壱岐日報平成20年(2008年)5月6日(火) 《連載》
古代史異議 伊伎國見聞録−最終回ー著 奥村忠光・占部英幸 題字・荒 井 紫 峰
国名の「日本」 については、確証があるわけではありませんが、六〇七年の遣隋使は「日出る国」と「日本」を名乗っておらず、七二〇年に完成した「日本書紀」は「日本」を強調しています。 従って「日本」 の名は、六〇七年から七二〇年の間に発生したと推測されます。
天武天皇の建国した「新しい国」は、六七二年に建国されており、近隣諸国の文献に「日本」の名が登場するのは、凡そ七世紀の半ばとする研究者もいますので、天武天皇の新しい国の国名が「日本」だったと考えても、奇想天外な話ではないと考えています。
神武天皇の東遷
前記のように神武天皇の実体は火遠理命(ほをりのみこと)です。こんな目で改めて神武東征を検証してみましょう。天武天皇は日向を出発、豊国の宇沙(うさ)を経由し、竺紫の岡田宮(遠賀川の河口)で一年、阿岐の多祁理宮で七年、吉備の高島宮で七年を過ごした後、大和に向かう途中、速水門(はやすいのと)で亀の甲に乗って釣りをしている国つ神に逢い、海路に詳しいか尋ねた上で雇っていますが、速吸門の位置が間違っています。(日本書記は訂正)日向から大和に向うには、九州東岸を北し、豊予海峡(速吸門〕横断して四国に渡り、沿岸を東行、安芸、吉備、大和の道順が通常で最短の道順です。
宇佐に寄り道する必要もないし、まして方向違いの遠賀川の河口まで行って一年も滞在することは、当初の目的からは逸脱しています。名前の示すとおり、速吸門の潮流は速いものの、渡海するために海路に詳しい国つ神を雇ったわけですから、当然、速吸門を四国に渡ったはずです。 何故、速吸門の位置を間違えたのでしょう。 原因は出発地を壱岐から日向に変更した混乱の結果発生したと思われます。
火遠理命が壱岐の港を出港して東に向かい、遠賀川の河口で一年を過ごし、陸路を東にとって宇佐に向かい、そこで船を調達して南に下り、潮道に詳しい国つ神を雇って速吸門を東の四国に渡った、と考えれば、岡水門で逗留し、宇佐に立ち寄ったことも自然な行動に見えます。
陸路を宇佐に向かったと考える理由は、当時の手漕ぎ船で、未知の関門海峡を通過するのは、極めて困難だったと考えるためです。六〇八年、中国からの使者・襲世清が来日した時も、北九州の何れかの港で上陸した後、陸路をとって東に向かい、九州の東海岸の港から大和に向かっています。
観光案内にある黒崎半島の猿岩、天手長男神社の祭神を根拠に、「天孫降の地・壱岐説」小冊子にまとめ、壱岐市教育委員会に提出したところ、一支国研究会の会員で、郷土史に詳しい占部英幸氏を紹介され、意見交換の機会を作って頂きました。
占部氏は既に、壱岐の神社に祭られる神々や、壱岐から大和朝廷に出仕した人物の動向から、「古事記
の原典は壱岐の神話」とする趣旨の見解を発表されています。 占部氏の見解に、猿岩の存在、対馬との関係など地理的条件も新たに加え『天孫降臨の地・壱岐説」を改めて世に問いたいとの思いが一致し、壱岐日のご支援も頂き、『伊伎見聞録』として発表させて頂く機会を得ました。
いずれは全国レベルの発表を考えていますがその前に、壱岐在住の方のご批判やご指導を仰いだ上で、地元の方々にも違和感のない『伊伎国見聞録を完成したいと考えていますので、忌博のないご意
を頂ければ幸いです。(完)
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