エピソードの数々(人生哲学)

政治ってなーに?
元気を出せ日本

さんまさんの"ブルー・インパルス"体験  入間基地航空祭

【柳瀬の山荘へはいろいろの人が訪ねてきた。松永は快く迎え、不幸にあった者には慰めてやり、無事だったものには祝い、かつ励ましてやった。それは数え切れないほど多かった】。

・・・「ところで、あなたの対米戦争はどうなりました?」・・・

「わははハハ、あの”鳴かなけりゃ殺してしまえホトトギス”(信長)というのがあるね。そして”鳴かせてみよう”(秀吉)というのがある。”鳴くまで待とう”が家康だな。だから、”勝手にいたせホトトギス”といくさ」ととぼける。もちろん、松永は、その時期の到来を待っていたに違いない。

「人生の計は新年にあり日本の長計は正に即今に在り」
丁亥一月一日 耳庵

これは、敗戦後初めて迎えた新年、昭和二十一年に、松永が”対米宣戦”にのっとって、その決意を書いた物である。

・・・「この混乱期にどう生きたらいいでしょうか」・・・

「まあまあ落ち着いて、お茶でもやれ、慌てるんじゃない」と言われて、飯田は早速静岡へリュックを背負って茶の葉の買い出しに行き、それを自転車に乗せて、あちこち売って歩いて、とうとう、今日本一の茶商といわれるようになった千代田園の会長である。松永にすれば、和敬静寂の茶道の、お茶でもゆっくり飲んで将来を考えろ、ということだったろう。

・・・「今何をおやりか」・・・

「はい焼け跡にごろごろしている鉄を集めています。これが、もう半年もたちますと、おそらく十倍にも二十倍にもなりますから、いっぺんに金持ちになります」

「ふうーん、そりゃうらやましい。しかし、そりゃすぐおやめなさい。あなたは賢そうな人だから、あえて言うが、この際は国民ことごとくが困っている、それで鍋でも、釜でも造って商売をなさい。ただ値上がりを待つのは、飢えている婦人に、“帯を解け、そうすりゃこの一升の米を分けてやる”という手合いの問屋と一緒だ。そう言っちゃ悪いが、僕や、小林(一三)は、そんなことはツメの先ほども考えたことありませんよ。

物を作って提供する。人々の役に立つ。当然そこでマージンをとったらいい。そしてまた材料を仕入れて商品を作っていく。それが産業家の命ですよ。それだけはやめなさい」と心を込めていった。

不思議なことに、その男は山荘から帰るとすぐ寝込み、三ヶ月後には生涯を終わった。“鬼の毒気”に当ったものとみたが、同席した私は、初めて松永の哲学の真髄に触れた思いがして、私自身ショックを受けた。

我が生涯の最大の事業
・・・「あなたの一番苦労された事業は何ですか」・・・
「この難物のばあさん(夫人のこと)を生涯一人守りぬいたことだ」

などなど「松永安左衛門に学ぶ」から

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