山本五十六の苦悩
1937年(昭和12年)ごろが「石原時代」とよばれるよいうに、陸軍内で石原莞爾大佐が実力を発揮していたときに、海軍の実力者は山本五十六中将だった。山本五十六はことあるごとに陸軍が政治に口をはさみ、内閣をかげで動かそうとしているのをにがにがしく思っていた。だから石原莞爾とは性格も考えることも違っていた。盧溝橋事件が起こったとき、山本は、「陸軍のバカがまた戦争をはじめた。おれは腹がたってしようがない」と憤慨していた。そして山本はこのときの海軍大臣である米内光政といっしょになって「これ以上紛争をひろげてはならない」と強く主張した。中国と戦争することは、石原莞爾とおなじように山本五十六も強く反対だったのである。

つぶされた米内・山本の意見
「ドイツと軍事同盟を結べば、イギリスやアメリカと日本は戦うことになる。そうなったら日本に勝ち目はない」山本五十六はそう確信していた。山本はアメリカに駐在武官(外国にいて軍の仕事にあたる軍人)として滞在したり、ヨーロッパの情勢に詳しかった。

山本があまりにもドイツとの軍事同盟に反対するので、陸軍の枢軸派と手を結んでいる右翼の者たちに命を狙われることがあった。山本はすこしもおそれずに、平気な顔でこういった。「僕が殺されても海軍の考えは変わりはしない。次の次官もおなじことをいうだろう。次官が何人代わっても海軍の考えは全く変わらないのだ」

米内光政は、山本が暗殺されることを心配して、山本を連合司令長官に任命した。東京をはなれ、軍艦にのって海の上にいれば安全だろうと考えたのである。山本は連合艦隊司令長官になってからも、なんどもドイツとの軍事同盟には反対であると考えを述べていた。

陸軍は陸軍大臣をやめさせ、そのあとの陸軍大臣を内閣におくらないという、あくどい方法にでた。陸軍大臣がいなくては内閣はやって行けない。「米内内閣のもとには陸軍大臣をおくらない」という陸軍からのおどしに、米内光政はやむなく辞職することになった。

「ドイツやイタアリヤと軍事同盟をむすべば、アメリカはおれてくるだろう」そう考える松岡洋右は、外務省の中で軍事同盟に反対する幹部を、賛成する人たちと交代させた。

「日独伊三国同盟」は1940年(昭和15年)9月27日にベルリンで調印式を迎えることになった。

山本五十六は「大変なことになった。これでイギリスやアメリカは日本をドイツの同盟国とみなし、敵とみるに違いない。その結果日本は、この二国と戦争になるかもしれない」と部下にもらした。

「ぼくはアメリカにいたことがあるから良く知っているが、アメリカの経済力は日本の何倍もある。戦争になれば経済力がものをいうから、とても日本が勝てるなどというのはアメリカの経済力を知らない人がいうことだ」とおこった。また、あるとき近衛文麿首相をたずねたとき、「アメリカと戦争になったら、連合艦隊は一年か二年はあばれまわってごらんにいれます。しかし、そのあとは自信があありませんから、政府が外交でアメリカと仲良くなってください」と山本はたのんだ。

深まる日米の対立⇒日本軍の南方進駐⇒たかまる強行論(対米強硬派が力を得てきた)⇒きびしいアメリカの態度⇒ハル・ノート(米の最後通告)⇒開戦の決断。

山本五十六の決断
1941年(昭和16年)11月26日の早朝、千島列島の択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)を出港したのは、南雲忠一海軍中将を長官とするハワイ空襲機動部隊だった。ハワイ攻撃という作戦を考えついたのは山本五十六連合艦隊長官だった。日本とアメリカの関係がわるくなり、戦争になるかもしれないと思われていた1940年(昭和15年)3月に、山本は、「飛行機でハワイをやっつけられないかな」ともらした。秋になると彼は部下に、「ハワイを空襲する方法を研究せよ」と本気で命じた。山本がアメリカとの戦争を心から望んでいなかったのは、これまでに書いてきたとおりである。しかし、政府がひとたび戦争を決断すれば、軍人である山本はこの決断に従わなくてはならない。「もし戦争になるなら、日本が勝てる方法を考えなくてはいけない」山本が考えつづけたすえに決心したのが、ハワイのアメリカ太平洋艦隊に奇襲攻撃を加えることであった。

ハワイ奇襲の批判に対して、「戦争に危険はつきものでないか。危険を恐れては戦争はできない。飛行機では戦艦は沈められないというが、それは飛行機の力を知らないからだ。

戦艦より飛行機を
「大鑑巨砲主義」が海軍でも有力な意見であった。そして建造されたのが「大和」と「武蔵」である。山本は戦艦の建造には反対してこういっていた。「そんな巨艦を作っても沈まないということはありえない。これからは飛行機の攻撃力が強くなっていくから、大砲を撃つ前に空から飛行機で攻撃されることになってやられてしまう。これから大きな戦艦はいらなくなあるのだ」

しかし、開戦が決まると山本は連合艦隊を厳しく訓練した。海軍には土曜日も日曜日もない、「月月火水木金金」という言葉がはやったくらいだった。

運命の12月8日
しかし、山本の願いもむなしく、12月1日に御前会議で開戦が決定された。
瀬戸内海の桂島に停泊する連合艦隊旗艦である「長門」に乗り込んでいた彼は、予定通り12月8日に開戦するという連絡を受けると、悲痛な表情でハワイ奇襲のための機動部隊にそれを無電で知らせた。
「新高山のぼれ。1208」これは「X日(開戦日)を12月8日とする」という暗号だった。
このとき機動部隊は北緯42度、西経175度の海上を越えたところにいた。機動部隊は最後の燃料を海上で補給すると、ハワイめがけて22ノットで(時速41キロメートル)の速度で向かった。

真珠湾への奇襲
この日は日曜日だったので、ハワイはのんびりした雰囲気にひたっていた。日本と戦争になるかもしれないといううわさがひろまっていたが、市民も軍人も、真珠湾が攻撃されるなどとは夢にも思っていなかった。

第一次攻撃隊 淵田美津雄体長は、「トトトト・・・・」(”全軍突入せよ”をしめす信号)と命令を下した後「トラ・トラ・トラ」(”われ奇襲に成功せり”をしめす信号)と無線電信をうたせた。

第一次攻撃隊がさんざん真珠湾を荒らして30分後に引き上げた後、こんどは第二次攻撃隊167機が現れた。そのころには黒煙が空をおおい、沈没した艦、傾いて炎上している艦、湾外に脱出しようとする艦で真珠湾はさんたんたる光景だった。第二次攻撃隊はようしゃなく魚雷を打ちこみ、爆弾をふらせた。また、第二次攻撃隊の一部は近くの飛行場(バーバース飛行場高度10メートルの飛行場銃撃)を攻撃し、アメリカ軍機を破壊してしまった。

第二次攻撃隊は午前十時ごろひきあげたが、アメリカ太平洋艦隊はひどい損害をうけた。戦艦三隻と駆逐艦二隻がくず鉄となるほどの被害をうけ、戦艦三隻、駆逐艦一隻、機雷敷設艦一隻、が大損害をうけた。さらに戦艦三隻を含む八隻が軽い被害を受けた。また、飛行機でも、アメリカは188機を失い、159機が被害を受けた。これに対して日本側は29機の飛行機を失っただけであった。

真珠湾攻撃の成果が発表されると、日本国中が喜びにわいた。しかし、山本はうれしそうな顔もしないで考え込んでいた。「長官は嬉しくないのですか」部下がこうたずねると山本はいった。「本当の戦いはこれからだぞ。この成果を心を奢らせるようでは強いとはいえない。”勝って兜のおをしめよ”とはいまのようなことをいうのだ」このように山本五十六は決して成果に有頂天にならず、アメリカとの戦争はこれから本当に始まるのだと心を戒めていたのである。(人物日本の歴史 山本五十六と太平洋戦争「14」 学研)

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