H月読神社
 月読神(天照大御神の弟)を祀り、天手長男神社と同格の延喜式内大社でしたが、今では無格の神社になってしまいました。その原因は、月読神の分祀にあるようです。顕宗天皇の3年(487年ころ)、阿閉臣事代(あべのおみことしろ)と云う天皇の使者が任那に向かう途中、壱岐に立ち寄ったとき、月神が人に尽く憑依して『我(月神)に都の土地を献上しなさい』と伝えました。天皇が山背国の葛野郡にある歌荒樔(うたあらす)の田を献上しましたので、押見宿禰(おしみのすくね)は月読神を分霊、朝廷に出仕してお祀りし、このことから、壱岐の月読神社は、日本における神道発祥の地といわれるようになりました。

 松尾社家系図によれば、天見屋根命の18代の孫に押見宿禰の名前が見え、子孫の押見宿禰が壱岐の住人だったわけですから、先祖の天見屋根命が遍遍芸命に付き添って降臨した土地も、壱岐だったに違いありません。尚、対馬からは下県直(しもつあがたのあたひ)が「日神」を分霊し、都に出仕し、「日神」は後に、天照大御神になったといわれています。


I車出遺跡
 車出遺跡は、原の辻遺跡と並んで壱岐を代表する弥生時代の拠点集落遺跡で、原の辻遺跡とほぼ同じ時代のものといわれています。大国主神が遍遍芸命に譲り渡した国が、黒崎半島のある島の西側だったことから考えれば、車出遺跡が、大国主神の葦原中国の都だったとも考えられます。東側にある原の辻遺跡が少名毘古那命の常世の国、西の車出遺跡が大国主神の葦原中国だった、という意識で見学してみるのも面白いでしょう。

J城山公園
 聖母神社の近くに城山公園があり、信濃の諏訪神社から贈られた「御柱(おんばしら)」が建立されています。諏訪神社から贈られた所以については、この地で亡くなった俳人河合曾良が、諏訪市の出身だったことに拠るものですが、古事記の世界では全く別の関係になります。大国主神は、高天原の神々に「国譲り」を強要されたとき、応じるか否かを二人の息子に相談しました。 
 兄の事代主神は国譲りに同意、弟の建御名方神(たけみなかたのかみ)は反対しましたが、建御雷神(たけみかずちがみ)との力比べに負け、「科野国(しなののくに)の州羽(すわ)の海」に逃げて行きました。葦原中国と諏訪はそんな縁で結ばれています。伊邪那岐・伊邪那美神は「おのごろ島」に降り立ち、「神聖な一柱」の周囲を廻りながら、日本の国土を生みました。

 日本書紀は「おの、ころ島」を周辺の小島を含む壱岐・対馬のことと記しています。壱岐の別名・天比登都柱(あめのひとつばしら)は、国生みの「神聖な一柱」を意味し、諏訪神社から神聖な御柱が、天比登都柱の国に贈られた所以に見えます。伊邪那岐・伊邪那美の神は、きっと、こんな「一本の御柱」の廻りながら日本の国土をお作りになったのでしょう。(つづく)

伊伎國見聞録ー(6)
島のほぼ中央部にあって少彦名命を祀っており、別名は国分(くにわけ)神社で、今も「国分神社」の印を使用しています。延喜式内小社ですが「由緒沿革」によれば、国分の名前の所縁は、昔、大己貴神〔大国主神の別名)と少彦名神が、国土を半分ずつ領有、支配していたことによると記されています。古事記も『大穴牟遅(大国主神)と少名毘古神と、二柱の神相並ばして、この国を作り固めたまひき。然(さ)て後は、少名毘古那の神は、常世の国に度ましき』と伝えています。

当時の「国」は、日本全土を意味するわけではなく、日向の国、出雲の国などと同じような狭い意味で使われており、この場合は壱岐の国を指しています。3世紀の日本のことを記した魏志倭人伝によれば、魏国と好(よしみ)を通じていた国だけでも30国以上あったそうです。(注百本全土を意味する場合には「天の下治(あめのしたし)らしめしき」(全土を統治された)というような表現をします。

少彦名神の国は「常世の国」と呼ばれ、後の神功皇后の御世にも存続していたことが、摂政即位13年の歌で確認出来ますが、一方の大国主神の方は、遍遍芸命に国を譲り渡しました。壱岐の国の中で、大国主神が譲り渡し、天孫が降臨した葦原中国は、黒崎半島のある島の西側にあったはずですから、少名彦那神の「常世の国」は、東側にあったはずで、周辺には国分川もありますので、このあたりが、葦原中国と常世の国の境界だったと考えています。

高天原の史跡
L製鉄所跡
あまり知られていませんが、国片主神社の東、凡て500mの地点で古代の製鉄所の跡が見つかっています。九州大学の調査報告書によれば、1700〜1800年前のもので、福岡などで見つかっている製鉄所跡のものより、古くて精巧なものだそうです。高天原では、既に鉄の鏡や剣が作られ、盛んにト占が行われていました。製鉄所跡の発見は、カラカミ遺跡のト骨の発見と並んで、考古学的見地から高天原の存在を裏づける、重要な要件の一つといえるでしょう。

M大清水
高天原には、天の安河が流れていました。国を譲ってもらうため大国主神のもとに、安河の上流の岩屋に住んでいる建御雷神を使者に遣わすことにしましたが、その神は安河の水を塞き止め、ダム状にしていますので、鹿の神以外には近づくことが出来ませんでした。天の安河を現在の谷江川に見立てますと、水源地に湧水の豊富な大清水と呼ばれる溜池があり、水を塞き止め、ダム状になっていたという天の安河の上流の地形に重なります。
(つづく)