朝日旅行会一宮巡拝ツアー紀伊国
              2004年11月3日(水)解説 生谷 陽之助
 
紀伊国
 紀伊国は南海道に属し、団のランクは上国。現在の和歌山県と三重県南部、熊野市・尾鷲・紀伊長島を含む。海岸線は長く、紀伊水道から熊野灘へと統き、黒潮が流れる美しいリアス式海岸が見られる。内陸部の山間は雨量が多く、わが国有数の林業地帯である。 紀伊国の語源は「木ノ国」。植樹の神、五十猛命(イタケルノミコト)が鎮座されている由縁である。本日参拝する伊太郎曾神社の主神である。

 古くは紀伊国造、熊野国造が支配していた。紀伊一宮日前宮、紀宮司家(旧男爵家)は紀伊国造の子孫とされるQ現宮司の紀俊武氏はその八十一代日である。 法事式内では名筆・那賀・伊都など7郡とし、国府は和歌山市府中にあった。中世では紀伊国造の子孫とされる。現宮司の紀俊武氏はそ八十代目である。延喜式内社では名草、那賀。伊都など7郡とし、国府は和歌山市府中にあった。中世では畠山・細川等の守護大名に高野山・根来寺などの荘園地が数多くあつた。天正13年(1585年)、豊臣秀吉の紀州征伐があり統一。江戸初期に御三家紀州五十五万五千石の笹川藩の支配地となった。しかし、紀伊国の米生産量は慶長3年(1558年)、「日本賦税」によると約24万石。生産量の増えた江戸時代でも35万石程度。伊勢松阪など飛地併せての石高であった。

紀伊一宮日前神宮・国懸神宮
                 〒640-8322 和歌山市秋月TEL O73-47-3730
 同一境内・左に白前宮(ヒノクマ)、右に国懸宮(クニカカス)ニ杜が祭祀されている
両社併せ音読して白前国懸宮(ニチゼンコクケンデウ)とも略して日前宮(ニチゼングウ)
と呼ばれている。わが国でも最古の神社とされ、所在地名から名草宮」ともいう。
祭神
 白前神宮 白前大神 紀神 思兼命・石凝姥命
 国懸紳宮 国懸大神 配神 玉祖命・明立御影命(アケクツアメノミカゲ)天鈿女命
 創建は紀伊国造家の始祖、天道根命(天孫降臨三十二神の一神)が日像鏡、日矛鏡を奉
じて名草郡毛見郷に祭祀。ついで崇神天皇51年名草浜宮。垂仁天皇16年、名草郡萬代
官の現在地に遷座されたと伝える。
御神体の日像鏡(ヒガタ)は天照大神を天岩戸から招きだすため鏡作の神、石凝姥命が天照大紳のお姿に形取った鏡を鋳造されたものという。このことを考案された神様が思兼命である。高天原の智慧者ともいう天孫降臨軍団の参謀長役とされている。 この鏡は神意に叶わず、日矛鏡が造られたといわれる。その次に鋳造されたのが、三種の紳器の一つ伊勢皇大紳宮の御神体とされる「八咫鏡」である。「日前」はその前に鋳造された鏡という意味であろう。天照大紳の前霊として日前・国懸神は同神という。

延喜式内、官幣の名神大社、朝廷から特別な優遇があり、中世の神領地は3000町もあった。神位は伊勢皇大紳宮と同じく皇祖神として超越していたためなかった。 鎌倉時代建仁元年(1201年)、後鳥羽上皇の熊野御幸の際、藤原定家が奉幣の使者とし参拝している。天正13年(1585年)、豊臣秀吉の紀州攻めがあり、雑賀・根来衆とともに、太田城で抵抗したが社殿は破壊され、領地も没収された。六十七代国造、紀忠雄は勧神体を奉じて高野山麓の丹生神社に避難した。代々宮司の官位は高く忠雄は徒五位下刑部大輔で大名並であった。徳川頼宣が紀州入りし寛永4年(1627年)、社殿が再興され、社領も400石とされた。
この紀氏の地盤は紀ノ川流域の豊かな農耕地帯である。日前の神を「名草上下溝口神」と占文書にある。紀ノ川から感慨用水路を開き耕地を拡げ、生産カの向上に貢献された神様と推察できる。出雲族の王家という説もある。大陸半島渡来の先進土木技術をもたらした溝口神、用水の神が日前神の根源だったかも知れない。
現社殿は大正時代に造営。両宮とも同形式。正面五間、側面三間、縁、欄干のない土間敷で古代風である。屋根ほ入母屋平入。棟に千木、堅魚木がある。摂杜は紀伊氏の租神を祀る天道根紳杜をはじめ20社。末社も60社を数える。

伊太祈曾神杜 〒640−0361 和歌山市伊太祈曽558
 旧官幣中社。廷喜式内名神大社。垂仁天皇16年まで日前國懸両宮の社地に鎮座、次で亥の森から奈良朝初期和銅6年(713年)、現在地に祀られたと伝える。
祭神 主殿 五十猛命(イタケルノミコト、大屋毘古神)  左宮 大屋津姫命(主神の妹君〉 右宮 抓津姫命(ツマソヒメ、次妹)神々の系譜では、五十十猛命は須佐之男命の御子とされ、宗像三女神の弟、大国主命の正妃須勢理比売命の兄にあたる。佐渡国一宮、度津神社もこの三神を祭祀している。 この大屋津姫命と抓津姫命を祀る神社がある。大屋都比賣神社(和歌山市宇田森59)・都麻都比賣神社(和歌山市吉札宮垣内)。両社とも廷喜式内名神大社の古社である。
●その事蹟については、『日本書紀』神代巻上に許しい。
 
「素蓋鳴尊其ノ子五十猛神ヲ師イテ新羅に降到リマシテ曽尸茂梨(ソシモリ)ノ處二居マス…‥初メ五十猛命天降リマス時二多二樹種ヲ将チテ下リキ。然レドモ韓地二植エズシテ盡ク持帰リテ逐二筑紫ヨリ始メテ、凡テ大八洲國ノ内二播種シテ青山二成サズト言フコトナシ。コノ故二五十猛命ヲ称へテ有功之神タナス。即チ紀伊國ニマシマス大神ナリ。」
 五十猛命が父君と一緒に朝鮮に天降り住まれ、多くの樹木の種を持っておられた。だが、朝鮮では播かず日本へ持ち帰り全国に播種され植林を広げられ、紀伊国こ鎮座されたということである。大屋津姫、抓津姫命は兄君に協力され尽くされたという。このため古来から樹の神、植林の神として林業、木材業者等から信仰されている。
●神位は貞観元年(859年)、従五位下勲八等、延喜6牢(906年)、従四位下で後
正一位勲八等とされている。日前宮は伊勢神宮とおなじく位階を超越した存在で伊太祈曾神杜より上位である。日前の神は天孫族系。五十猛命は出雲族として評価が緯違うのか?
 この神社を一宮とする文献は平安末期、久安4年(1148年)10月の『伊太祈曾神杜文書』に『紀伊国一宮」とあるのが、根拠とされる。しかし、鎌倉時代、『関白九条道家下文』には「当国第二社」とされている。中世は神仏習合で新義真言宗、根来寺との関係が深かった。奥宮の丹生神社に接して真言宗傳法院がある。根来寺は中世、広大な荘園と僧兵の武力をもち、紀ノ川両岸地帯に勢力をもっていた。それを背景に一宮を名乗った と見られる。

●社殿 本殿・脇殿共に東面。本殿流造、檜皮葺。面行二間六尺、妻行二間四尺。古来の社殿は天正13年、豊臣秀吉の根来寺焼打で罹災。羽柴秀長が再建。昭和11年大修理。

丹生都比賣神社 〒649-7141 和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野
  延喜式内名神大社。通称天野神社と呼び、別に丹生神社、丹生高野明神、天野四社明神とも称される。明治6年県社、大正13年官幣大社。
祭神 第一殿(−宮)丹生都比賣大神(ニウツヒメ〕、第二殿(二宮〕高野御子大神、 第三殿(三宮)御食都比賣大神、第四殿(四宮)市杵島比賣大神.。 一宮・二宮・三宮…‥の呼称は神社内の序列して主神殿を一宮として別殿を二宮・三宮
・・・・とする場合もある事例である。
                                            
   丹生都比賣は天照大神の妹君とも御子という雅日女命(ワカヒルメ)の別名とされてい  る。高天原の斎服殿で神衣を織っておられた時、須佐之男力命が乱暴を働き、投げ入れた逆剥の天班駒(アメノフチコマ)に驚いて稜(ヒ、はたおリの時、くだを入れで横糸を通す道具)で陰を突いてお隠れになった神である。この事が原因となり、天岩戸事件となり、須佐之男は高天原から追放される。高野御子は丹生都比賣の子神。天野大祝の遠祖、丹生氏の阻神である。宮司家は古くは代々丹生氏だった。狩場明神ともいう。御食都比賣は気比明神、市疎島比賣は厳島明神。

神社の創祀は丹生都比賣大神はいい伊都郡奄太村の石口に天降り、大和や紀伊国の各地を廻り開墾、田地造などをされ、最後にこの天野原に鎮座されたと伝える。また『播磨風土記』の説によると、この大神が神功皇后が新羅遠征の際、託宣があり平定を援助して「赤土」(アカエ、朱砂・水銀)を授け勝利したという。これに感謝て皇后が、神を紀伊国菅川の藤代の峰に祭祀したという。大和、紀伊奥地は朱の産地だった。

丹生の丹は丹砂、水銀。水銀は朱砂ともいひ、朱の原料。古代では薬・塗料・顔料などに使用される貴重な鉱産物であった。この地の水銀鉱開発の守護神であるともいう。 また丹生の神は水神と見る線もある。天野の地は紀の川の水源地であり、弘法大師が丹生の神から領土を受けたとい高野山領地は有田川・貴志川・丹生川等の流域である。大和国吉野の丹生川上神社上・中・下社も水神信仰の神社である。奈良東大寺の「お水取り」に若狭井の水を送るという遠敷(オニュウ)明神(若狭一宮若狭彦神社)もニウの神と推定されている(五来重氏説)。

社殿 本殿四殿は国重要文化財。一間社春日造極彩色。室町中期、文明2年(1470年)、再建。楼門も同時期の再建。三間一戸二層、屋根入母屋造りで、同じく国重要文化財である。

高野山との関係
弘法大師空海は丹生都批賣命の導きで、高野山に真言密教の根本道場を創建したとされる。以来、丹生の神は高野山真言宗の守護神として崇敬されている。高野山・大師霊廟域内や京都・東寺境内に神社として狩場明神とともに祀られているという。
正に中世の神仏習合の形態である。                                                                     
一宮とされた理由 
平安初期以来、紀伊一宮は筆頭神社は日前・國懸宮であった。鎌倉時代に入り、武士階級が支持する八幡神等「軍神、イクサノカミ」が台頭してきた。神宮皇后の三韓出兵に勝利を、もたらされたという丹生の神が浮上されたのだろう。
 元寇の役弘安4年(1281年)、蒙古襲来の時、神威あり勲功大とLて、亀山上皇から和泉国近木荘が寄進されている。 一宮の論拠として、弘安8年(1285年)9月、『金剛峯寺宗徒等申状』(高野山宝寿院文書)に「就?関東御尋、日前宮諍一宮」とある。鎌倉幕府へ日前宮との一宮争いを訴えていると見る。

紀伊一宮の座を巡り、軍神として名高い高野山の鎮守丹生社と日前宮 との一宮騒動である。 九州でも武士階級が庇護する八幡宮等と古社の一宮との紛争が、肥前國・薩摩国などで起こっている。国筆頭の神社として名実ともに第一位である「一宮」指向は
何時の世になっても変わらない。歴史的な変遷による一宮争いは各地にあり、面白いエピソードがが数多い。

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