電力国家管理で軍・革新官僚に敗れる

 
昭和四年(一九二九)、ニューヨーク株式市場の大暴落からはじまった世界的な不況のなかで、日本ではいわゆる「革新官僚Lと軍部とが結びついた統制イデオロギーが強まってきた。腐敗を極めた政党政治と財閥が糾弾され、井上準之助、団琢磨が暗殺され、昭和七年(一九三二)には五一五事件、昭和十一年(一九三六)には二・二六事件と進んでゆくなかで、革新官僚たちは軍の後押しで電力の国家管理を強引に推進しはじめたのである。

 国家総動員体制をつくりあげるために、まず、産業の根幹であるエネルギーの部分を国家が掌握しようと図ったのだ。

 安左工門は、もちろん全力をふるって、その流れを阻止しようとした。「産業の振興は、産業人自らの努力で成し遂げるべきで、官庁に頼るなどはもってのほかである。官僚とは人間のクズだ」と、官僚たちの前でブチあげて、大きな波紋を投じたのもこの頃である。

 近衛内閣の逓信大臣永井柳太郎に、「松永さん、あなた、この際、勝海舟になって、江戸城ならぬ、電力業界を、思い切って、明け渡してはくれないか」と言われて、「明け渡そうにも、西郷隆盛がおらんじゃないか」と言い返し、永井を絶句させた。

 陸軍大臣東条英機、海軍大臣及川古志郎たちのいる前で、近衛文麿首相に、「あなたたちは、大きな戦争をするつもりで、電気事業を国営にしようと考えているのだろうが、それは国を誤らせることになるのではないか」と迫り、軍の逆鱗(げきりん)に触れて弾圧されそうになったこともある。

 そして昭和十三年(一九三八)、ついに国家総動員法、電力国家管理法が公布され、翌十四年には日本発送電会社がつくられる。日本は泥沼の戦争、そして焦土に向かって転がり落ちていく。

 安左工門は、実業界からすっかり足を洗って埼玉県柳瀬村にこもった。時に安左工門六十四歳。そして十年余、戦後、電力再編成のときにカムバックするまで、彼は新聞も読まず、ラジオも聴かないという生活を続ける。

  電力再編成で復活、「鬼」の執念を貫く

 
昭和二十四年(一九四九)十一月、松永安左工門は、電気事業再編成審議会の委員長になった。吉田政権の時代である。占領軍の政策で、財閥、大企業の解体作業が進められていたのだが、電気事業の再編成だけには手を焼き、最後まで持ち越されていた。その厄介な役割が、かつての電力王、七十四歳の安左工門に背負わされたのだ。

 占領軍が狙っている電力再編成とは、つまり、日本をふたたび強国として復活させないために、いかにして日本発送電を核とした国家管理体制を解体するか、ということにあった。

 それに対して日本側は、政府・官僚も、企業人たちの多くも、実は、占領軍をいかにして説得し、ごまかし、日発体制を事実上温存するか、ということを考えていたのである。革新政党や労働組合も、その社会主義的発想からすれば、当然ながら
電力国営案の提唱となるので、結果的には、占領軍の政策よりは、日本政府や官僚、企業人たちの多くの考え方に近かった、と言える。

 そうしたなかで、松永安左工門が打ち出したのは、日本発送電を九ブロックに解体し、発送電と配電の事業を一つにしようというプランだった。念のために記しておくが、戦時中の日本発送電体制とは、発送電、つまり電力の生産は日本発送電が握り、各地域の配電会社がこれを消費者に供給する、すなわち、生産と販売が分離させられていたのである。

 もちろん、生産部門さえ握っていれば電力を支配でき、全産業を牛耳れると、軍と革新官僚は考えたのだろう。

 それに対して、松永安左工門は、電力会社が企業として自立するためには、生産部門と販売部門を握らなければダメだと判断した。実業家としては当然のことだろう。そして、日本発送電は解体して、九ブロックに分割した電力会社に吸収するべきだ、と。

 彼は、『電力再編成の憶い出』(電力新報社)という本の冒頭に、アメリカ人ラモントが戦争直前に来日したときに彼に語ったという言葉を掲げている。

 「国営の下に役人どもが電気事業をやってもうまくいくはずはないが、さらに肝心なことは、民営でなければ大きな人物が育たない。実業人を育てあげるうえからも国営に私は反対する。

 軍部政権ができたら必ずや電力国営を持ち出してくるだろう。キミはこれらと闘って、政府の手に電力を渡すな……」

 安左工門の日発解体案は、占領軍の思惑とほぼ一致した。というより、さまざまの案があったなかで、彼のプランだけが、占領軍の狙う日発解体をめざしていたのである。そのために、松永安左工門はGHQの手先だとか、CIAだなどという噂が飛んだ。

 しかし、今、手に入る限りの資料で見る限り、こうした非難はあまり根拠のない、非難のための非難だという気がする。彼が日発解体に、それこそ「鬼」と言われるような異様なまでの執念を燃やしたのは、一つは、日発体制、すなわち電力の国家管理体制によって、政治暴力的に、彼の事業のほとんどを奪われ、隠遁に追いやられたことに対する怨念があったためだろうという気がする。

 もちろん、こんな言い方をすると地下の安左工門は大いに不満だろう。「経済問題は、経済的に解決すべきであって、政治的に解決しようと考えてはならない」「企業は、政治の力によってではなく、企業人自らの努力によって大きくのびていくべきである」彼は、「軍と官僚たちが、日本の資本主義を抹殺しようとした」のだとも、しばしば言っている。

 おそらく、彼は、企業は自由競争によって大きくのびていくべきだ、政治は結局経済の飛躍を妨害するだけであるという、彼の経済哲学から、日発解体に執念を燃やしたのだ、と主張するだろう。もちろん、そのことも大いにあっただろうとは考えられる。

 だが、皮肉なことに、「経済問題は、経済的に解決すべきであって、政治的に解決すべきでない」という考え方から彼が固執した電力再編成案は、国会でも、自由党内部でも難航し、昭和二十五年(一九五〇)、なんと超政治的なポツダム政令によって、強引に実施されたのである…。

   安左工門にはゆううつな時代

 
戦後の日本のエネルギー政策のありようを定めることになるはずの電力再編成問題、果たして誰の考え方が一番正しかったのか、などと考えるのは、実はあまり意味がないように思える。

 日発解体を主張する松永案も、日発温存を主張する官僚・財界人も、国営化を主張する革新政党・労働組合も、結局はそれぞれの利権代表であり、それぞれの勢力の利権の上に立って発言していたのだな、としか思えないからだ。

 たとえば安左工門の、企業の自由なエネルギーを尊重し、より速く、より大きくなることをよしとする発想も、今となっては、何とも古びて見える。

 そのことよりも、たとえば松永安左工門の足かけ九十六年の人生を大急ぎで眺めてきても、人間という奴は悲しいほど時代に密着し、時代を超えることはできないのだな、という気がつくづくするのである。

 松永安左工門ほどの自由で活力に富んだ人物でも、時代の構図には見事に納まってしまっているではないか。

 時代によって考え方も生き方も規制され、時代によって大きく変わる。安左工門は勘のよさというか、先取り能力が優れていたせいだろう、その考え方、生き方、実業家としての身の処し方のプレは極めて大きく、かつ激しい。おそらくは、彼はそのプレを調節し、内なるバランスをとるために、あるいはつじつまを合わせるために、たくさんの文章を書いたのではないか、と思えるほどだ。