内に疫病・凶作,外に海賊
道真の進言で違唐使を停止

894年9月30日 いったん決定した遺唐使派遣の是非を問う菅原道真(50)の建議が受け入れられ,この日
派遣を見合わせることが決定された。
           
 893年3月,在唐留学僧中?(ちゆうかん)は,唐商人王訥(おうとつ)に託して報告書を送ってきた。これには,温州刺史の朱褒(しゅほう)が日本に遣唐使を催促したことに対し,唐が疲弊している状況をつぶさにのべ,遣唐使を派遣すべきでないことが記されていた。しかし政府は,遣唐使派遣を決定し,894年7月27日,その旨の返信を中?に送った。
 894年8月21日,参議左大弁菅原道真が遺唐大使,左少弁紀長谷雄(44)が副使に任命された。遣唐使の任命は,じつに834年以後60年ぶりのことである。 しかし,1か月も経たない9月14日, 



892.5.10 類聚国史200巻を完成
893.9.25、菅原道真新撰万葉集を編纂
894.8.21,菅原道真、遣唐使に任命
894.9.30 菅原道真、の建議で遣唐使の派      遣中止
898.9.18、菅原道真が諸参議の参政を進言
901.1.25 菅原道真が大宰権師に左遷(昌        泰の変)
903(延喜3)2.25、菅原道真没
905 8.19、安楽寺に菅原道真廟建立















菅原道臭から,遣唐使派遣是非について再度公卿会議で審議することが要請され,その結果,停止が決定されたのである。 わずか1か月で,政府が遣唐使停止に傾いた原因には,内外情勢の悪化に対する認識の変化があった。 まず,遣唐使を派遣するには,唐の朝廷に対する朝貢品 使節・乗組員全員への支給物など膨大な費用を必要とする。しかし,50年ほど前から疫病.災害.凶作・飢饉が続いており過重な財政に耐えられる状況ではなかった。

 また,新羅の海賊が対馬周辺を荒しまわっており,ようやく9月に撃退するまで,侵攻がたえまなく続いていた。 このような内外状況と,中?によりもたらされた唐の疲弊した状況が、いざ遺唐使の派遣が決定された段階で,再認識され,停止が決定されることになったのである。

 遺唐使は,630年に最初の使節が送られて以来,十数回派遣された。東アジアで空前の国力を示し,文化が咲きほこった唐への遣使は日本の政治や文化に大きな意味をもつものだった。律令制度にしても唐から学んだものであった。航海の危険を冒す価値はあったのである。 大使に随行した留学生・留学僧にしても,最澄・空海など,帰国後活躍した人は数知れない。阿倍仲麻呂のように唐に仕え,唐で没した人もいる。
 遣唐使は停止されたが,民間の貿易,通交は以後も続く。(P160日本全史)