P-68
瞑想を重んじている方がキリスト教にもいることに、深く感銘を受けました。今日、このセミナーの初日にあたり、皆さんで今一度ジョソ・メイソ神父のことを思い出し、祈りましょう。なつかしい顔がたくさん見えます。こうしてここで、新しい友人、そして古い友人に会えることは、とてもうれしいことです。

この星は、物質的に大きく進歩しました。しかし、人類はたいへん多くの問題に直面しています。そして、その問題のうちには、私たち自身が作ってしまったものもあります。人類の未来、世界の未来、環境の未来に向けて重要なカギとなるのは、私たちの心の持ち方、つまり人生や世界をどう見るか、ということだといえると思います。

個人のレベルでも、公共のレベルでも、多くのことは、私たちの心の持ち方しだいです。個人生活、家庭生活において幸せか否かは、私たちの感じ方によるところが大きいのです。もちろん、物質的なことも、幸福と良い生活にとっては重要な要素です。ですが、
心の持ち方も、それと同じくらい、いやもっと重要なのです。

二十一世紀はすぐそこまで来ています。宗教には、今までにもまして大きな意味があります。しかし、これまでと同様に今でも、
宗教の違いという名目で、紛争だの危機だのが起こっています。これは、本当に、本当に、残念たことです。どんなことをしてでも、この状況を打破したければたりません。

私は経験から、このようた争いを克服するのに
一番効果があるのは、さまざまな信仰を持つ人たちが緊密な接触をもち、交流をはかることだと思っています。それも、知的レベルだけではなく、もっと深いところで交流し、霊的なものとして経験することです。

P-69
これは、たがいに
理解し合い、尊敬し合うようになるために、とても有効た手段です。そしてこの交流の中から、純粋な調和への基礎が作られるのです。

ですから、私は、宗教対話に参加するのを、いつでもとてもうれしく感ずるのです。それに、こうして何日間か皆さんとお話することで、私のつたない英語を磨く機会もできて、本当にうれしいかぎりです(笑い)。

インドでの私の住まいはダラムサラですが、そこに引っ込んでしまうと、ただでさえつたない英語がどんどん下手にたってしまいます。ですから、こうやって皆さんと対話するのは、私の英語の上達にはありがたいことたんですよ。

異なった宗教問の調和はきわめて重要であり、最上に必要たものであるというのが、私の信
念です。

どうやったらそれに近づくことができるか、いくつか私が考えていることをお話しましょう。まず、さまざまた宗教の学者たちに集まってもらって、宗教間の相違点、類似点を話し合ってもらうのはどうでしょう。そうすれば共感することもあるでしょうし、おたがいについての知識も増します。

次に、さまざまた宗教で、より深い霊的た経験を積んだ人々に、集まってもらいます。これには学者である必要はありません。それよりも、純粋にその宗教を信仰し、修行している人たちに集まってもらい、その宗教を実践修行することで得られた洞察を話し合います。私自身、経験から、こうすればより深く、また直接的に、たがいを啓発するのにとても役に立つと知っています。

P-70
スペインのモントセラートにある大修道院を訪れた時のことは、他の機会にもお話しているので 、皆さんの中には聞いたことがある方もいらっしゃるかもしれません。

私はそこで、一人
のベネディクト会修道士に会いました。その方は私に会うためだけに、そこに来てくれていたのです。彼は私よりもずっと英語ができなかったので、私は意を強くして話しかけました。昼食のあと、しばらく二人だけで話し、この修道士が修道院の裏山で何年間か過ごしたことを知りました。

一人きりのその長い年月、どんな黙想をしていたのかたずねますと、
彼の答えはたったの三語でした。「愛、愛、愛」。なんとすばらしいではありませんか。彼だって、ときには眠ったと思いますよ。でも、その長い年月の間じゅう、その修道士はただ愛についてだけ、瞑想していたのです。

しかも、言葉についてだけ黙想していたのではありません。彼の目を見つめた時、私はそこに非常に
深い精神性と愛を見ました。トマス・マートソと会った際に見たのと、同じものでした。

この二つの出会いで、私はキリスト教に、またこのような徳の高い人々をつくりあげることのできるキリスト教の力に、敬意を感じるようになりました。

私は、主要た宗教すべての目的は、心の外に立派な寺院を建てることではなく、みずからの「内側に」、つまり心に、善良と慈悲の寺院を築くことであると信じています。

主要た宗教にはみな、これを達成する力があります。他の宗教にも価値があり効果があるのだと知れば知るほど、他の宗教への敬意、尊敬は深まります。それでこそ、世界の宗教の間に、純粋た慈悲と調和の精神を築くことができるのだと思います。

学者や経験を積んだ修行者だけではたく、一九ハ六年のアッシジでの会議のように、さまざまな宗教の指導者がときおりともに集まってともに祈ることも、公共的な観点からいって重要

P-71
なことです。たがいを認め合い、理解し合うための、これは三つ目の簡単で効果的な方法です。世界の宗教の、調和をめざしての四つ目の方策は、異たった宗教の人たちが、一緒にたがいいの聖地を訪ねて、巡礼の旅をすることです。数年前、私はイソドでこれを始めました。それから、私はフラソスにある聖地ルルドやエルサレムヘ、巡礼の旅をしました。

それらの場所で、私はさまざまた宗教を信じる方たちとともに祈りました。いっしょに瞑想したこともあります。そして、この祈りと瞑想の中で、私は真に霊的なものを感じました。わたしのこの巡礼の旅が前例とたって、そのうちに
皆が一緒に聖地を巡礼し、自分たちの宗教から得た経験を分かち合うことが、当り前になるといいと願っています。

最後になりましたが、瞑想についてお話しましょう。クリスチャソの兄弟姉妹の中にも、日常的に瞑想をしておられる方々はいらっしゃいます。私は瞑想をとても重要なことと信じています。

イソドには、サマーディ(Samadhi)という瞑想の伝統があります。これは
「心を静寂にする」瞑想で、ヒソドゥ教、仏教、ジャイナ教などイソドのすべての宗教に共通のものです。

また、ヴィパシャナ(vipasyana)とよばれる、もっと「分析的た瞑想」をする宗教も多くあります。サマーディ、つまり「心を静寂にする」ことが、なぜそんなに重要なのでしょう?

サマーディは
「意識を集中する瞑想法」とも呼ばれますが、これは心の働きを活発にし、心的エネルギーに通路を開く力をもっています。心的エネルギーに通路が開かれますと、ひとつの対象に徹底的に意識を集中させる能力がつくので、サマーディはイソドの主な宗教の「すべて」において、霊的た修行に欠かせないものとなっています。