわれますが、怨霊にたいする怖れなどを見てもわかるように霊力信仰はむしろ仏教がもたらした、とかんがえられ、古くからの日本は「霊」ではなく「力」が間題になっていたようにおもわれます。魂も、タマフリの儀式などを見ても活力が間題なのです。 こういう「力」あるいは「超自然的な力」にたいする信仰は、先にいったマナイズムです。それをプレ・アニミズムといってアニミズムより古いようにいう人もいますが、そういう先後関係にあるのではなく、原始宗教というより呪術といったほうが近いでしょう。

・・・自然のカを畏敬する、ということですね。
上田
 はい。日本人のカミサマ信仰は呪術だ、とおもっています。呪術というのは、道具や方法を用いて「超自然的な力」を身につけようとするものです。縄文時代の巨木や土偶などはみなそうだったでしょう。 しかし奈良時代に古代律令国家が生まれて、すっかり変わってしまった。民衆が各地で呪術的な信仰、つまり原始神道などを崇敬していることを知ると、為政者たちは、その原始神道などのカミサマに自分たちの祖先を重ね合わせて神とする、という「国家神道」につくり変えてしまったからです。呪術が宗教になった、というと進歩したようですが、わたしは単純に進歩したともいえない、とおもっています。 それはともかく、為政者たちが重ね合わせた「新しい神さま」は、先の祝詞の「アマツカミ」や本居の「古書にある神さまや神社に祀られる御魂」などです。平安時代初期のいわゆる『延喜式神名帳』というのがその集大成です。それは皇祖神を中心に、その遠近関係で各地の神さまや神社の格付けをおこなうものでした。

 
・・・ 国家神道は、明治時代だけのことではなかったんですか?
上田 
そうです。呪術あるいは原始神道の国家神道化は奈良時代と明治時代と、つごう二回起きたんです。
・・・「超自然力信仰」をもつカミサマというものを、もう少し説明してください。上田 たとえば、森の中の巨木があげられます。古代人は、天にもとどくような巨木をカミサマとした。それは見た目に偉大であるだけでなく、しばしば遠方からの目印になったからです。特に舟で海に出たときは絶好の陸上の目印になった。海ゆく人は大いに助かった。「命綱」になった、おもわれます。そこでそういう巨木を伐って巨大な柱にして、必要な場所に立てて信仰の対象としました。青森の山内丸山遺跡の「六本柱」や、金沢のチカモリ遺跡の「ウッドサークル」などがそうだ、とおもわれます。また諏訪大社の「御柱」(おんばしら)や、出雲、伊勢などの「珍柱」(うずばしら)「棟持柱」(むなもちばしら)などもそれに当たるでしょう。民家の大黒柱もその流れをくむものです。一方、巨石もそうです。それもしばしば遠方からの目印になります。海岸や湖岸では、水上からのランドマークになっているケースが多い。 このような巨木や巨石を、古代人はヒモロキやイワクラと呼び、しばしば「カミサマのシンボル」としました。 さらにそれは自然物だけではありません。人工物についてもいえます。 たとえば、植物の織椎は一本だと弱いが、それを数本あわせて撚りをかけ縄にすると、巨大な岩をもちあげる強力な力を発揮します。そこでその「超自然的な力」にあやかろう
と古代人は壊れやすい土器の表面に縄の模様を刻みこんだ、とわたしはかんがえています。それが縄文土器です。 じつは、こういう「縄信仰」は日本だけでなく、『ニーベルンゲンの指輪』のなかにも「知の神エールダの娘のノルンたちが紡ぐ縄」としてでてきます。さらにギリシア神話やローマ神話にも語られている。しかし、管見のかぎりそういうことをいう日本の考古学者はいませんから、わたしの一方的な思いこみかもしれませんが・・・。けれど縄文時代の人々の精神活動を宗教ではなく呪術として見るとそういうことがいえます。 また巨木や巨石、そのはか聖なる場所にその縄を張ってシメナワとし、カミサマの印としました。それはいまでも見られます。身近かに見られる例でいうと横綱のシメナワです。横網は「カミサマのような超自然的な力をもっている」と信じられてきたからです。

・・・天皇陛下は神さまですか?
上田
 問題の核心がそこです。 まず天皇がいつから歴史に登場したか、です。 じつは天武朝なんです。具体的には、壬申の乱で天下を取った大海人皇子(おおあまのおうじ)が中国の皇帝の制を真似て「天皇」を名のりました。といっても、その名称がつかわれたのは史書や公文書の上だけです。一般につかわれるようになったのは明治になってからでした。江戸時代には「天子様」とか「御門」などと呼ばれていた。
                             
 この天皇という呼称が登場するまで、大和朝廷など各地の支配者は大王(おおきみ)といわれました。大王と天皇はどう違うか、というと、大王はたんに武力で人民を支配する覇者ですが、天皇はカミサマなのです。「超自然的な力をもつ者」とされたんです。天武天皇をうたった歌に「大君は神にしませば水鳥のすだく水沼(みぬま)を都となしつ」というのがあります。 古くはカミサマ」は「超自然的な力」をもつクマ、イノシシ、ヘビ、さらに雷や火山などでした。それを祭る巫女がカミサマのことばを伝えていました。やがて巫女はカミサマのような高い地位を得ました。しまいにはカミサマとして崇められました。 世の生産性が向上し経済が発展して、覇者としての大王が現われるようになると「民衆の心をとらえるこの巫女を身近かにおきたい」とおもい、しまいには自分の妹や娘を巫女にしたり、巫女と結婚したりしたんです。

 そしてとうとう、実力者どうしで巫女の奪いあいが始まり、政争が渦巻きました。たとえば「暗闇を見通す目をもった」巫女とかんがえられるサホノオオクラミトメの娘のサホヒメをめぐつて、その兄のサホヒコと垂仁天皇が戦争までしています。 そこで大海人皇子は「じぶんが巫女のような能力をもつ大王、すなわち天皇になって世の中を治めよう」とかんがえた。わが国に「天皇」というものが登場したのです。 こうして巫女と大王の両方の権威・権力をもつ天皇を頂点とし、中国の律令制をとりいれてわが国の古代国家が成立しました。

・・・いまの天皇とは完全に違いますね。
上田
 天武天皇は個性の強い方だったようですね。 ただそれまでも「天皇」に近い例はありました。たとえばとヒミコは巫女でありながら中国の史書には「一女子を立てて王となす」といわれたように、実質、大王だったとおもわれます。巫女と大王の両方の性格をもっていたのです。推古女帝や斉明女帝もそうでした。
      
 ただし男性も巫(かんなぎ)またはシヤーマンになった可能性がかんがえられないでもない。というのは「神武から応神までの天皇になられた方はぜんぶ二男以下で、長男は祭事を主宰して結婚しなかった」という説があるからです。しかし、一般的にいって巫はたいてい女性でした。すると大海人皇子は「男で初めて巫と大王の両方の性格をもった」といえるでしょぅ。それが「天皇」とかんがえられます。

以後、巫女をめぐる争奪はなくなり、天皇制が日本に定着しましたが、こんどは天皇をめぐる争いが激化しました。とどうじに「巫女」である、いわばカミサマである天皇がどれだけ実際の権力を握るか、つまり大王となるか、をめぐつて争われました。天皇が「巫女」だけのとき、今日のことばでいえば象徴だけのときは問題は少ないのですが、天皇が「巫女」であるとどうじに大王としての権力を振るうようになると、歴史は激動するのです。結果、世の中は乱れました。ですから歴史をふりかえってかんがえると、天皇は「巫女」であっていいが大王にはなってほしくない、とおもいます。

・・・天皇が「巫女」というのはもうひとつピンときません
上田
 たしかにそうです。面白い話があります。歴代の天皇は、みな歌をおつくりになりますが、そのなかに昔からなぜか恋歌が多い。それはいいとして、その恋歌のなかに「天皇が女になって男を待つ」という歌が結構ある。有名なのは「小倉百人一首」に出てくる天智天皇の「秋の田のかりはの庵のとまをあらみわがころもでは露にぬれつつ」で、これはいままで単純に農民のことをうたった歌とされていましたが、最近では作家の丸谷才一さんがいうように、秋は「飽き」に通じ、「あなたに飽きられてわたしの袖は涙に濡れている」という解釈がおこなわれるようになりました。そういうところにも「巫女」の名残りが見られるのではないでしょうか。これは、天皇というのは、もともと大王というより「巫女」だったかもしれないことを推測させるものです。 また丸谷さんによると、天皇が歌合せなどで歌を発表されるときは「女房」の名前でおこなわれることが多かったそうです。それもそういう推測を裏づけるでしょう。 じっさい昔の天皇は、衣裳も化粧も女のようにやつしていました。それにだいいち女の天皇が多かったのです。日本が多くの文化を真似た中国にはほとんど例のないことです。飛鳥・奈良時代という古い時代だけでなく、江戸時代にもお二方おられました。その天皇が、明治になってメチヤメチヤに変わった。

宮廷では何もかも伝統文化が否定されたのです。天皇は、大嘗祭(だいじようさい)などのときの束帯以外は、日常、洋服しか着られなくなり、着物も召されない。おすまいも洋風、外国のXIPを迎える迎賓館もネオバロック様式です。なかに和室はほとんどない。外国の賓客を招いてだされる料理はフランス料理です。日本にきたのになぜ日本料理がでないのか、と外国の人はいつも首をかしげる。日本の天皇の中身は完全に西洋化されてしまった。 それだけではない。重要なことは明治天皇が髭をはやされたことです。これはかつてなかった。だって一二〇〇年間、天皇は「巫女」だったのですから。 なかでも最大の問題は、明治天皇が軍服を着て、剣を下げて、白馬に乗られて、軍隊を閲兵されたことです。天皇は「大元帥陛下」になられた。つまり「大将軍」におなりになったのです。天皇と将軍がいっしょになった。日本歴史上ありえなかった天皇です。

一方、神道のほうも、中世には村の鎮守の森のように原始神道にもどつていたのに、またまた国家神道に逆もどりしてしまった。日本の近代の悲劇はここから始まったのではないでしょうか。 その昔、藤原定家とならぶ歌人の後鳥羽上皇は、女になって男にふられた歌ばかりをつくっていましたが、明治天皇が髭をはやしてから日本はおかしくなった、あるいは、天皇が京都を離れて政治のお膝元の東京にいかれてからおかしくなった。政治という短視眼の世界におかれて、天皇がモミクチヤにされたからです。最近の雅子妃のご不快も、それに関係があるのではないでしょうか。逆に天皇と将軍の居所が分かれていた鎌倉時代一五〇年間と江戸時代三〇〇年間は、比較的世の中が安定していたようにおもわれます。 まあ、天皇制をめぐつてはいろいろの問題があります。これからの日本は、この問題を真剣にかんがえなければならない。そうでなければ未来の日本はないでしょう。
−−いやあ、これは面白い。日本文化復活ですね。愛子さまをぜひ女帝に・・・・。

情報源:「神なき国ニッポン」 上田篤 聞き手 平岡龍人 新潮社 ¥1400円