大東亜戦争・日本の悲劇への証言

今村 均 興亜観音 トインビー&翁
パール博士の言葉

時が、熱狂と偏見をやわらげたあかつきには、
また、理性が、虚偽からその仮面を剥ぎとった
あかつきには、そのときこそ、正義の女神は、その秤(はかり)を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を変えさせることを、要求することであろう。

《説明》
パール博士写真像掲額について
   平成十三年十二月二十三日、『興亜観音』 において行われた、殉国七士の命日法要にあたり、興亜観音本堂正面の須禰壇(しゅみだん)の右側に、東京裁判のインド代表判事、ラダ・ビノート・パール博
士の
写真像が掲額されました。
                          
   この写真は、今から六年前、同台経済懇話会が中心になって、京都霊山護国神社境内に建立された 「パール博士顕彰費碑」 に使用された博士のお写真と同じものを、同台経済懇話会から、興亜観音にご寄贈戴いたものです。パール博士が、東京裁判において出された判決文の最後に、「勧告」という一章があります。この勧告文について、田中正明先生は″勝利におごり、権力の無制限な行使によって、あえて真実をねじまげ、法の名にかくれて、卑劣・野蛮な復讐心を満足せんとする、連合国の指導者にむかってなされた項門の一針であると同時に、法の真理とは何か、将来の人類の生きる道が何であるか、われわれが希求する平和とはいかなるものであるかを説
いた、警世の書ともいえよう“
『パール博士の日本無罪論』 で述べておられます。その勧告文の最後を飾ったのが、右の 「パール博士の言葉」 です。日本人には、いつまでもこの言葉を忘れないでいて欲しいものです。


太陽の光がこの地上を照すかぎり、 月の光がこの大地を潤すかぎり・夜空に星ガ輝くかぎり、 インド国民は日本国民への恩は決して忘れない。

(情報源:靖国神社への手紙)
               P・N・Lekhi
                 (インド最高裁弁護士)

十二月八日
               
ククリット・プラモード

 
日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が、米・英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。
             
それは身を殺して仁(じん)をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大な決意をされた日である。
われわれは、この日を忘れてはならない。

説明
ククリット・プラモードは、一九一一(明治44年タイ王国の名門の家に生れ、英国オックスフォード大学に留学、帰国後は、同国で最も権威のある「サイヤム・ラット」紙の主幹を務めた。一九五五 (昭和30)年、元タイ国駐屯軍司令官・中村明人(あけと)中将が、国賓待遇で日本から招かれた時、同紙に発表したのがこの文章でした。氏はその後(一九七三年)、タイ国首相になっています。
(名越二荒之助編『昭和の戦争記念館・第4巻』 (展転社刊)より)

米国上院軍事外交合同委員会に於ける
マッカーサー証言
           
(一九五一年五月三日)
 
日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在してゐたのです。 もしもこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。