著者紹介
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あとがき 松坂直美 郷党の巨人松永先生の盛名を知ったのは古い。初めてお目にかかったのは昭和八年の春、母校の壱岐中学修学旅行の生徒を案内し、丸の内の東邦電力本社にお伺いした時である。晩年には、毎年毎年小田原の松永記念館(老欅荘)で行われた展観招待日に数回出席し、その馨咳に接したが、私にとり先生は余りに雲の上の人だった。 特に身近に感ずるようになったのは、ご生家の保存に関し自川応則先輩の依頼で、横山孝雄町長との折衝に当たるようになってからで、真鍋儀十、椿原常太郎、白川応則氏等雪州会の先輩と再三会合を重ね、「壱岐松永記念館」設立の話は進んだのである。記念館設立案は十数年前から郷里であったが、先生の反対にあい立ち消えとなっていた。 これを実行する為に、秘書の井上繁氏とも相談し、先生には内密に建設を進め、後で先生の承諾を得る方法を取ることになった。幸いに電力各社の御後援により、二年後に松永記念館は完成したが、先生は落成式の一ヶ月前に亡くなられていた。 「電気はすべての企業の源である」その電気を安く提供する事が生涯の夢で、先生の一生は「生きた日本の電力史」と呼ばれるように九十五年の全生涯を電力エネルギー開発育成に挺身された。若し電力が高かったら、今日全世界を制しつつある日本の工業は成り立たず、自動車・電気製品、カメラ、時計等の世界進出はできなかっただろう。 日本が敗戦のどん底にあえぐ時、当時の政党や財界から総反対を受け、大衆からも鬼と罵られながら「電力の回復なくして日本の将来はない」の強い信念で、電力革命をなしとげた功績は永遠に語り伝えられよう。この巨人の足蹟を永久に伝えたい、それが郷里の後輩の義務だと考え私は筆を執った。 多くの資料を読み、一見無手勝流とも見える先生の電力攻防戦も、その底には綿密な計画と、細心な準備や根まわしがほどこされていることを知り驚嘆した。 「歴史の研究」の著者トインピー博士が、小泉信三、谷川徹三、松本重治、本多次郎氏等と同席の茶会で、「松永さんが戦国時代に生まれていたら、織田信長のように天下を取っただろう」と語ったと伝えられるが、まことに的を射た言葉である。 一子夫人が亡くなられた時に、親しい友人知己にもいっさい知らせず、家族だけで埋葬されたという点に私は強く心をうたれた。日頃から、他人には迷惑をかけないという先生らしい心づかいである。しかし反面邸内にお堂を立て、毎朝お経をあげて亡き夫人の冥福を祈る、やさしい心の持ち主であった。 先生自身が亡くなられた時も遺言により、葬儀其他いっさい行われず、坊さんも呼ばず、奥さんの墓の側に埋葬された。墓石にも戒名はなく「耳庵居士、松永安左工門」と書いてあるだけである。 私は先生の生涯をありのまま伝えたいと考えたので、先生の自伝にもとずき、電力攻防戦や再編成に関しては三宅晴輝先生の「松永安左工門」、鎌倉太郎先生の「電力三国史」に負うところが多い。 もともと本書は壱岐の松永記念館を訪れる人の案内書のつもりで書きはじめたので、当時の横山孝雄館長と相談の上筆を執った。松永先生が一介の電力王でなく、つねに日本の将来に思いを馳せ、五十年百年先の雄大な構想を立てた、経世経国の人松永安左工門像を描きたかった。しかし読み返してみて未熟で、巨象の足の先をなでたに過ぎないことを知り、甚だ慙愧に耐えない。先生に関して今後とも大方の先輩諸氏のご教示、ご指導を願えれば幸いである。 執筆にあたり、電力中央研究所井上繁常務理事、長瀬誠次調査室次長の御両氏には資料面其他で再三御手数を煩わした。感謝に耐えない。また御多忙中のところ快よく序文を執筆下さった井上五郎氏に心から御礼を述べたい。 尚、郷党の真鍋儀十(雪州会名誉会長)、椿原常太郎(元九州耐火煉瓦社長)・白川応則(元東北電力副社長現雪州会長)、松永安太郎(前サンケン電気社長)・香椎?(香椎産業社長)横山孝雄(長崎県県会議員、前松永記念会長)後藤圀丸(雪州会幹事長)等の諸氏には一方ならぬお世話になった。厚く御礼を申し上げる。また本書の装幀を引き受けて頂いた山口岩男氏は、同郷壱岐芦辺町出身、新進気鋭のデザイナー目下第一線で活躍中である。 尚、本書出版に当たり快よく写真を提供された、カメラ界の鬼才杉山吉良氏・側近にあっておりふしの写真をよく撮られた東光電気工事株式会社杉山慎会長の御厚意を謝すと共に、郷党の先輩のために進んで出版を引受けられた香椎?社長に重ねてお礼を申し上げる。 尚、本書執筆に当たり、次の著書を参考にさせて頂いた。付記して著者の諸先生に厚く御礼を申し上げる。 ○玄海の濤に洗はれて(松永安左工門) ○学問のすすめ(福沢諭吉) ○自叙伝松永安左工門(松永安左工門) ○私の入生読本(松永安左工門) ○悔いなき人生の記(松永安左工門) ○可笑しけりゃ笑え(松永安左工門) ○松永安左エ門(三宅晴輝) ○まかり通る(小島直記) ○電力三国志・東京電力の巻(鎌倉太郎) ○電力三国志・東北電力の巻(鎌倉太郎) ○耳庵先生風流譚(宇佐美省吾) ○土佐っぽ(長崎勧) ○松永安左工門相談役追悼号(九州耐火煉瓦株式会社) ○松泉会記録(松泉会編) ○電力中央研究所二十五年史(電力中央研究所) ○松永安左工門翁の憶い出(松永翁の憶い出編纂委員会) 跋 再出版にあたり 松坂直美 昨年暮、山口常光先生の胸像を建てるため壱岐に帰り、後藤圀丸副会長と〈松永記念館〉を訪れたところ、担当の方が「『わが人生は闘争なり』の本をぜひ欲しいという人がありますのですが、絶版のようで送って来ません。何とか再版出来るようにお願いします」と話があった。帰京後いろいろ交渉をし、新しく序文をお願いするなどで半年以上の時間がたった。 松永先生が亡くなられたのが昭和四十六年六月十六日だから、すでに十八年もの歳月が過ぎ去った。先生が産業計画会議を計画し、政府に勧告された一九五六年〜一九六五年の間に十四回の勧告を提出されている。この中で先生の生存中に出来上ったのは「東京-神戸間高速自動車道路」と「海運を全滅から救え」の二案だけで、先生が亡くなられてから「国鉄の民営化」「タバコの専売制廃止」が陽の目を見ただけだ。 「東京湾横断道路」は第十二次勧告として昭和三十六年に提出され、時の政府はこれを必要と認め、調査費を予算化して計上したものの、建設に動き出したのは昭和六十三年である。自分の利害のために動く政治家は多いが、真剣に国のため人のために動く政治家が如何に少いか、これはよく物語っている。(海ほたるを初めて利用して) 先生は八十才、九十才になっても老いを忘れ、常に二十年、三十年先の日本の将来を考え続けていたことを知り、最近の日本人は自分本位にのみ物を考える人が多い故、これからの日本を背負う若い人に本書を読んでもらいたいのが私の念願である。(戦前の子供教育) 本書初版が発行されたのは一九八一年であったが、当時序文をお願いした井上五郎先生、松永記念館創立発起人代表横山孝雄、当時の石田町長、表紙の顔写真を撮られた写真界の鬼才と呼ばれた杉山吉良先生のお三方もこの八年間にすでに故人となっている。 初版の時、帯の推薦文をお願いした永野重雄先生、今里廣記先生もすでに故人である。今里先生は長崎県人会の会長であり、私は戦後ずっと県人会の壱岐の常任理事だった関係で親しかったが、初版の出版記念会を「松永先生を偲ぶ会」として開いた時、今里先生は当日中国へ出かけられる前の一時間をさいて特別に出席して頂いた。 今里先生はその席で、松永先生は目を常に世界に注いでおられ、先生と池田勇人首相を囲む財界四天王の会が毎月一回必ず催され、私もある時出席したが、席上松永先生は池田首相に「天下の政治は大蔵省の役人がやることではない、君は本当の政治家になれ」といましめられたことが私の頭に刻みこまれている。これらの先生の助言が日本の経済高度成長政策転換へのきっかけとなったのであった等の重大秘話を披露された。ご両人共故人のため、今回の帯の推薦文は財界評論家として著名で且又、生前松氷先生と親しかった三鬼先生にお願いした。そこで初版の時の帯の推薦文を本書に記念の意味でここに発表させて頂くことにした。 日本商工会議所会頭 新日本製鉄取締役会長 永野重雄 松永安左エ門先生には若い時から随分可愛がって頂いた。財界人として卓越した識見の持主の 翁の面影をしのぶにふさわしい本書が生まれたことを喜び、あえて推薦の辞を贈る。 経団連常任理事 日本精工取締役会長 今里廣記 明治、大正、昭和をたくましく生き抜いた不出世の財界人松永安左工門翁のことを仔細に見つめて、その足跡をたどられた本書は実に立派な記録と思います。電力の鬼松永さんの人間の偉大さに、若い人は必ず共感し、感化を受けることでしょう。 再発行にあたりどなたか序文をお願いしたいと、電力中央研究所の理事の方にお伺いしたところ、「九州電力の現相談役の永倉三郎先生は、学校卒業と同時に東邦電力に入社された方だから、松永先生の元気一杯の頃をよくご存じだと思います。最適任者ですよ」との返事で、早速お手紙を差し上げたところ、いま丁度物を書いているからしばらく待つように、との返事があり、序文は二ケ月後に頂くことが出来た。この時永倉先生が執筆されていたのが、日本経済新聞の九月中に「私の履歴書」として毎日連載されたので御覧になった人も多いと思う。松永先生のご薫陶を受けた方として頂戴した序文は本書の巻頭を飾っている。まことに貴重な一文である。三鬼先生ならびに永倉先生に心から厚く御礼を申上げる。 再発行に当り、快よく紙型をご提供下さった前出版社香椎産業の香椎?社長の絶大な.こ好意で、希望通り定価の引下げも出来た。私の無理を聞いて出版をお引受け下さった教文出版の立石公博社長といい、香椎社長といい、そのご好意はすぺて愛郷心と郷土の偉人松永安左工門の足跡を永遠に壱岐の人々の頭に残し伝えたい一心からである。著者である私からこれら多くの方々へ心から御礼を申上げる。 (一九八九・九・九) |