壱岐日報平成20年(2008年)10月27日(月)(4)

続・一大国平成雑記@  お月見のこと(上) 川路瀧馬
    
秋のお月様は美しい。今年の十三夜は十月十一日であった。澄み渡った夜空に輝く月は、世界にさまざまな神話を生んだ。一般には、栗などをお供えするので、栗名月とも言うが、我が家では、その習慣も廃ってしまった。今や宇宙基地をお月様に建設しようかという時代が近づいたが、地球のエネルギーがそれまで、持つかどうか疑問だ。壱岐の略中央、国分東触に月読神社がある。案内板によると、中が月夜見尊、左が月弓尊、右に月読尊が 御祭神とある。素人考えで、勝手に一柱の神様で拝する位置で異なるお姿なのだと解している。

 西暦487年〔顕宗天皇の時代?〕押見宿禰が祀ったとされている。「記」によると、ツ
クヨミはアマテラスの弟で、イザナキが楔のとき、左目を洗った時にアマテラスが、右目を洗った時にツクヨミが生まれ、鼻を洗った時にタケハヤスサノオが生まれたとある。黄泉の国から戻られたイザナキが、みそぎのときに、その杖や脱ぎ捨てた衣服、垢などから沢山の神々をお生みになった。最後に生まれたこの三人の神々を見て「生みて、生みて最後に尊い三柱を生んだ。」と、大層喜ばれて、項〔うなじ〕に掛けた首飾りを外し、ゆらゆらとさせながらアマテラスに向かって「そなたは神々の、います高天原を治めたまえ」と仰せられてすべてのことを委ねて玉を授けられた。 

つぎに
ツクヨミに「汝命者、所知夜之食國牟。事依也。」と仰せられた。つまり、夜を食べる、自分の物にする、夜を支配せよ。の詔である次にタケハヤスサノオに向かって「そなたは海原を治め給え。」と委ねられた。〔紀〕では少し違っていて、「天照大神は、高天之原を御(しら)すべし。月夜見尊は、日に配(なら)べて天(あめ)のことを知(しら)すべし。素さ鳴尊は滄海之原を卸すべし」と命じられた。はやばやと天上に在ってアマテラスがツクヨミに「華原の中つ国に保食神(うけもちのかみ)がいると聞くので、行って様子を調べて来い。」と命じた。

ツクヨミは、早速降って保食神に合うと、ウケモチノカミは、首(こうべ)を廻して国に向かうと、口から飯が出てきた。海に向かったとき大小の色々の魚が出、山に向かったときは様々なけものが出てきた。それらの沢山の品々を多くの机に調えて饗応した。 それを見たツクヨミは、憤然と色をなし、「稜(けがらわ)し、汚し、なんで口から吐き出したもので我輩を賄おうとするのか、」と怒って忽ち剣を抜き、保食神を殺してしまった。

ツクヨミは天上に帰ってアマテラスに、この事を具に報告したところ」アマテラスは、激しく怒って「お前は全く悪い神だ。顔も見たくない。」と行ってしまわれた。それから一日一夜、隔て離れてお住みになった。夜と昼の分れなのだ。前置きが長くなったが、
ツクヨミは歴史から姿を消してしまう。

 私は、壱岐に月夜見尊を招詞した押見宿禰は朝鮮からの渡来人だと推理する。壱岐の郷土史に始めて人名を明記された押見宿禰は韓国慶尚北道、ホハン(浦項)付近の人かもしれない。
 
ヨンイル湾(迎日湾)に臨むこの市は、大製鉄所の町として栄えているが、この「浦項綜合製鉄」に隣接するポハン海水浴場に古代日月をお祭りした〔日月跡〕が保存されています。この付近の地名をトグ〔都郎〕と言うが、迎日郡都丘洞がその地である。

韓国の古史書『三国遺事』に興味ある話が掲載されています。−新羅第八代アダルラ王が即位した年(阿達羅王四年・西暦一五七年?)トンへ(東海・韓半島の東側の海/日本海)の海辺にヨンオラン(延烏郎)とセオニヨ(細烏女)夫婦が住んでいた。ある日、浜でヨンオランが海草をとっていたところ、岩が現れてヨンオランを乗せて日本に行ってしまった。これを見た日本の人々は「ただ者ではない」と驚いて王に推戴した。  (つづく)

続・一大国平成雑記A お月見のこと(中) 川路瀧馬

夫が帰ってこないので海辺に探しに行ったセオニョは、岩の上にヨンオランの靴を見付けると、岩がまた動き出して日本に行き着く。日本の人たちは、このことを王に報告する。夫婦は対面して王は彼女を貴妃(キイビ)にする。以後新羅では、太陽と月が光彩を失ってしまった。

太陽を見て吉凶を占う巫者の日官が、「太陽と月が日本へ行ってしまいましたので、こんな世の中になりました。」と新羅王に報告する。王は使者を日本に派遣して、ヨンオラン夫婦に、どうか戻ってきて下さいと頼むが、ヨンオランは、「我々が日本に来たのは、天がなされたことである。今更帰るわけにはいかんのだ、だが、わが妃が織り上げた綺麗な絹の布があるので、これを持って帰り、日と月を祭れば、もとに戻るだろう」と言い、細鞘(サイショウ・薄い絹の小布)を与えた。使者は、それを貰って帰国して言われたとリにお祭りしたら、日月の光が戻った。絹布を王宮の倉庫に保管し、この蔵の名を「貴妃庫ギイビゴ」とし、日と月をお祭りした地を迎日県または都祈野という。

東洋史をひもとけば、この時代、朝鮮は高句麗が南下して戦乱が続き、三国時代といわれる、新羅王朝も(356年)興るが戦乱が絶えることなく、391年百済、新羅を倭軍が支配した時期もあったが、その後、高句麗軍が南下して、新羅を援けて400年倭軍と戦闘を交えることになる。応神、仁徳朝の頃である。918年高麗が興り、しらぎは新羅文化を残し935年滅んだ。百済もも936年滅亡し、高麗が朝鮮半島を統一した。

これらの戦乱によって、多くの朝鮮の人々が日本に渡来した。新羅で言えば、北緯36度付近の迎日湾から船出すれば、朝鮮半島東岸をリマン海流に続く北鮮海流に乗って南下して、巨済島(ゴジユド)付近から取り舵いっぱい、対馬暖流に乗って、対馬西岸に到達するであろう。それは、韓・中国の多量の漂着ゴミの実態が証明している。押見宿禰もその一人であったのであろう。450年に高句麗が新羅に攻め入り、475年には百済の都漢城を落城させ、百済は熊津城に遷都している。また489年に新羅の孤山城が高句麗の手に落ち、494年に百済も高句麗に降伏している。(つづく)