![]() さて、堅苦しい電気の話は切り上げて、ここで、私のスポーツ歴を聞いていただこう。これでも、若いころはちょっとしたスポーツマンだった。碁や将棋など、座ってやる勝負ごとは嫌いな性質だから、子供の頃からハネまわるほうで、壱岐時代からやったのが相撲と乗馬。 馬のほうは、はだか馬からはじまって、埼玉県の柳瀬に隠棲した戦時中まで続けたから、かれこれ五十年になる。九州時代は馬で会社に出勤したが、自動車などよりはよほど快適で、できることなら今でもやりたいくらいだ。それに馬は飼ってもかわいいもので、動物好きの私にとっては楽しみの一つだった。 相撲などは私どもの頃は誰でもやったことだ。遊ぶといえぱ泳ぐか相撲くらいのもので、取り立てて言うこともないが、余得はある。今でもテレビ相撲の大のファンである。 村相撲の三役格だった自信で、大阪で石炭商をやっていた頃、近所にあった大阪相撲の湊部屋で、ザンギリ頭を相手にしてプロの強さを知ったこともある。一瞬のうちに全神経、全力を集中し、相手を自己のペースに引き込んで勝つ方法を見つける真剣勝負の相撲は、一面人生にも通ずるものがあるから、私は好きだった。 水泳も長く続けた。私の消夏法は、涼しい山荘に避けるとか、温泉で汗を消すのではなく、積極的に暑さと取り組むやり方で、夏は毎年、伊豆の堂ヶ島に行く。ここで泳ぐ。こうして身体を鍛えて夏を送るのがもう二十年にもなる。「八十を越えたじいさんが冷たい海に入るなんて無茶だ」死んだばあさんがよくとめたが、お茶もやるけど無茶もやる。年寄りの冷や水は間違いないが、無茶も冷や水も私の健康法である。 五十代になってはじめたのが登山。「いつまで茶屋酒でもあるまい」というのが動機だが、山はすっかり気に入った。六十代になっても適当なところを選んで出かけた。山のぼりは、私の人生のクライマックスである。 私の登山趣味は、頂上にのぼって荘厳な旭日を拝したり、漠々たる雲海の偉観を眺めたり、あるいは雪渓の美を賞したりする以外に、汗を流して難事を成し遂げた快感を味わうことにある。その意味で、登山も人生の縮図である。 スイスでは例のユングフラウなども見物してきたが、これはただケーブル高いところまで行って眺めるだけで、山登りの爽快感がない。 山はやはり人跡未踏の地で、斧鉞(ふえつ)のあとのないところが好きである。今頃、こんなところはなくなったであろうが、それでも、すべて山は開拓されてないところがよい。その意味で、私は北アルプスよりも南アルプスが。また、よく行ったものだ。山小屋などもなく、岩をかむ激流が三、四十尺の下を流れる一本の丸木橋を渡ったり、三、四十度もある傾斜の断崖をのぼるなどで度胸を要したが、この度胸がないと事業だって発展させることができない。 そんなことを感ずるから私は山、とくに南アルプスが好きである。 夕餉(ゆうげ)せしほだの煙の末はれて 月は山端を今出でにけり こんな赤石岳の思い出もなつかしい。 ![]() 私は今、日本国家の新しい環境をつくり出すことに熱中している。「青年に希望を持たせる」には、希望が持てるように日本の将来を考えることが必要で、設計図がなくてはならない。そう思って「国づくり」という課題を自分に与えて、その設計に取り組んでいる。 私がちょうど八十歳のときだったから、もう十年も前になるが、戦後の欧米を見るため八十日ほど旅行した。アメリカがヨーロッパ復興のため「マーシャル・プラン」に基づいて数十億ドルを負担して援助した効果を痛感したが、とくに、日本と立場が同じであったドイツの再建ぶりに興味を持っていたので、ドイツではシャハト蔵相に会って、ドイッの実情、計画などを聞くことができた。 その他、英米の知識人に会い、また前から著書などを通じて、一度会ってみたいと思っていた歴史学者の ![]() さらに翌年は、鮎川義介、工藤宏規らとインドネシアに行き、ジャワ島、スマトラ島などの資源を見、スカルノ大統領などに会見してきたが、この旅行によっても、日本に対する期待を知り、ますますこの感を深くした。 そこで、財界の有力者連に話しかけて、設立したのが、「産業計画会議」である。民問の各界から造詣の深い人たちに集まってもらい、自由な創意と工夫に基づいて、将来の経済計画を立てようと思った。 政党、政府のやる計画については多少意見はあるが、別に対抗するつもりはない。民主主義政治というものは一面、まわりくどいもので、重点的な施策をやろうとすると、相当に時間がかかる。 国全体がその気にならなければ、ちょっとしたこともできない。世論化しないと動かないからで、そのためにはPRも必要になってくる。そんな役割の機関もかねて、思いついたのが、この会議である。 昭和三十一年に発足して、今日まで、かなりのレコメンデーション(勧告)を発表した。主なものは「エネルギー対策」「海運業再建案」「沼田ダムの建設」「東京湾埋め立て計画」等などで、このうち「北海道開発」については、「雪博士」の異名をとる中谷宇吉郎が、「八百億円の国費が無駄になっている」というわれわれの主張に賛成し、さらに敷衍(ふえん)してくれて、大きな反響を呼んだ。 近く、東京を中心とする水対策、海運政策、農業政策などについてレコメンデーションを行うつもりであるが、この機会に、東京湾埋め立て計画を聞いてもらいたい。 大磯の吉田茂さんが、「三十億ドルを借りて、借金王になってもいい」と力を入れてくれているのがこの計画で、当面、私もぜひ実現させたいと願っているものである。 東京湾の三分の二、約二億坪を埋め立て、湾を横断する道路と防潮堤をつくり、利根川の沼田に、約七億トンの水を溜める多目的ダムを設け、ここから上水道、工業用水を引き、第二の東京都を建設しようという案で、公表してからすでに四、五年になるが、まだ着手の機運に至らない。 私どもの構想が少し大きく映るらしいが、決してそんなことはない。完成するのは十五年から二十年先であろうが、その頃は、人口も増え、工場の規模も、船舶も、今よりは大きくなっているのだから、だいたいマッチするのである。だからこれは未来図ではなく、今から着手しなければならない現在の問題なのである。 「年寄りの考えることは小さい、私ならこうやる」と言って買って出る青年が現われないものだろうか……。 ![]() あまりおもしろくもない話を重ねて終わってしまいそうだ。私は人より五割は長生きしているし、平凡な月給取りの経験は一年きりで、あとは横着に世を渡って、チョイチョイ失敗を重ねながらこれまで来たのだから、これでは須走の過去である。 それに、私は、過去というものは、前向きのためのものでない限り、嫌いである。まして、九十翁の昔話などは、時代が違いすぎて、今の皆さんには、たいした参考にはならないだろうし、私自身が感心しない。 しかし、雲門(うんもん)の禅偈(ぜんげ)の如く、現在の私は「日日是好日」である。わが闘争も、ここに至る道程であったと思えば、それまでだ。ただ、「青年は明日を思い、老人は過去を憶(おも)う」とするなれば、私も青年のつもりである。 近年、日本経済がどうなるかとか、国際収支が不安だとか、多少の議論が出ているが、長い経験から言うと、論評はともかく、そうたいした問題ではない。悲観を好まぬ私の性癖かもしらぬが、私は強く、たくましい日本人のバイタリティーに大きな信頼を持っている。 東京や大阪が一面の焼け野が原であったことを、すでに誰も想像し得ない今日に発展してきている。また、日本は資源の少ない、国土の狭い国だと言われたのだが、今日では、それは逆に恵まれた条件に変わっている。 今日、世界の大国でも、一国のみの資源や生産力でアウタルキー(自給自足)をしている国は一つもない。すなわち経済の交流が拡大していることで、世界は独立的というよりも集団的、協調的になりつつある。 自由主義や共産主義といっても、それ自体が大きな変化を続けており、ソ連もアメリカも変わってきて、接近しつつある。中国にしても、実体は「武力主義」とは思えないが、そんな主義などは歴史の示す如く長続きするものではない。 日本のように、四面を海に囲まれた国は、至るところに天然の良港、恵まれた工業用地を持っているようなものである。大工業地帯を海岸に建設しつつあるのが世界の現状で、もはや内陸の工業地帯などは基礎産業に関する限り、過去のものになっている。だから、日本はますます有利になってきている。 敗戦の痕跡は地上から消え、精神のうちに残っているにすぎない。こうなれば、負けは負けにあらずで、むしろ敗戦は、日本人が大きく飛躍する素地になっている。要は、創意と工夫、努力と熱で新しい環境をつくりあげることである。 今日では、経済発展マンパワーの開発が先決なのである。国家を見てもヨーロッパに見られるような数百万から二、三千万の人口では、もはや大国たりえないと言われている。まことにしかりで、こうなってくると、わが国の前途は、洋々たるものである。 話が説教じみて恐縮だが、これが現実である。この観点に立って、政治家、経済人、役人、学者、青壮年に望みたいこがあるが、根底は、 ![]() ![]() これは、世界の平和に繋がるもので、同時に、われわれが発展していく道である。 ![]() ![]() |