松永安左工門翁について二題 後藤圀丸 再度壱岐に渡った松永安左工門翁の杖をついたカラー

大型(畳一枚分の大きさ)写真。撮影・寄贈杉山慎氏

 
一、サミュエル・ウルマンの詩「青春」の訳について
私の戦友で、高田作次先生が千代田診療所(塩崎療法)を主宰していて、私は昭和四五年十一月発足のちよだ会(診療所の患者さんの会)の常務理事(現在は理事長)を仰せつかった。私は昭和四九年七月ちよだ会発行の会誌「ちよだ」第一〇号記念特集号「平林寺・松永安左工門翁の墓参」と題する随筆を書いた。墓参は三月二四日だったが、真鍋会長に進言し当会で六月九日に平林寺で翁の三回忌法要と偲ぶ会を盛大に催し、精進料理は患者さんの「むさし野」にお願いした。これを機に高田先生とは松永翁の話しをするようになった。

 ちよだ会顧問蛭川鉄之助先生は、書をよくし、
ウルマン「青春」の詩全文を毎日三枚ずつ巻紙に書いていて、時折り高田先生が頂戴していた。或るとき高田先生が「青春」というのは「松永安左エ門翁の訳」だよと言って、松田滋夫様から斎藤英太郎様に対する書翰「再び『青春』の詩について」というコピーを私にくれた。

 昨年『雪州会だより』の原稿募集に当って理事の松永良春氏(活ノ勢丹ファイナンス取締役業務部長)が「望郷」と題する原稿を下さったが、最後部分で、サミュエル・ウルマンの「青春」について書いてあり、私も感ずるところがあって、私は高田先生からいただいていた蛭川先生九十三歳のときの書「青春」を松永氏に贈った。氏は喜んでこれを表装して掲げているとのことだった。

 本年二月一〇日付日経新聞で、
外山昭和女子大学教授が、この詩のことにふれ、作山宗久訳と発表された。私も関心があったので、問合せてその訳書がTBSブリタニ力版であることを知り買求めたところ『青春という名の詩』が既に宇野牧・作山宗久共著として産能大学出版部より出版されていることが判ったこの本の中で@「青春」の詩オリジナル作山宗久訳と、A日本翻訳版の「青春」(松永安左工門訳との説)というのが冒頭でとりあげられていた。後者は私が昨年の『雪州会だより』にとりあげたものと同じものである。前者とは内容が大分異っている。著者自身もこの「青春」には各種あって内容が異っているものがあることを認めている。この共著の中で、伊藤忠兵衛氏(伊藤忠商事の創立者)の子息伊藤恭一氏(呉羽紡績社長を経て東洋紡会長、現相談役)から著者宛の書翰が公開され、「松永翁の名訳」であると伊藤氏は発表しておられる。

 さらに伊藤氏の連絡によれば、「青春」は松永翁がダグラス・マッカーサーの執務室を訪問された折り、額に入ったこの詩を見て所望されたのが日本最初のものと、電力中央研究所の方より承った。亡父伊藤忠兵衛(公益事業委員会が出来たとき松永翁と共に五人委員の一人であった)に松永さんの紹介を頼み、その和訳をもらった。松永翁は自分の訳と言っていたし、養子の安太郎さんも間違いない、と言っていた。伊藤氏は、英、和の青春を並べて印刷し、友人に贈ったりした。 米国バーミンガムの市立図書館に私家出版のものがあって、当時五十年近く経過しているので、自由印刷しても版権侵害にならないとのことで、一九七四年東洋紡の会長引退時に二〇〇〇部印刷し、恩人、友人、同僚、部下に配布したとのこと。

 その頃会社の取引先の結婚披露で、伊藤氏が主賓として祝辞を述べたときに、同じテーブルにいた宇野收氏(伊藤氏の後輩)が、伊藤氏が新郎新婦に英文で詩を読んだのを感じてその使用の許可を求められ、伊藤氏も正しく使ってくれと渡した。宇野氏は日経新聞「明日への話題」という欄に「青春の詩」につい投稿したら、何百通もの問い合わせがあったとのこと。作山宗久氏はあまりに「青春の詩」が英文も和文も勝手に変更され自分の作の如く使われるので、定本を作りたいと伊藤氏に申出られた。伊藤氏はもう引退者で、宇野收氏が関心をもっているので、宇野、
作山共著で「青春という名の詩」が刊行されたといい、そして印税は全部アラバマ大学ウルマン財団に寄附されることになっているとのこと、訳は松永翁のものであると信じている、とのことであった。

 なお、伊藤氏は「青春」は、恰も雲にそびえる富嶽の如きものというイメージを心に画いて、時々寝る前に英文で読んでいる、信仰心のない私の心の支柱かも知れませんとまで言っておられる。相前後して今年の三月私は昨年の『雪州会だより』にのせた「再び『青春』の詩について」・・・高田先生からもらったコピーを松永良春氏の「望郷」欄にのせたもの・・・にある松田滋夫氏にお会いすべく、当会理事牧山康敏氏(日刊工業新聞情報サービス局長)に紹介を頼んでこれが実現し、神田にある東邦通商鰍ノお訪ねすることが出来た。「青春」が飾ってある広い相談役室で、お話しを伺ったが、
この詩の訳者は松永翁に間違いないと熱っぽく言われ、自著「冬瓜」三冊をいただいた。その中の第三巻に松永翁の訳である事がしるされている。

 電力中央研究所の貞森常務理事も松永翁の訳と聞いていると言い、松永翁が言葉に厳格であったことについてはトインビーの「歴史の研究」の翻訳のときに訳者を途中で交替されたことでも判るし、最近のNHK編集で、製作・発売日本放送出版協会のNHKカセットブック、「肉声できく昭和の証言松永安左工門」のカセットテープの中でも、日本語であいまいな点は英語で言い替えられていることなどからも明らかである、と言われ、実際このカセットの中で貞森氏の言われるとおり翁の英語の言葉が二、三ケ所でてくる。

 平成二年一〇月図書出版社刊行の小島直記著「晩節の光景松永安左工門の生涯」には、松永翁はトインビーの
「歴史の研究」邦訳にあたり、昭和四十一年翁九十二歳のときその第一巻の「刊行の辞」を書くために、シュペングラーの「西洋の没落」の原書を、赤と青のアンダーラインを引きながら終日読破した、と書いてある。翁の語学の強さが判るのである。「青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。優れた創造力、邊しき意志、炎ゆる情熱、怯儒を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ……」この言葉は年齢や暦に関係のないことをのべた言葉として、近年わが国で静かなブームを起こしている。

 私は昨年の『雪州会だより』にこの詩全文をのせ、松永翁の訳として発表したが、その責任上、関係者にお会いしたり、電話や書翰でお教えを受けて、益々その確信の度合いを深めたのである。
当会二代会長松永安左工門翁の遺された文化的遺産が、わが国の第一線で活躍する人たちを大いに奮起させているのである。


二、再度壱岐に渡った松永翁の写真について

 松永安左工門翁の杖をついた大型カラー写真が、撮影者杉山慎先生(東光電気工事椛纒\取締役・相談役・八十六歳)によって新たに寄贈され、すっきりしたかたちで、見学者・観光客の目にとまることになった。杉山先生は側近中の側近、鈴木鹿象氏の部下で、松永翁の信任を得、翁の写真も数多く撮ったが、杖をついたこの写真は昭和四十二年十一月二十三日の
小田原松永記念館第十四回特別展観のときのもので、予め翁の立つ場所を決め、一回だけシャッターを切ったのがこの写真で、翁のお気に入りのものという壱岐の松永記念館開館式に杉山先生も出席し(このとき東光電気工事の社長)、この写真を寄贈されたものである。それが退色したので、今回多額の費用をかけ、それを無償で松永記念館と併せて壱岐郷土館に寄贈されたものである。お願いした私も即座にご承諾の言葉があって感激した。現在壱岐には両館と、松永翁と親交のあった横山三郎家(日本ツバキ名誉会長)所蔵のものが、松永翁ゆかりの少弐資時を祀る壱岐神社に横山家から奉納され、計三枚がある。

 昨今松永翁の真価が見直され、書籍など続々と発表されている。最近二年間のものに限って私の知る限りでも、松坂直美『わが人生は闘争なり』(教文出版再版・壱岐の松永記念館で売出し中)、白崎秀雄『耳庵松永安左工門』新潮社上下二巻、日経新聞『春秋』、日経新聞『私の履歴書』、九州電力永倉相談役、中部電力田中会長、月刊『文芸春秋』、『ブッククラブ』小島直記『晩節の光景-松永安左工門の生涯』図書出版社、宇野・作山両著『青春という名の詩』産能大学出版部、『かえるの声』誌四月号、『インフォーダイヤ』誌四月号何れも大谷健、三鬼陽之助『この経営者の急所を語る』第一企画出版、編集NHK・発売日本放送出版協会『経済大国を築いた指導者が語る・肉声で聞く昭和の証言松永安左工門』カセットブック本年二月発売、『財界』六月二五日号執筆・三鬼陽之助などがある。

 
『耳庵松永安左工門』には「玄海の濤に洗はれて・・・壱岐と少年時代」(松永翁自身の著で昭和八年九月国民時論社刊行)がとりあげられ、著者の白崎氏も壱岐に行って取材し、翁の少年時代のことをこまやかに追及、迫力がある。先年、五月書房刊行の「松永安左工門著作集」全六巻には、資料の提供をうけながら編者がとりあげなかったと聞き壱岐のことだけに残念に思っていた。今回それがとりあげられうれしく思う次第である。NHKのカセットには八十七歳のときの翁の愛国の至情を肉声で聞くことができ、貴重である。・・・・翁の偉業