1.はじめに
 金沢は、中世から近世にかけての歴史的文化遺産を、今なお豊かに残す町である。その中で
「古道」は、それぞれの時代における、地域の生活をつなぐ動脈としての役割をになってきた。それらの主要古道は、現代に至り、国道16号線や県道原宿六浦線などに姿を変えたり、あるいは、古い名称を付した枝道として、身近に利用されたりしている。それらのうち、いわゆる「古道」としての来歴をもち、現代もなお、盛んに利用されている道路をあげてみると、1)六浦道(鎌倉道)、2)浦賀道、3)金沢道(保土ヶ谷道)、4)白山道、5)野島道、などがある。これらの古道は、各時代の社会的要請と、深くかかわりあいながら発展し、また変貌しつつ今日に及び、それぞれの機能を果している。なお、ここであげた古道はすべて陸路である。

2.金沢の古道、その歴史的概観
 原始の時代はさておき、すでに古代末期ごろから、六浦庄(むつらのしょう)と呼ばれていた金沢の地は、中世武家社会に入ると、政治的にも経済的にも、鎌倉文化圏の一環として、繁栄を共にしてきた。その鎌倉と六浦津(むつうらのつ)とを結ぶ道が六浦道Aである。これを鎌倉道・鎌倉古街道、あるいは、金沢道などとも呼ぶようになったのは、江戸時代からである。

 近世、特に元禄期以降の泰平の世になると、景勝を誇る金沢は、経済力を高めてきた、江戸の市民達にとって、距離的にも、手ごろな遊覧地となった。能見堂を中心とする金沢八景は、鎌倉・江の島詣とセットされた名所としてもてはやされ、ここを訪れた文人墨客が、沢山の紀行文や詩歌を残している。また、安藤広重描く『金沢八景』や『武相名所旅絵日記』、斉藤幸雄・幸孝・幸成二代による『江戸名所図会』など多くの資料が、この地の景観の美を、今に伝えている。さらに、庶民の娯楽を代表する・歌舞伎の台詞Bの中にも・六浦の地名が編みこまれていることなどからみても、19世紀前半の金沢が、広く人々の間に、馴れ親しまれていたことを窺わせる。文化、文政の頃になり、金沢の街道も、人々の往来が激しくなるにつれて・旅亭なども整い・瀬戸神社を中心として繁栄Cしてきた。

 やがて、異国船が相模湾周辺に姿を現しはじめると、幕府は江戸湾防備のため、三浦半島帯に、時折の交替はあったが、会津藩をはじめ、川越藩、彦根藩、萩藩などに沿岸警備を命じた。これに伴い、三浦半島内部の往来が活発になってきた。三浦半島への陸路は二つある。その一つは東海道の保土ヶ谷宿から金沢の町屋を通る道であり、他は、戸塚宿または藤沢宿から、鎌倉を経る道とである。このような社会情勢の中で、金沢は、海防ルートの人馬の継ぎ場として、脚光を浴びるようにもなった。

以上、概観したごとく、各時代の歴史的背景をもちながら、それぞれの古道は、その役割をにないつつ、今もなお、発展する金沢の動脈として息づいている。

3.いろいろな古道
(1)六浦道(鎌倉道)
 中世以来の代表的古道である六浦道は、文字通り、鎌倉と六浦津とを結ぶ道であった。のち、この道は江戸後期に出版された『鎌倉名所記』や、各種の案内絵図等では、鎌倉の鶴岡八幡宮から、金沢の瀬戸神社に至る道筋と考えられ、鎌倉道あるいは金沢道とも呼ばれるようになった。元来、この道は、鎌倉幕府の軍事的、経済的意図のもとに開かれた幹線道路である。金沢は地理的、軍事的に鎌倉の搦手に位置しており、また、対岸の房総半島に、幕府の有力御家人、千葉一族の所領のほか、鶴岡八幡宮、円覚寺、覚園寺および金沢称名寺など、幕府と関係の深い社寺領が分布していた。金沢はこれらを結ぶ重要な拠点でもあった。

 なお、六浦津(港)は上記、房総半島等との海上交通の要であると共に、鎌倉の外港Dとして、日元交易の上でも盛んに利用されていたと思われる。したがって、六浦道は人馬の往来はもとより、津を経由する物資の鎌倉への輸送路としても重要であった。この六浦津に近く、平潟湾に臨んで瀬戸神社Eがあり、渡海安全を守る神として、古くから信仰されていた。加えて、源頼朝が伊豆三島明神を勧請したという由緒により、江戸時代に至るまで、広い人々の崇敬を集め、現在も古い景観を保っている。今、瀬戸神社前を起点として、六浦道を鎌倉に向ってたどることにしよう。

国道16号線が、神社の正面を南北に走っている。しかし、六浦道はこれと離れて、神社の玉垣に沿いながら、金沢八景駅方向へ進む道である。神社と駅の中ほど、右手石垣上の広い駐車場は、瀬戸神社宮司を世襲してきた、千葉氏の屋敷跡である。これを左手に曲ると、金沢八景駅のすぐ近くにでる。駅前を横切って、八景食堂と六浦園茶舗の間を道なりに進むが、注意深くみていくと、100m程さきの右手に京急のガードが見える。この奥の山すそ帯が、享保7年(1722)以降、幕末まで・六浦藩主米倉侯が陣屋Fを構えていた場所である。やがて、魚屋(魚久)を右に折れて国道16号線と合流し、これを追浜方面へ進む。国道右手の崖上にある泥牛庵(でいぎゆあん)Gと・海側に位置して向いあう金龍院(きんりゅういん)Hとの間は、
かつて、ひと続きの丘陵であった。この丘陵から、瀬戸神社側を引越(ひっこし)と呼んだ。この丘陵を貫く切通しが「引越の切通し」で、昭和初期頃までは、まだ狭い道巾であったが、拡張整備されて国道16号線に姿を変えた。

 金沢警察署六浦派出所のあたりは、かつての海岸で、今でも土地の人は、このあたりを「渡し場」という名で呼んでいる。近くには三捜の地名なども残っているが、岬や島にかこまれた天然の良港、六浦津とは、一体どのあたりか、ただちに決めがたいが、いまここでは、平潟湾内の港を指したものとしておこう。(かつて、平潟湾は西に大きく湾入していた。)この港は称名寺へ送られる、年貢米の荷上げ港として、また、房総半島と鎌倉とを往来する人々の舟待ち場Iとして、あるいは、東北地方との連絡や、日元交易の基地としても、賑わいを呈していた。

 この六浦津の繁栄の事例として、金沢文庫古文書によれば、問丸に従事し、両替商的な活躍をした、得阿弥なる人物がいた。これは中世の六浦が広域にわたって、商業的活動を、可能にするほどの豊かな貨幣経済力を、蓄えていた事実を証明する資料といえよう。

 さて、
六浦道は京浜急行のガード下、六浦橋のところで国道16号線とわかれ、右折して、県道原宿六浦線Jとなる。概していえば、古道は、部分的には曲折しながらも、大筋において、県道と重なって朝比奈方面へと伸びていく。県道の右側には、引越の丘陵が、道路に沿う家並みの背後に連なっているが、これにひきかえ、左手は平坦な地形が広がっている。これは、平潟湾が湾入していた江戸期をしのばせるものである。

 ここからの古道は、京急ガードをくぐってすぐ「旭建材」の看板を目印に、県道の左手の道を迂回していく。150mほどしてまもなく県道に戻ると、向い側正面に、上行寺(じようぎょうじ)Kがある。この寺の山門を入ると右側には、「船繋ぎの松」や「船中問答着岸霊場」の説明板や碑文があり、かつて、船着場であったこの辺りの状況が推測される。再び道路を西進し、六浦歩道橋のすぐ近く、川郵便局のところで、古道は左手に、弓なりに曲がっていく。(この地点で道を右手にとり・大黒屋Lの屋号を持つ本屋の脇をぬけ、六浦小学校の前を通る道は、白山道へ行く道である。)往時、南に海がひらけていた、この道すじには、照天姫(てるてひめ)の伝説に関係を持つ千光寺(せんこうじ)Mがあり、このあたり、数十mの間を油堤Nと呼んでいた。このまま、真直ぐ侍従橋を渡れば、六浦駅へ至るが、六浦道は、侍従川(じじゆうがわ)の手前30mほどのところにある、理容ヤブキOの脇を右に折れていく。このあたりには、茅葺の民家がわずかながら残っていて、古道の片鱗をみる思いがする。まもなく、侍従川にかかる諏訪之橋Pにでるが、その少し手前の右側の小道を、真直ぐに行けば、県道を挾んで光伝寺Qがある。

 諏訪之橋を渡り、右に進むこと50mほどで、再び、県道に合流する。朝比奈峠に水源を発し、三艘、塩場を経て、平潟湾に注ぐ侍従川Rは、『江戸名所図会』(天保7年=1836刊)の中で、「鼻欠地蔵=はなかけじぞう」や「光伝寺」の画中に、道行く旅人の姿と共に描かれ、また、伝説のまつわる川でもある。県道をそのまま西にとり、大道小学校前を経て朝比奈方面へ向かう。約800mほど進むと、右側に「大道中学校」のバス停がある。これと並んで、像高4m余りの磨崖仏、「鼻欠地蔵」Sが岩肌に突き出ている。風化が甚だしく、わずかに、輪郭のみをとどめる。この地蔵は『江戸名所図会』に「界地蔵」とも紹介されているように、ここは相模と武蔵の国界であった。

 この像の、すぐ右手の崖下から登る山道は、『新編鎌倉志』(貞享2年=1685刊)に「北の方へ行道あり。釜利谷へ出て、能見堂へ登る路なり。」と記す古道であり、また、鎌倉方面にもぬける道であった。この山道は、現在も往時をしのぶに足りる静かな尾根道Sを残している。

 六浦道は鼻欠地蔵の前を、そのまま直進して、次の朝比奈バス停の手前、150mほどのところ、日本製罐の先を右におりて、崖下を縫う小径で、途中、右手、山腹に常林寺が見える。狭い道巾をそのままに残した道は、数分足らずで、つま先上りに、また県道に戻る。県道を直進すれば、相武隧道をぬけて大船へ向い、トンネル手前の坂を左に登れば、七曲りを経て鎌倉に至る。しかし、古道は、ここで県道を横切り、朝夷奈(あさいな)切通し説明板Sを、右手に見て山道にかかっていく、『吾妻鏡』によれば、仁治元年(1240)11月に、朝夷奈切通しが企画され、翌年、4月5日に着工した。執権北条泰時は、自らの乗馬で土石を運ばせて工事を促進させたと記録Sされている。

 朝夷奈切通しは、切岸(きりぎし)Sや騎馬武者、二名程度の道巾などに、当初の軍事的、防禦的特色を残す、貴重な遺構として、昭和44年に国の史跡に指定されている。さらに、この切通しは、江戸時代から明治初期に至るまで、金沢と鎌倉を結ぶ、産業や観光の往還として、賑わいを呈した道であった。現在も、峠にさしかかる右手の崖際に、立ち並ぶ六基の石塔Sは、江戸期の峠村の住民が、峠越えの安全
祈願のために、寄進したものである。また、金沢の地場産業であった平潟湾の塩は、古くから、武相各地に販路を持っていたので、この切通しは、鎌倉方面への「塩の道」としても、盛んに利用された。その名残りとして、塩売りの人々が、初穂を供えたと伝えられる、「塩嘗地蔵(しおなめじぞう)」が、いまは、街道筋から、鎌倉市十二所(じゅうにそう)にある光触寺S境内に、移され保存されている。

 時がながれ、幾度かの補修工事Sを重ねつつ、中世から近代初頭までの長い歴史のあゆみで、踏み固められた、朝比奈切通しは、まさに六浦道の関門ともいえよう。まもなく峠の頂き、鎌倉市側との境界を示す標石を過ぎると、道はかなり急勾配な下り坂となって、太刀洗川にそいながら、十二所へと向かっていく。明治半ば頃までは、峠の頂上付近には、茶店も出ていたという。その境界の手前を、左側にとって、杉木立を辿る小径がある。これは切通し開さくに縁起をもつ熊野神社への参道である。


六浦道(鎌倉道)の道幅は『新編武蔵風土記稿』の社家分村・寺分村・平分村(しゃけぶんむらてらぶんむらひらぶんむら)の項の記載によれば、「村内に鎌倉海道係る、東の方洲崎村より、西の方峠村に達す、村内を歴ること二十丁許、幅三間より五間に至る」とある。

(2)浦賀道 (3)金沢道 (4)白山道 (5)野島道 (6)その他の枝道
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