(3)金沢道(保土ケ谷道)
東海道保土ヶ谷宿から、能見堂を経て金沢へ至る道を金沢道と呼ぶ。江戸市民にとっての身近な行楽地、金沢八景へのコ一スとして、万治2年(1659)刊行の『鎌倉物語』は、次のように述べている。「江戸より見物せんと思う人は、先かたひらより金沢へ来て、鎌倉へ行ば見物の次第よきなり」と。つまり、金沢八景を鎌倉・江ノ島とセットにして位置づけている。その行程は、江戸ー保土ヶ谷ー蒔田ー上大岡ー松本ー関ー雑色ー田中ー栗木ー中里ー能見堂ー谷津一称名寺ー瀬戸神社ー朝比奈切通しー鎌倉ー江ノ島ー藤沢ー江戸となる。

この行程をたどる旅人が確めたであろう道標として、保土ヶ谷区帷子町2丁目の四ツ辻に「円海山の道・かなさわかまくら道」と刻まれた一基が、其爪(きそう)の「程ヶ谷の枝道曲れ梅の花」の句碑と共に並び立っている。また現在、称名寺総門の左脇には、「是よりしょふミやうじかまくらすく道」ー天明三癸卯二月日(1783)一と刻まれた角柱が立っている。この道しるべの原位置Jは、『杉田図会』(文政8年=1825刊)や『江戸名所図会』(天保7年=1836刊)等の史料から、金沢町6番地の三又路の地点かと推定される。いずれも、見逃すことのできぬ金沢道の証人である。

江戸時代も後期になると、信仰と遊山を兼ねた、富士・箱根または大山参りなどが盛んとなり、その江戸への帰路を、東海道藤沢宿から、江ノ島・鎌倉そして金沢へと足を延ばす、逆の流れも出てきた。それにつれ金沢は、八景の探勝と共に、精進落しの場所としても盛んに利用された。

江戸時代、景勝の地、金沢の繁栄のピークは文化・文政年間ごろからと見てよい。そのあらわれとして、能見堂をはじめ、各寺院や旅亭が競って刊行した「八景案内図」や「望之図」など、たくさんの刊行物が、その盛時を今に伝えている。有名な安藤広重の『金沢八景』(8枚組)の版画制作は天保7年(1836)頃である。宝暦3年(1753)、能見堂から『八景安見図』が再刊された。それを見ると、図の上部に大きく能見堂を描き、深く湾入する瀬戸の入海と平潟湾を抱くようにして、金沢の村々のたたずまいと、金沢八景の位置が描かれている。いま、この『八景安見図』を参考にしながら、金沢道を瀬戸神社前を能見堂方面へと辿ってみよう。

神社前で、国道16号にかかる歩道橋を海側に渡って、洲崎、町屋、寺前と伸びる古道を、現在はバスが結んで走っている。「瀬戸の秋月」に名をとどめる瀬戸橋付近には、江戸末期、19世紀中頃には東屋(あづまや)・千代本(ちよもと)・扇屋(おうきゃ)などの旅亭をはじめ、数多くの茶店が、海沿いに軒を並べていた。なかでも、総宜楼(そうぎろう)の扁額を掲げ、『江戸名所図会』に大きく描かれた東屋は、もと、瀬戸橋の西側のたもと、現在の西野屋酒店のあたりにあった。しかし、安政5年(1858)の大火で類焼したため、瀬戸橋を渡って、現在、第一生命金沢分室の位置に移転し、その後、昭和30年に廃業した。伊藤博文ら4名による明治憲法の草案は、この東屋において起草された。いま、これを説明した「明治憲法起草の地』Kの案内板が道路に面して建てられている。また、金子堅太郎書の「憲法草創之処』という記念碑Sが・昭和10年、東屋の庭内に建立されたが、現在は、野島公園の一隅に移されている。

この案内板をすぎ、海に向って少し歩くと、信号機の手前で道が_又に分れている。そこを左に曲る。八景郵便局をすぎ、右手に洲崎神社Mをみるころから、道はゆるやかに左にカーブしている。『八景安見図』をみると、南北に伸びた砂嘴.上に、形成された街道には、散在する集落の間に、龍華寺Sをはじめ、安立寺O、薬王寺P・称名寺等々の古社寺が連なっているが、その大部分は、もとの位置のままとみてよい。洲崎神社に隣接する龍華寺、安立寺を過ぎ、左手に天然寺をみて、なおも進むと・寺前八幡神社Sの前で、道は二手に分れる。これを右手にとり、なだらかな坂道を500mほど登りつめると、右手に薬王寺、正面に称名寺総門(通称、赤門)に達する。

鎌倉時代・北条実時を開基とし、金沢北条氏の菩提寺として栄えた称名寺Iも、江戸時代には寺運が衰えていた。現在、中世の遺構として、苑池を中心とした、大きな伽藍跡が見られる。境内には、金沢八景の一つとして「称名の晩鐘」Jとうたわれた、重要文化財の埜鐘(北条顕時再鋳)があり、その鐘の響は、昔を今に伝えている。この寺に伝来された、鎌倉時代の武家文化の水準の高さを示す、貴重な数々の文化財は、境内の神奈川県立金沢文庫Kに保管されている。

さて、金沢道を能見堂方面にたどるには、称名寺の赤門から、金沢文庫駅行きのバス道路を西進し、大田医院の前を左手に坂を下っていくと、金沢道の君ヶ崎に至り、能見堂へと道は続く。しかし、正しい金沢道のたどり方は、さきの寺前八幡神社のところに戻り、あ
らためて、君ヶ崎の方へ暫らく進み、右手の根岸陶器店の傍から横道に入る。道なりに300mほどで丁字路Jに出る。昔、このところに天明3年の道標があった。この道を右手にとれば、称名寺の方へ行くが、金沢道は左手に進み、やがて、君ヶ崎の歩道橋の地点に至る。君ヶ崎はかつて、金沢山から西に伸びてきた岬であり、その先端に「君ヶ崎の一つ松」Lがあった。『鎌倉撹勝考』に「町屋村の西裏の出崎に一樹ある古松を言う」とある。なかなかの老松で、数多い八景図にも必ず、岬の上に、姿の美しいその松が描かれていた。その旧位置は、君ヶ崎歩道橋の西側あたりと思われる。歩道橋のところを右手にとり、国道16号線の喧騒の中を石油スタンド、稲荷神社と歩みを進め、20〜30mで右手の横道に入る。金沢製パンエ場、山岸医院の前を通りぬけて、歩くこと200mほどで、古道は再び、国道16号線と重なって北に向かう。

信号を渡れば、金沢文庫駅はすぐ前であるが、古道は金沢文庫前派出所を右手に見て、火の見櫓(左側)を目標に16号線を直進する。400mほど歩いて消防器具庫のところを左手に曲り、谷津川の細い流れにかかる谷津ノ橋、および、京浜急行の踏切りを越える。20mほどで古道は_又に分れるが、その分岐点の人家の塀の前に、天保十亥年(1839)・光明院を願主とする石の道標M『右・能見堂、保土ヶ谷道』がある。

ここを左手にいけば、富士坂を経て、赤坂に至る古道であるが、能見堂への道は右である。50mほど歩くと道は左に曲る。右手に二基の庚申塔をみて、なおOも、住宅街をぬって進むと、右羊、駐車場のところに「六国峠ハイキングコース案内図」Oが設置されている。六国峠入口の矢印にしたがって、人家の横の細道を登る。この小径は、泥岩(俗称、土丹)の滑りやすい急坂で、十方庵敬順の著わした、『遊歴雑記』には、「段々に山中に入り小坂を通り瞑路である」と述べられ、いまなお、古道の雰囲気をただよわせている。

小笹の繁みに隠れて、馬頭観音などの石塔Pもみられる。これをおよそ600mほど登りつめた右側に能見堂跡Qがある。標高約75m、谷津の踏切りからおよそ25分ほどである。大きく開けた眺望は、さすがに「筆捨の絶景」の名残りをとどめ、山裾までせまる街区を眼下にして、晴れた日には、東京湾から房総までを望できる。堂跡に登る石段(『江戸名所図会』の描く位置とは異なっている。)の傍に、享和三癸亥歳_月(1803)の銘のある「金沢八景根元地」の石碑が建ち、その碑の左側と裏側には、これを寄進した江戸の町人たちの名がが刻まれている。能見堂のシンボルであった筆捨松は、すでに無いが、土地の人々の証言や、金沢の風光を愛し、この地に別荘を構えた、鏑木清方の随筆『こし方の記』などによると、大正8年(1919)頃まではその美しい姿を保っていたらしい。

同じく、この景勝を愛して、能見堂に奉納された、江戸時代の『武蔵国金沢碑』Rをはじめ、その句碑のいくつかが、土地の旧家の邸内に保存されている。能見堂に関する文献Iは室町時代の『梅花無尽蔵』を初見とし、各時代の文人墨客の紀行文や、詩歌の類はおびただしい。特に、江戸城内において、能見堂の由来が話題Jになったり、城中に、この浦の風景を描いた「金沢の間」Kが設けられるほどになった。

明治期の能見堂については、『復軒旅日記』(明治32年刊)に、「堂、廃せられて小さき家あるのみ。金沢の橋より内の入江も皆新田となりたれば、眺望昔の如くならず」と記している。それは、明治2年の能見堂焼失以後の、急速な衰退を物語るものである。

能見堂跡をすぎ、左手のコポランドの家並みがつきる処に、「ハイキングコース変更案内図」Lがある。らに・300mほど進むと旧道が切れ、その左側に、古の金沢道とほぼ平行して、新道が整備されている。このように、往時の金沢道は、丘陵の両側から、押し寄せる開発の波をうけて、追分Mを経て中里・保土ヶ谷に至る旧道は消えてしまった。樫・桜・櫟・棒などの樹々の間をぬう新道は、標識も整備されて、四季折々の散策の道として賑わっている。

(なお、六国峠ハイキングコースとしては、この追分の地点の南側に整備された新道を、さらに西進して、本松隧道の真上に至る。この地点もまた、追分と呼ばれ、「左鎌倉・天園、右能見堂を経て金沢文庫に至る」の標識がある。その前面は、広く整地されて、巨大な貯水塔Oがそびえている。ここから先は・釜利谷市民の森に入る。)金沢道(保土ヶ谷道)の道幅は『新編武蔵風土記稿』町屋村の項の記載によれば、「相州鎌倉及浦賀への往還なり、寺前村より洲崎村に通ず、村にかかること凡五丁、幅三、四間、則鎌倉古街道なり」とある。


(4)白山道
白山道がいつ開かれ、いつ頃から、白山道と呼ばれるようになったか、明らかではない。しかし、この道は少なくとも、鎌倉時代中期には開かれたと思われる。金沢北条氏の祖、北条実泰が、六浦庄の領主となったのは、元仁元年(1224)と推定され、彼が六浦殿、あるいは、釜利谷殿と称されたのは、釜利谷辺りに、居館を構えていたからと思われる。したがって、この頃には、鎌倉と釜利谷とを
結ぶ道が通じていたと考えてよいだろう。これをいま、ここでは白山道としておこう。

その当時の、一部分であろうと思われるものが、現在、手子神社東光寺一白山社ー磨崖仏の前をはしっている。それより先は、関東学院の総合グランドや野村住宅団地、高速道路(横浜横須賀道路)等の建設のために破壊、中断されてしまったが、本来は、さらに相武燧道の上を越え、鎌倉の和泉ヶ谷を経て、十二所に至り、鎌倉に達していた。また、この道は途中から、六浦津へも開通さ
れていたと思われ、それは、すでに破壊されてしまった、関東学院の総合グランドあたりの尾根道が、鼻欠地蔵裏からはじまる尾根道と接続していた。いいかえれば、関東学院総合グランドの辺りで、鎌倉から六浦へ行く道と、釜利谷へ達する道とが分岐していたのである。したがって、仁治2年(1241)北条泰時によって、新しく朝比奈切通しが開発されるまでは、この道がて鎌倉と六浦を結ぶ道であったのではあるまいか。

もっとも、『新編武蔵風土記稿』金沢領の「社家分村、寺分村、平分村」の項で、「又古海道とて西よりに僅かの道あり、(中略)
小名大道、川、三捜等の地三ツ股となりし処を歴て相模国に達す。是朝比奈切通しを開かざる前の道といへり」とある。これから考えると、朝比奈切通しが開通する前までは池子、逗子を経由して鎌倉へ入る道が、幹線であったように思われるが、さだかではない。安貞2年(1228)、将軍頼経が六浦遊覧のために来臨した。また、寛喜2年(1230)に三崎へ桜見物のため出かけたが、その時の御召船は、六浦津から出している。

どちらの道をとって、鎌倉から六浦へ達したのであろうか。相武隧道を越えて、鼻欠地蔵裏の尾根道をとったとすれば、距離的には、逗子、池子経由よりもずっと近道ではあるが。さて、北条実時が父実泰の跡をつぎ、金沢氏の当主となると、居館を現在の称名寺、旧金沢文庫跡を含む、南面する広い台地に移した。その時期は明白ではな
いが、一応、ここでは実時が、『吾妻鏡』に六浦庄の領主として、名が初めてみられる、宝治元年(1247)頃と推定しておこう。したがって、白山道も釜利谷の地から、さらに金沢へとのびたと考えてよいだろう。しかし、この頃になると、朝比奈切通しも開通しているので、両方の道を使用したであろうが、朝比奈切通し経由の場合は、まだ、瀬戸橋が架橋されていないので、瀬戸入海を渡るのに、船を利用しなければならなかった。したがって、嘉元3年(1305)、金沢貞顕が瀬戸橋を竣工させるまでは、白山道は鎌倉と金沢(金沢北条氏の居館所在地)を結ぶ、重要幹線であったとみてよい。

さて、「白山道」と呼称されはじめたのは、いつごろからか明かでないが、『金沢文庫古文書』によれば、建武2年(1335)この地に白山堂といわれる寺院があり、称名寺の末寺であったことがわかる。「白山道」の名はこれに由来するものであろうが、文献に記載されてくるのは、ずっと後のことである。享保16年(1731)の能見堂版『八景安見図』には、現在の白山道といわれるあたりに、「白山道」の記入が見られる。これはかなり早い例と思われる。それより以前、貞享2年(1685)刊の『新編鎌倉志』には、「鼻欠地蔵」の項で、鼻欠地蔵の背後の山を、切通した尾根道のことにふれているが、これには「北の方へ行道あり。釜利谷へ出て、能見堂へ登る路なり」と記している。これは、白山道をたどる道と考えてよい。この道が、さきにもふれたが、関東学院の総合グランドあたりの尾根道で分岐して、一方は、釜利谷に、一方は鎌倉にも通じていたのである。

いま本論からすこしはずれるが、『新編鎌倉志』に記載された道をたどってみよう。鼻欠地蔵の背後に、切り開かれた尾根道を登り、途中、現在の高舟台団地をのぞむ所に達するが、高舟台団地の西端を、めぐるようにして通じていた山道は、空の彼方に消えてしまって、山は切り崩されて、団地に化したのである。しかし一たん、宅造化された高舟台団地に下り、さらに、切り崩された北面する山を登っていくと、やがて旧東光寺跡地の脇にでる。すなわち白山道に合する山道である。この道は、昭和42年10月10日発行の国土地理院の『鎌倉』1/25,000では、明確に記載しているが、現在では、一般の人が歩くことは、すでに困難になっている。

白山道に合した道は、さらに、旧坂本村、旧宿村、旧赤井村を経て能見堂に至るが、旧赤井村から能見堂に至る個所は、宅造によって姿を変えてしまった。また、旧赤井村の赤坂のところから能見堂へは向わずに、直接、「保土ヶ谷道」に通ずる道があった。即ち、『新編風土記稿』によれば、赤井村の項で「村内に係る一条の往還あり、宿村より入、十丁許を経て谷津村に達す。幅一間半より二間に及び、此道谷津村境の所を追分と呼べり。この所より丑寅の方は眼界うちひらけ眺望いとよろし」とある。すなわち、この追分けの所が、(3)で述べた金沢道(保土ケ谷道)の追分の地点である。(注M参照)なお、道幅の記載は貴重である。少し歴史的考証が長くなってしまったが、ここで、あらためて手子神社Oを起点として、「白山道」をたずねてみよう。この附近には宿、坂本、泉、赤井など江戸時代からの字名や、「河岸」の屋号を持つ民家が残っている。

大木の繁る神社の鳥居の前、道に面して六基の庚申塔などが、道ゆく人々を見守っている。手子神社の前の橋を渡り、宮川の流れに沿って上流へと進み、坂本のバス停で、左手の宮川の右支流をさかのぼる。左手に白百合幼稚園をみながら、進むこと150mほ
どで六郎橋に至る。ここで道は二又に分かれている。左手のバス道路をとれば、六浦小学校を経て六浦道(鎌倉道)に出る。白山道は右手の細い道で200mほど進むと、白山東光禅寺Qに達する。さらに進むと、古祠と推定される白山権現社Rが道の右側にあ
る。社は石段を登った崖の中腹、「やぐら」の内の小祠がそれといわれる。道を隔てた南側には、かつて、広い寺域を有していた旧東光寺跡があるが、現在は民家が建っている。この社の西側のたてこんだ民家の背後に、大きな磨崖仏が残っSているが、風化が激しく、かつ、近年、その周辺が整備されてしまって、昔の面影はない。

この辺り一帯が、さきにふれた『金沢文庫古文書』にあらわれた、「白山堂」のあった場所とも想定されるが、証拠はない。道がつきるあたりに、数年前まで、用水池が自然の面影を水面に写していた。この付近から鎌倉に至る尾根道に出る道があったが、先に述べたごとく、学校の総合グランド、あるいは、住宅地造成のために白山道は西端部分が消滅してしまった。

(5)野島道

 町屋神社Jから金沢小学校を経て、野島に至る道が野島道である・『新編武蔵風土記稿』町屋村の項で、街道(金沢道)の中程、「伝心寺Kわきより洲崎村の小名、野島浦の辺に通ずる道は浦賀への捷径なり」と記している。野島道は、船路による三浦半島への交通路としては至便であった。幕末に至り、あいつぐ異国船の来航に対応して、幕府は江戸湾沿岸警備のため、三浦半島帯に、諸藩の配置を命じた。これらに伴ない、三浦半島への諸往還は、頻繁に利用された。

 そのおもな一つが、戸塚宿または藤沢宿から、鎌倉、雪の下経由の道で、大津、浦賀に達する道であり、もう一つが、保土ヶ谷宿から、金沢の町屋村を通る道で、ここから、船路を利用する場合は、野島道を利用し、大津、浦賀へと達していた。陸地の場合は、町屋村から六浦、三艘、浦郷経由で浦賀に向った。従って、町屋村は浦賀などへの、中継地としての重要性を持つに至った。幕府の役人や、海辺警備のために配置された諸藩の家臣らの人馬や物資の往来が、繁しくなるにつれ、町屋村は駅場Lとしての役割を担うようになった。

 このような状況のもとで、町屋村の旅籠屋は増加した。文化13年(1816)から天保2年(1831)頃のことであるが、「本陣米屋源助以下、御下宿20軒位は可相納」と程ヶ谷宿本陣の苅部清兵衛は申告している。いまそれら旅籠の中で、寺前八幡宮の向い側に「小松屋」が残り、この地の名主でもあった、「米屋」(松本氏)が旧場所に居住している。

 さて、野島道の現状をたどってみよう。町屋神社から、小学校通商店街を通り、金沢小学校の校庭を左手にして、過ぎるあたりで道は分岐する。右側の道をたどる。道巾は、やや狭くなってくる。昔も今も大差はないのであろう。そのまま、道なりに500m程歩くと、第二次大戦中に造られた運河に達する。野島道はここで、一応たち切られてしまったが、古道は直進していた。旧道をとおるためには、道を右手に曲がって、金沢漁業組合のところで野島橋を渡り、すぐ左折すると、やがて野島公園につきあたる。これを右手に曲れば、これが野島道である。さきに進むと、左手に無料駐車場があり、ついで、右側には「泥亀」と名を残す、大(おお)庄屋を世襲した永島氏Mの屋敷跡があり、また、左手、奥には染王寺Nもある。視界が拡がるにつれて、海の香が迫ってくる。このさきに、「野島の夕照」とうたわれた夕照橋がある。ここが野島道の終点である。このあたりは、江戸時代、海運の要所で、房総方面への船着き場として栄え、上総国の船にて渡海してきた旅人は、野島浦の上総宿が取り扱っていた。また、室の木や浦賀、横須賀方面への「渡し場」としても活気を呈していた。