朝日旅行会一ノ宮巡拝会ツアー伊賀・伊勢国(1)
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            2004年9月8臼(水) 解説 生谷 陽之助
1.伊賀国  播磨国  紀伊国

 伊賀国は当初、伊勢国に属していた。天武9年(680年)分割、阿拝・出田・伊賀・名張4郡で一国となる。国府は上野市印代。伊勢神宮・東大寺の荘薗が多く、平家の所領もあった。鎌倉以降、大内・千葉・仁木氏が守護。 しかし、服部氏など在地土豪の勢力が強く、実権はこれら国衆の連合体が持ち鹿妻配していた。 天正9年(1581年〕織田信長が平定。同13年、筒井定次が入封。上野城を築成、慶長年間、伊勢津藤堂藩領。明治維新後、三重県に編入。国名の語源は遠い普、伊勢を支配していたという猿田彦命の女、伊智津姫から「伊賀」とされたという。国のランクは下国。       

伊賀一宮敢国神社(アエクニ)〒518−0003 三重県上野市一  之宮 TEL0595-233061
 旧国幣中社。延喜式内伊賀二十五座のうち大一座、国幣大社。
主神 敢国津碑(大彦命) 配神 少名彦命・金山比当ス。 大彦命第8代孝元天皇皇子、崇神天皇四道将軍の一人。阿閉臣の祖神。

  伊賀の地を開拓土着。御墓山古墳(国史蹟)は命の御陵という。佐那具集落辺り出麓の前方後円墳。全長188m後円部100m。5世紀半ばのものと推定されている。後円部に埴輪円筒が3段に埋設され、南東に2基の円塘の陪塚あり。 その子孫が阿拝(アエ・アへ・アベ)を名乗り阿閉・阿部・安部氏。(阿部仲麻呂、安部晴明〕金国のアベさんが崇敬。

    
”天の原ふりさけみれは春日なる三笠の山にいでし月かも”
 少名彦命 出雲系の神。医薬・製糸・機織・酒造や歌舞音曲の碑
 金山姫命、美濃一宮南宮神社から勧請。『大日本一宮記』はこの  神を主神としている。鉱山・金属の神。南宮山に摂社浅間神社。
 服部氏は河拝郡服部郷の出自。少名彦命を祖先とするという。『新 撰姓氏録』では腹部連、麻羅宿璽の後裔。伊賀忍者は敢国神を守 護神としていた。 貞観6年(864年)正六位上、同15年正五位下。慶長年間、藩主藤  堂氏が社殿創建。 三間社流通。

 
芭蕉句碑
 
”手はなかむ音さえ梅の匂いかな” 
 点亨5年(1688年)参詣時に発句。 松尾芭蕪(1644〜1694)伊賀上野の人。奥の細道で名高い。
2.伊勢国
伊勢国の名の由来は大和国の背中とする説。聖地の五十鈴川によるとするもの、五十瀬すなわち川が多いという意味。また出雲系の神、伊勢津彦命によるとか定説はない。古くは伊賀・志摩を含めた十九郡の大国であった。伊勢といえば、皇祖天照大神を祀る皇大紳宮
の代名詞である。皇大神宮は日本国神社の筆頭で八百万神の最高位とされている。一宮の対象にはならない別格の存在である。

「延喜式」では13郡。国府は鈴鹿市掴府町。伊勢神宮の神郡・神領地が多かった。平安末期は平家の拠点。鎌倉時代は平賀・大内氏などが守護。南北朝時代は南軍北畠氏の拠点となり、戦国時代は公家大名化した北畠氏ほかが支配。織田信長が乎定。江戸時代は伊勢津藤堂藩や幕府直轄領・紀州藩領などがあった。明治になり南部の紀伊の−部と合わせ三重県となる。慶長3年(1598)の石高は567,105石。伊勢鄭こも一宮は二つある。椿大神社(ツバキオオカミヤシロ)と都波、奈如等神社(ッパキナカト)である。旧社格は両者ともに県杜で同格。伊勢国二宮は桑名郡多津町の多度神社という。室町時代の真福寺本『類聚既験抄』に「信楽大菩薩二宮也。多度明紳也」とある。しかし、「伊勢国恵日山観音寺神名帳」に伊勢国内の大社「当国十一所」の筆頭を「多度太神」である。天照大神の第三子天津日子根命を祭祀する旧国幣大社である。

境田彦命、瓊瓊杵尊の天孫降臨の際、天の八ちまたに立ち迎えて皇孫を筑紫の臼向の高千穂峰へ導いたという。このことで道祖神ともいわれ、現在では交通安全の神とされている。容貌魁偉、鼻の長さ七咫、背丈七尺余の大男という。伊勢地祇神、天鈿女命と結婚。
伊勢、阿耶茄訶(アザカ)海岸で漁をした時、大貝の比良夫貝に手を挟まれ溺死したという。伊勢、宇治土公氏の祖先。猿女氏は天鈿女命の子孫(稗田阿礼)

棒大神社(ツバキオオカミヤシロ)〒519-315 鈴鹿市山本町御旅 TEL、0593−71-1515                                               
 旧県杜、延喜式内鈴鹿郡十九座の囲幣小一座。伊勢国、大十八座、小二百二十玉座。
主神 猿田彦大神 配神 ?々杵尊・天之宇受女命・行満大明神ほか。行満大明神は社伝によると、猿田彦命の神孫で修験遺の開祖で艶の役行者を導いたという。当社の神主は代々山本家の世襲。創建以来猿田彦を名乗っていたが、崇神天皇のころ行満と称し、その系統が神主としてその祖先神を祭祀して釆られた。 貞観7年(865)従五位上勲七等から正五位下。南北朝時代には伊勢一宮とされた。