元寇の役・敵味方鎮魂・地球平和祈願のメッセージが壱岐國の一ノ宮タナガオ神社から世界に向けて発せられました。・・・・えいえいと続く、民族紛争(宗教戦争)・・・恨みは恨みを生む、ただ恨まないことで安寧は得られるという仏陀の言葉が宇宙に、全世界に届きつつある・・・・。壱岐国ルネッサンスの心よ永久に・・・。





両忘庵USA「大木宗完和尚」・・・左はし

鎌倉円覚寺


壱岐国ルネッサンス” バックボーン
・・・・・・禅が 世界を 救う 21世紀  この心を 発する 壱岐国ルネッサンス・・・

両忘庵・両忘庵USA
 怨みは怨みなきによってしづまる鎌倉時代の初期に栄西師によって臨済宗を、道元禅師によって曹洞宗を開きさかんになった。文永、弘安の2度の元寇の役のとき無学祖元禅師は渡来し、執権北条時宗は禅師に深く参じ、元冠の役の一切が終わったとき、時宗は禅師に図り、元冠の役に散った敵昧方を共に弔う願心をもって、鎌倉円覚寺を建立しました。プッダ釈尊の言葉の
「怨みは怨みによってしづまらず、怨みは怨みなきによってしづまる」(ダンマ・パダ、法句経)という精神で供養したのです。円覚寺は、明治初年の廃仏稀釈を受けていましたが、洪川宗温が入寿し、門下に名憎が輩出して近代日本の知識層に居士参禅が盛んになりました。

アメリカに仏法を伝播した釈宗演
 円覚寺管長釈宗演(1859〜1919)は、日本代表として世界に向って仏法を説きました。宗演は若狭高浜一瀬市に生まれ、12歳のとき妙心寿越渓について得度し釈を姓としました。20歳で鎌倉円覚寺洪川宗温に参じ、25歳で印可嗣法して洪岳の号を授与されました。その後、慶応義塾に学ぴ、塾長福沢諭吉は、宗演を見て他日かならず貫主たるであろうと、大いに勉学を助けました。明治20年(1887)、宗演が卒業すると、福沢諭吉・鳥尾得庵・山岡鉄舟らは宗演のため資金を募り、セイロンに遊学させました。金渉寺パフニヤセイカラ尊者に師事し、ここで梵語を学び、戒律を修行すること3年間、南方仏教を研修し、インド仏蹟を巡拝しタイ、中国を巡遊して帰国しました。

 明治25年(1892)、洪川宗温の没後、34歳で円覚寺菅長(1859〜1919)となりました。明治26年(1893)大会9月18日、アメU力のシカゴで開催された万国宗教大会で、日本代表として「仏教の要旨並に因果法」と題する講演し、多くの感銘を与え、
弟子の鈴木大拙(1870〜1966)をアメリカに留めました。明治38年(1905)、建長寺・円覚寺両派管長を辞めて東慶寺にかえりました。アメリ力、ヨーロッパを巡錫し、帰国後、台湾・中国や日本全国を巡教した。禅の普及に尽くし「禅の会」をつくり夏目瀬石・野田大塊らの知名人が参禅した。大正3年(1914)、臨済宗大学長となり、大正8年〔19i9)11月1日、61歳で逝去した。

産経新聞       平成17年10月23日 会社社長 酒井孝さん

宗教心 目覚めた「西遊日記」

 「生き方を変えたい」と二十年間のサラリーマン生活をやめた。定年まで働いていても、つまらない人生で終わるかもしれない。そのころ、新訳本の出版話が舞い込んだ。これが「西遊日記」との出合いだった。 「あの時代に海外へ出ていくなんて。読んで元気が出たよ」

 日本がまだ近代国家の形成途上にあった明治二十年、日本仏教の堕落を救うため、海を渡った釈宗演という僧がいた。宗演は大英帝国支配下のセイロン(現スリランカ)で、西遊日記を書いた。帰国後、円覚寺派の管長に就き、渡米して鈴木大拙を通訳に禅を紹介。西洋世界に衝撃が走り、禅ブームをもたらした。

 「この国の形を作った明治人の魂がある。(日露戦争などが時代背景の)司馬遼太郎の『坂の上の雲』の世界のようだ。今は時代が閉塞状態だからこそ、考えるヒントがつまっている。現代人の栄養剤になればいいね」「人生の一冊」と出合ったことで、「仏教を勉強したい」と夜学の通った。人間の本質を理解するには、宗教本来の意義と役割を考えることだと分かったという。

 宗演の足跡を訪ね、インドでダライ・ラマにも会い、この言葉に感銘を受けた。「どの宗派でも無宗教でも構わない。慈悲と思いやりの心を育ててほしい」 市場調査会社の社長でNPO法人の事務局長も務める。「人間学」を広めたいからで、宗教評論家になりたいとの希望もある。なぜ、宗教心を探求し続けるのか。目を輝かせてキッパリ。 「人間としての基本を形づくるのに一番大切だからです」    (高見沢悠)
 


両忘庵と釈宗活のアメリ力伝導
 明治禅界の巨匠円覚寺管長今出洪川が始めた東京の居士団体の
「両忘庵」山岡鉄舟勝海舟・高橋泥舟・中江兆民・鳥尾得庵らの宗派によらぬ参禅会でした。両忘は「能所両志 能見所見」を意味します。円覚寺で修行した釈宗活は、明治26年(1893)、今出洪川管長が還化したあと、管長になった釈宗演に師事し、得度すると宗活の名が与えられ、将来の管長に目されました。宗活は寿をもつこと嫌い、中絶していた両忘庵を師の命により再興しました。

 明治39年(1906)、アメリ力に伝導を決意し、在俗男女の弟子18名をつれて、 サンフランシスコ郊外ヘイワードで、両忘庵北米支部の看板を掲げアメリ力人に禅の普及をはじめました。明治41年(1908)、宗活が一時帰国したとき師の宗演は、達磨の絵に詩を書いて贈り、いまも両忘庵に伝えられています。アメリ力に根を下ろしたのでしたが、目的を達することはできず宗活は4年目に帰国しました。

宗活に尽くした大木琢堂
 宗活を助けたのが2世庵主の
大木琢堂で薬師寺の資格をもつ琢堂は、薬局で経済的に師を助けるとともに学び、修行をして師宗活の意を継いで両忘庵を干葉県茂原市本納に座禅道場を建立」青少年研修の活動をしました。

 長男を薬局に、2男崇玄を京都妙心寺で、
3男宗完を円覚寺で修行させました。師宗活がアメリカまで渡って発願が達せなかった思いを、宗完に渡米させ、アメリカ各地で禅の普及を指導し、ワシントン州バンクーバーにアメリ力法人「両忘庵USA」を設立することがでぎました。

 アメリカインディアンの聖地自然保護区のワシントン州スカマニヤ郡ホムバレーに、コロンピア渓谷を見下ろす雄大な自然環境に159エーカー(約20万坪)の土地が見つかり、宗完は契約金を支払し、土地の購入資金を得るため日本に帰国して勧進を思ったところ、バブル崩壊でその授かりを得ました。

 仏の思し召しであろうか、不思議なことに
社団法人日本移動教室協会の「子どもを自然にかえそう」という運動と緑が生じ、同協会で所有、その一部を両忘庵USAの所有することになりました。

 
森と渓谷と温泉のあるこの地は、風の山・風の川・風の谷の地名が残るかつてのアメリ力インディアンの聖地であり、また迫害された怨念が残る場所です。ここにセイロン(スリラン力)渡来の仏像を安置して両忘庵USAが大地に根を下ろしました。

釈宗演アメリカ講演100年記念
  平成5年(1993)6月、日本移動敦室協会入江孝一郎理事長が来て、その年は円覚寺釈宗円管長がアメリ力で講演して百年になることが話しにでました。そして「釈宗演師アメリ力講演百年法要と100年記念会」を両忘庵USA大木宗完代表が開催することになり、7月30・31」8月1日の3日間、ポートランド市日本庭園を開場にして、
中村元博士の主宰する東方学院から高橋尭英師を派遣してもらい、直接、英語による原始仏教を講演し、アメリ力人に感銘を与えました。また、冥想・座禅・名墨蹟・梵字仏・インド絵画展・茶道と東洋文化の紹介交流をし大きな成果があがりました。ささやかでも、たえず種を播き・期をみて耕すことが大事なことです。

両忘庵USA庫裏がでぎた
 ブッダ釈尊の時代は道場を建てるのに、皆んなして地をならし、土や石を運び、木を持ら汗を流して建てたといいます。平成9年(1997〕、新しく庫裏が完成し、5月25日落慶法要が、茂原市本能の
両忘庵、鎌倉東慶寺など日本から参加し、厳かに落慶法要が僧侶の読経が声高らかに響きわたり、多数のアメリ力人の参禅者らによって行われました。

 陶芸に開心をもって修行のかたわら陶芸をしてきた
宗完は、オレゴンの土をえて、両忘庵USAに陶器を焼<黛をつり、主に茶器を焼いてオレゴン窯として茶道の人に喜ぱれるようになりました。水指から骨壷と発想が展開してオレゴン窯で骨壷の試作品の製作にかかります。

仏法東漸の長い旅路は
  インドで誕生した仏教がヒマラヤを越え中国、朝鮮半島、日本と伝わったことを
仏法東漸といいます。さらに東へ100余年前、アメリ力に宗演によって仏種が播かれましたのが、さまざまな困難修行をなした人々によって、「両忘庵USA」として道場に看板が掲げられるまでにきました。やっと地に根づいた感がしますが、あとは仏堂の建立、さらに真正仏舎利仏が納められ仏塔(スツパ)の建立の実現によって仏教東漸の地が定まります。まだ道は遠いのです。

仏法東漸の行き着くアメリカ
 なぜアメリカなのでしょうか。そこには深い仏さまの意図が感じられます。アメリ力は建国200年余で世界一の国をつくり、世界を支配しています。
その世界も核兵器・テロ・麻薬、環境汚染・貧困による餓死等などさまざまな問題を抱えています。現代はアメリ力が変わらなければ世界が変わらないのです。

 仏法東漸の意味するところが感じられてきました。自然を含む全てのものは循環とバランスからできています。その因縁の糸によって多くの先人か動かされ、そのための修行をし精進をしてきたのです。仏法東漸もその一つの働きで、両忘庵USAの使命もその公案を課せられているように思います。これに携わる者は修行のしがいがあるし、
目に見えない日本人として使命に動かされていることです。

自然からの「気」(テレパシー)は神と仏
 
日本列島に約2万年も住み続けてきた日本人は、樹木と共に共生してきました。そこの清浄なる地を神の降臨する地として神を祀りました。神様にお悦びいただき感謝し、そして人を悦ばせるために生きてきたのです。天のエネルギーと地のエネルギーを受けて順応して生きてきたのです。

 インドに生まれた仏教も、日本に伝わるとやがて神仏習合し、自然からの気(テレバシー)を受けて、それに順応して生きてきました。自分で生きている生物は一つも世の中にいないのに、人間だけが生きていると考えていますのが、自然を征服という西洋の文明です。日本も戦後怪しくなってききしたが、その二つを持っているのが日本人です。

 神々があらわれる
清浄な地に、古代の日本人は、そこに神社を建てました。それが延喜式神名帳の全国3000社の神社であります。しかも、創建以来、継承され生きているのです。

 
この素晴らしいものを継承してきた日本からアメリ力人が禊行を重ねシアトル郊外に神流神社を建立し、その宮司となり、さらには伊勢国一宮椿大神社も建立されようとしています。この神社は古代のまままの読みです。神仏の種が播かれ、芽となり根づこうとしているのです。日本人という生物が自然と共に生かされてきたという、当り前ことを、地球救世のため神仏の御力が、アメリカ人に具体的に知らせる機会を与えたのであると考えられます。

自然からの「気」(テレパシー)を受けた両忘庵
 
円覚寺管長今出洪川が始めた東京の居士団体両忘庵は、釈宗演・釈宗活・大木琢堂・宗玄、両忘庵USA大木宗完によって、日本とアメリ力に聖地が与えられた。

 
釈宗活によってもたらされて仏舎利が、長い歳月にわたり世に出ることを嫌ってか両忘庵に秘められてきました。仏舎利は仏舎利尊として祈りの対象になるのに、不思議なことに今まで世に埋もれてきました。

 インドではスツーパと呼び仏舎利を納めました。3世紀にアショ力王が名地に建ててから記念碑的性格を帯びるようになりましたが、スツーパは卒塔婆など、仏塔の語源となっています。インドのサンチーの大塔が代表されます。


 
⊃いに仏命が下って世に出る気運になりました。真正仏舎利尊として両忘庵に安置、大法要をするという仏命を受けたのです。しかも宗派によらない両忘庵の1世紀余にわたる歩みをへて大業が世界を救うのために課せられたのです。

 多くの人々の智慧を集め、縁あるものが助け台って、この道を進まねばなりません。勤行の最後に回向を弥えます。

 「願はくば此の功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを」。

 回向は向きを変えるという意味です。今までの向きを変えなさいということです。また、この衆生というのは、人間ばかりでなく生きるもののすべてをさしているのです。


★両忘庵の使命に向って回向
★両忘庵は、真正仏舎利尊安置の仏宝塔建立布施行をします。
★両忘庵は、真正仏舎利尊の仏宝塔落慶法要をします。
★両忘庵は 生前の戒名の受戒と死の自覚をすすめます。
★両忘庵は、戒名と骨壷を生前に用意する功徳をすすめます。
★両忘庵は、真正仏舎利尊の地に希望者の骨壷の永代供養もします。

財団法人両忘会の活動
 両忘庵は、かつて東京の谷中に両忘庵にあつた。釈宗活老師に座禅修行をしていた。平塚らいちよう女史の若いとき両忘庵で座禅修行をしていた。

 千葉県茂原市志納に移った両忘庵は、仏堂のほかに、青少年研修の場として、財団、人両忘会で禅道場と武道道場を活用するためL合宿できる場としてさまざまの団体に提供するとともに、資格を目的としない自らが学ぶ「遊学塾」をすすめ、名特技を教える団体の協力を得て開催します。


発信元:入江孝一郎


オバマ大統領の出現でその夢がj実現に向かって動きだしているようだ・・・・"CHANGE" Yes We Can !

            「井の中のドジョウ」では・・。

 明日へフォーカス 高畑昭男  情報源:産経新聞H23.10.23


 この秋、米国のオバマ外交がアジア太平洋へ本格シフトする予感が強まってきた。あたかも11月のアジアは首脳外交の季節だ。オバマ大統領はハワイでアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議の議長を務めた後、豪州を訪ねて相互安全保障条約(アンザス条約)締結60年を祝う。続いてバリ島で開幕する東アジア首脳会議(EAS)に乗り込み、ロシアとともに公式参加デビューを飾る。

 前政権から引き継いだイラク、アフガニスタンの累積戦費は1・3兆ドルともいわれるが、年末にはイラク撤退が完了に向かい、アフガンからの縮小撤退のめどもつき始めた。今こそ戦略的転機というわけだ。

 「本格シフト」を予感させる材料の一つは、クリントン国務長官が米外交誌最新号に寄稿した「アメリカの太平洋の世紀」という論文だ。

 「世界の未来はアフガンやイラクではなく、アジアで決まる。だから米国は正面から行動する」との書き出しで、太平洋からインド洋に及ぶ地域を一体の海洋戦略でとらえ、外交や軍事、経済などの資源を集中的に投入していくと語っている。

 航行の自由を守り、核拡散を阻止し、軍事透明性を確保する。2国間やマルチ(多国間)の多様なネットワークを展開し、大西洋のように同盟、協力関係、地域機構による平和と繁栄の秩序の網を構築する。具体的には「前方展開外交」と称して

@2国間同盟の強化
A中国など台頭国家との協力
B地域機構に関与する
C貿易・投資の拡大
D広範な軍事プレゼンスの形成
E民主主義と人権の推進ーを行動指針にする。


 インドの存在も重視し、日米印対話などを通じて南西アジア安定の基軸と頼む構想も示している。

 「中国との協力」もポイントだ。裏を返せば、中国が責任ある協力を果たさなければ、問題行動を包み込むための柔らかな包囲網を形成する決意とも読むことができる。

 「ヒラリー節」ともいうべき遠大な構想だが、国務省の公式メールで論文を配布しており、オバマ、クリントン両氏の「太平洋シフト」公約と呼んでいいだろう。これをぜひとも成功させてほしいものだ。

 もちろん米国だけでは難しい。そこで問われるのは、日韓などの同盟国の具体的な連携と行動である。もともとオバマ氏は2年前、初訪日の演説で、自らを「初のアジア太平洋大統領」と呼び、太平洋重視を訴えてきた。

 それなのに、当時の
鳩山由紀夫首相は演説を聞きもせず、大統領を東京に置き去りにしてAPEC首脳会議に向かうという、とんでもない非礼を重ねた。

 後任の
菅直人前首相も同盟強化では実質的に何もしなかった。米国で対日不信が高まり、米韓同盟重視など新たな「ジャパン・パッシング」が起きても仕方のない情勢が続く。オバマ氏とともにAPECやEASに臨む野田佳彦首相には、日本の外で進む米国の太平洋シフトや、中露、豪、印などが手ぐすねを引いて待ち構えている首脳外交の舞台にしっかりと眼を向けてもらいたい。

 党内、国内の内向きの調整に血道を上げ、「ぶら下がり取材」も拒否する。そんな目先の安全運転しか眼中にないようでは「井の中のドジョウ」で終わるだろう。発信もせず、リスクもとらぬ政治から指導力が生まれるわけがない。オバマ外交はアジア太平洋で大きなリスクに賭けようとしている。(論説副委員長)