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命は大切にしろ
産経新聞 平成26年(20川年〕2月2日 論説委員 日曜に書く 別府育郎 「戦争は悲惨なものである」 新兵さんはかわいそね 戦争で父は、陸軍の砲兵として中国の東北部から行軍し、南洋の島で捕虜となった。南洋の島では、ひもじさのあまりに、仲間が次々、ゴムの葉を食べて死んでいったのが辛かった。そう話したことがある。 酔えはたまに、就寝ラッパのメロディーに乗せ、「新兵さんはかわいそねまた寝て泣くのかね」と、泣き笑いのような表情で歌った。直接の戦闘の話はほとんど口にすることなく、4年前に89歳で亡くなった。 2干通のはがきの意味 身内の話続きとなるが、昨年9月に発売された「日本が戦ってくれて感謝していますーアジアが賞賛する日本とあの戦争」(井上和彦著、産経新聞出版)が、すでに10万部を売った。著者がアジアを歩き、各地で聞いた日本と日本軍に対する感謝と尊敬の言葉を記したものだ。担当者からは、2千通近い読者からのはがきがすごいのだ、と聞いた.借りて、読んだ。 「日本のために尊い命を犠牲にして戦ってくださった方々のことを現在の日本人は認めず、自国の悪口ばかりをいう人が多く、悲しい思いをしていました。アジアの方々に感謝されていることを知り、ほっとしました」(熊本県水俣市、田代〕 「もっと早く知りたかった。涙が出て止まりませんでした」(大阪市東成区、70代)。「戦争をしてはならないことは百も承知している。.しかしすべてが悪ではなかった。欧米は植民地支配からやがて撤退したろうが、大東亜戦箏がそれを早めた」(福岡県春日市、80代〕 「長年の胸のつかえが、この本により消えてしまいます.涙なしでは読めません。少しは生きていてよかったと感じています」(徳島市、80代) 「今の日本があるのは国のために戦ってくださった方々のかげ。亡くなられた方々に恥じぬよう生きなければと思いました」〔富山県滑川市、20代〕 「特攻隊の部隊の隣で過ごしました.食堂があじ、夜は毎晩、泣きながら知る限りの歌を歌う。その声は忘れられません」(福岡市東区、80代〕 「自信をなくしていました、この本に会い、涙しながら読みました」(千葉県柏市、80代) 「本好きな田舎のおばあです.涙々の連続でハンカチをそはに置いて読みました。兄が特攻隊の要員で、終戦が一日延びたら戦死していたと思います」(岐阜県中津川市、80代) 「父は母の体内に私を残し、ニューギニアで戦死しました。父の顔も愛情も知らず育ちましたが、日本が戦ってくれて感謝しております」(兵庫県朋石市、70代〕 「ガダルカナル、インパール、重慶と戦って仏印に至り、べトナム人に賞賛され、また来いよ、といわれて内地に帰った。何が過ちなのか」〔仙台市青葉区、99歳) 「戦争に行った父は、戦争のことを話さず他界しました。私は先の戦争がアジアの方々に多大な苦痛を与えたとばかり考えてきましたが、気持ちの中にあった霧が晴れたような気がします」(札幌市中央区、60代) ごくごく、一部である。 平和を守ることの辛さ 「戦争とは悲惨なものである」と話したのは、元陸軍少尉の小野田寛郎さんだった。戦後の30年間、フィリピン・ルバング島の密林で任務を続け、元上官の任務解除命令を受けて昭和49年に投降。今年1月16日、91歳で亡くなった。終戦60年を迎えた平成17年8月、「還暦ニッポンを語る」と題し、ジャーナリストの櫻井よしこさんと本紙で対談していただいた。 記者も立ち会った。小野田さんの言葉は、こう続く。「戦争の悲惨さは伝えなければなりませんが、ただそれだけでは十分ではないと思います。じゃあ戦争をしないためには、どこまで我慢できるか。その我慢が切れたら結局、戦争になってしまうのです。そんなことも考えずに平和、平和といいますが、そういう人たちは平和を守ることの辛さを、真剣に考えてくれているのかな、と思ってしまいます」 戦った人の言葉の重みだ。戦い、黙したまま亡くなった人たちの言葉を、もっともっと聞くべきだったのだ。戦争はまた多面的なものでもある。一方の正義は必ずしも他方の正義になり得ない。当然のことだ。ただ、戦った人たちの大多数は、家族や故郷、国のために戦った。必死に戦った。その思いや尊厳を、傷つけたままでいいはずがない。(べっぷいくろう)2014.2.2 金美齢女史の伝説の演説 小野田少尉の遺言 田母神俊雄氏の提言 靖国神社にて さかもと未明 靖国神社にて 笹幸恵 永遠のゼロ 百田尚樹 |