全国一ノ宮巡拝会の発祥の心が・・・・ついに世界に認められだした、キリスト教会にも広がりつつあるという。世界宗教者会議でも日本の神仏習合の精神は、世界平和に欠かせない一要素として語られだしているという。まさに、荒廃した神社の姿の再生こそ日本繁栄の礎をであると発奮された、山本宮司・入江初代世話人の魂が蘇った証でもあろうか?。会員一同、初心を忘れず、切磋琢磨する時でもあろう。



さまってーに
自然の力受け入れてきた民


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・・・・・だから問題は、沈黙の時を入れるか否かではなく、ディスカッショソのトピヅクをどうするかということだった。はじめは、仏教とキリスト教が集うイベソトによくありがちな、哲学的、宗教的なテーマも考えてみたけれど、これではせっかくのユニークたセミナーが生きないと思った。そして、最終的に流れにまかせることにしたのだった。私たちにとってもっとも貴く、神聖で、深遠であるものを、ダライ・ラマにすっかりお預けしてみよう。

 つまり、キリスト教の『福音書』についてコメントをしていただこうと、私たちは考えたのだ。すると、自分は『福音書』についてはほとんど知らないけれど、その提案を喜んでお引き受けしましょう、とダライ・ラマはおっ
しゃった。

 このダライ・ラマの言葉に、私は彼の自信と謙虚さを見たと思った。数年前、ダライ・ラマは、ロンドンで仏教哲学について博識にあふれた学問的た講演をして、聴衆を驚かせていた。学者でも拍手を送りたくなるほどの内容だった。しかし今回はそこに集っているのが、異なる伝統に対しても寛容た心を持ち、深く考えるタイプの人たちであるとはいっても、聴衆の大半はクリスチャソであり、猊下(げいか)御自身がそのときにこやかにおっしゃられたように、自分がほとんど知らないことについて、お話をされなければならたいのである。

 猊下がこのアイディアを受け入れてくださったことで、セミナーに対する期待は一気に高まった。しかし正直言って、これは賭だった。双方ともが自分の信仰を傷つけるおそれがあったからだ。だが、瞑想の時間をともに過ごすという経験だけでも、十分に価値のあることには疑いがなかった。ダライ・ラマと時間を過ごしたことのある人はだれでも、ダライ・ラマがそこにいるというだけで、平和で深々とした喜びの感情を与えてくれることを知っている。

 しかし・そのダライ.ラマをしても、セミナーが対話として成功するかどうかは保証がなかった。だが、一九九四年のジョソ・メイン・セミナー、『善き心(The Good Heart』は、だれも予期したかったようた成功をおさめた。

 この歴史的イベソトの成功をこれから振り返ってみたいと思う。この本の骨子をなしているのはキリスト教の『福音書』についてのダライ.ラマの注釈であり、それは来るべき二十一世紀に、人類家族のかかえる諸宗教が互いの対話を続けていく上で、とても大きた助けとなるものであろう。

 この本は、将来の世界にとってこの対話がいかに重要であるかを示し、また、世界の平和と全人類の協力を作り上げていくという難問に、ひとつの解決法を示唆しようとしている。つまり、この本は「対話のモデル」になろうとしているのだ。

 ☆プレゼンス(霊的に在ること)

 ある意味で、ジョン・メイン・セミナーは、ダライ・ラマとドム・ジョソ・メインが出会って、おたがいの存在(プレゼソス)を認め合った時に始まったともいえる。ダライ・ラマも、トマス.マートンとの出会いについて語ったときに、このプレゼンスの要素を強調している。

 一九九四年ジョン.メイン.セミナーにおける対話を意味あるものとしているのも、この同じプレゼンスというものの発揮する不思議た作用だったのだ(のちに、ダライ・ラマは、マートソとの三十年前の会話以来、キリスト教についてこんなに学んだことはなかったと言っていた)。

 この『善き心』セミナーは、あらゆる種類の対話が困難になっている現代において、仏教徒やクリスチャンやそのほかの宗教の信者すべてにとって、それに対する対抗策としてこのプレゼソスというものがとても大きた意味を持っていることを、再認識させてくれることになった。

 対話におけるプレゼソスは、言葉によるものでもなければ、概念によるものでもないある直観を言い当てようとしているから、それはなんとなくあいまいで陳腐た表現のようにも見える。しかし、たとえそうであっても、それが事実なのである。

 これを言葉で表現するのはむずかしいが、プレゼソスこそ、私たちが対話において最初に経験するものである。おたがいがおたがいを「どのように」知覚しあっているのか?言葉による対話が成功するか否かは、このたがいのプレゼソスの基礎の上に直接つくりあげられていて、すべてはそれにかかっている。

 プレゼソスの直観なしに、言葉は対話を成功させることができない。この直観がないと、言葉はまったく違う意味にとられてしまうこともある。ダライ.ラマはまず、宗教間で現在行われているさまざまな形の対話を深めることが重要である、と語り出した。もちろん学問的な対話も大切である。

 だが、それよりも大事なのは、仏教徒のよく使う言い方をすれば、もっとも効果のある対話とは、知的な対話ではたく、心からの信仰をもち真剣に実践している者同士による会話、自分たちの実践を分かち合うことから生まれる会話である、とダライ・ラマは語った。

 この考え方は、キリスト教にも仏教にも共通のものである。キリスト教の初期の修道生活において、教父たちはプラクティケー(praktike〕、つまり概念による知識ではなく、経験から生まれた知識の大切さを説いた。ニューマン枢機卿は、経験して自分で確かめることなく、「概念に賛同して」信仰をもつことの危険性を説いた。ジョソ・メインはクリスチャソはもっと自分の信仰について深く考えるべきだと力説したが、これは「自分自身の経験から自分の信仰を確かめる」ことこそが必要だと確信していたためだった。

 『善き心』セミナーは、この考え方を、自分自身の信仰を発見し深めるためにだけ使うのではなく、宗教間の対話に応用するというものだった。

 これは、たしかにむずかしい。真剣に実践している者たちでも、当惑してしまうテーマだ。この考えは、宗教には入り口の違いはあっても、その奥には普遍的で根源的レベルの共通の真実がひそんでいるのではないだろうか、と暗示している。

 異なる宗教を持つ者が対話してみると、おたがいの信仰に対する排他的な気持ちをよろこんでいったん棚上げすることができたときに、はじめてその真実を経験することができるようになる。

 もし、そうであるのたら、どの宗教も最終的には、真実という大きた部屋へ続くドアの一つにすぎないということを、意味しているのではたいだろうか。

 この本を読んでいただくとわかるように、ダライ・ラマは、この問題に非常に繊細で、そしてダイレクトた言及をおこなっている。

 ここでは、そのようた新しいタイプの、まさに先駆的た対話には、人間のプレゼンスというものが深い関わりを持っていることに気づくことが、とても大切たのである。人間がその場所に出かけて、そこにいるということ。愛情にあふれ、ふつうの感覚を持った、そして友情にあふれ、信頼のできる人間が、その場所に「在る」ということが、何よりも重要なのである。・・・・・・・・・つづく
             
            
「善き心」・・・セミナーあいさつ






ガンダン寺取材 椿大神社 円覚寺 壱岐ルネッサンス 椿大神社USA 慶長・文禄の役



「Here, in this holy place, I feel the underlying unity of all religions.」
「私は、ここ、聖地にあって、諸宗教の根源的統一性を感じます」と訳せる、この一文をめぐって縷々思いをめぐらさずにはおられない。
(情報源:人間と文明の行方 日本評論社 トインビー100年記念論集 P-250〜)





人はみな命を惜しむ・マンジュリヒード聖地にて

いかなる生き物も苦しみ、をいやがる。いかなる生き物も、生き残りを望む自分のことを考えて、自分の生命を大切にしよう。【前駐日大使フレル・バータル氏訳】