一大国平成雑記G 伊伎國見聞録の盲点(3)
川路瀧馬
さてそのサクヤの息子ホデリ〔海幸彦〕とホヲリ〔山幸彦〕の話になるが、ヤマサチが兄の釣り針を無くして海岸で途方にくれている時、シホツチ神が現れて、竹篭を作り、これに乗ってゆけば、うまく潮路に乗って海神の家に着く。その娘が万事上手く取り計らってくれようぞ。と言って籠を押し流した。伊異の筆者は、海岸は黒崎、流れ着いたわだつみは、対馬の峰にある海神〔わたつみ〕神社と言っている。
確かにこの宮は「豊玉姫命」が主祭神であるが、当社の起源は、神宮皇后が三韓征伐の帰途に八流の旗を木坂山に納めたことにあるというから、時代が合わない。加えて、黒埼沖から漂流すれば、対馬暖流と潮汐の関係で、山口県仙崎沖に漂着する。戦後に機関不調の漁船が三日後に発見された事例も複数ある。第一、その当時は、万関瀬戸の開削は未済〔日露戦争前に海軍の手で出来た〕で、神様の潮路に乗っても、上・下対馬を大きく迂回して浅茅湾に入り、複雑に入り込んだ仁位の浜に到達できるだろうか。
明治三十八年〔1905〕五月二十七日、対馬沖海戦〔日本海海戦〕で撃破された露西亜艦隊乗員の一部は、琴に上陸して救助されたが、山口県萩市の見島に五十五人、越ケ浜に八人。須佐町に三十三人。島根県益田市土田北浜海岸に二十一人。江津市和木に二百三十五人。平田市十六島町に漂着したロシア兵の墓があり、隠岐島にもある。対馬沖海戦における漂着遺体は、対馬から青森まで、日本海沿岸域の三十九箇所、七十八人を埋葬している。これらの史実で、対馬海流の動きをご理解頂けたと思う。
猿岩は沖からみれば、どこにでもある単なる大岩で、海崖の岩に混じって目立たない。内陸から見る猿の形は、自然の造形に過ぎない。男岳神社の小猿群は、水子供養のお猿さんたちである。塞神信仰は、安産祈願、性病治験信仰がある。郷ノ浦、塞の神の巨大?な張りぼては、ご当地若旦那たちの〔今はご老人〕お遊びと言える町興し造形物。かつて壱岐島は、二つの郡に分かれていた。即ち壱岐郡と石田郡〔いわたぐん〕である。この郡境の海が、永仁二年[1294〕大地震のため山崩れで埋まって境界がわからなくなったという。元禄十三年〔1700〕にも大地震があり、家屋倒壊すとある。
壱岐はしばしば大風水害、飢饉に襲われた。税の免除、朝廷からの救恤米支給の記録もある。ご存知のとおり風水害や平均気温が一度上下するだけで暮らしに大きな影響を与える。平成三年〔1991〕秋の19号台風により、壱岐の稲作、家屋も大被害を受けた。4年春には生産農家の保有米も底をつき、米穀店の在庫も品薄となった。3年のイネ作柄は、296k/a。平年作450k・つまり66%(長崎県平均)であった。4年の作柄は、まずまずであったが、5年は、冷夏で大凶作となった。長崎県は、396k/aと88%となったが、東北部の穀倉地帯が戦後の大不作となり、6年6月頃より島の米穀店、農家の庭先からも米が一斉に姿を消した。中国米、タイ米、豪州米の入手に奔走して、何とか飢えずにすんだ。平成の米騒動である。知り合いの老夫婦が経営する米屋さんに、超高級米九千円/10K・が売れ残っていて、思いがけぬ賛沢もしたが、旧盆過ぎは、米売りさんの電話が殺到した変な年であった。この年は作柄が460k/a.l02%の豊作となった。グローバル化した平成の落とし穴であったが、太古は更に厳しい状況におかれたであろう。
弥生時代は寒冷期が2回あった。二世紀に訪れた気温の低下が、原の辻を放棄した原因かもしれない。邪馬邪馬台国も消滅したのか?。オオクニヌシの国譲り神話は、カラカミの版図拡張、つまりアマテラスが高天原〔新城谷江川中流域〕にあっての交渉事と見受けられるが、壮大な出雲神話〔出雲風土記〕の存在を否定するのですか?記の記述の大きな部分は、スサノオ・オオクニヌシに関することです。崇る神として朝廷が恐れる神、庶民にとっては豊穣、福をもたらす大黒様、ここでは深くとりあげませんが、境界争いと國譲りでは全く範傭が違いましょう。
往古、津島から見れば、壱岐島は瑞穂の国かもしれませんが、魏志倭人伝に云う南北に市糴しなければ食料不足の貧しい島だったのです。家三千余と記載されていますが、その、ほぼ650年後の承平五年〔939〕壱岐の戸数二、〇七〇戸、人口一〇、三五〇人と記録されています。天孫降臨が、民族、部族、あるいは血族の移動と見るかによって、史観も異なってきます。アマテラス家が対馬から壱岐島へお引越しと考えれば、伊伎見聞録も面白いが、余りにも誤解、独断、飛躍があり過ぎるようで賛成いたしかねて筆を執りましたが、国史・壱岐史の恥部に触る心地がして、気も筆も進みませんでした。平成二十年九月二十一日校了(おわリ)
(注)米作の数字は〔九州農政局長崎統計情報事務所壱岐出張所〕に拠りました。
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