スペシャル・サンクス・・・産経新聞 平成18年(2006年)1月6(金)
みんな「お天道様」のおかげ
大阪特派員 皿木 喜久
あいにく今年は曇り空が多かった。それでも元日には日の出の方向に手を合わせる。それが日本人の迎春のスタイルなのである。浪速の夕日はギラギラ燃えながら海に沈んでいくと前に書いた。では朝日はどうかといえば、大阪平野の東側に壁のようにそびえる生駒山地や金剛山地の上からドツコイショとばかり顔を出す。
生駒・金剛の向こうは奈良盆地である。その南は古代の大和政権が都を置いた飛鳥地方につながる。飛鳥の古代人たちは、東の山々から昇ってくる太陽を畏敬(いけい)の念で拝んだに違いない。このころ太陽信仰が生まれ、天皇家の先祖は太陽神である天照大神と考えられるようになったからである。
では山の向こうの太陽はどこから昇ってくるのだろう。そう考えて彼らは東へ東へと向かった。よ
うやくたどりついたのが伊勢の地だった。太平洋に面した二見浦の海岸に出て見ると、夫婦岩と呼ばれている海中の二つの岩があった。その聞から真っ赤な太陽が昇ってくるではないか。
ここぞ探し求めた「太陽の門」だと思った人々は、この伊勢の地に天照大神を祭った。伊勢神宮の内宮である。
このことを「日本書紀」は次のように記している。第十一代垂仁天皇の時代、皇女倭姑命(やまとひめのみこと)が、それまで大和に祭ってあった天照大神が鎮座されるにふさわしい所を求め近江から美濃を回り、伊勢に到達した。すると大神自身が「可怜(うま)し国なり。是国に居らむと欲(おも)ふ」とおおせになり、ここに詞(やしろ)を建てたのだと。
地図を見ると、飛鳥からまっすぐ東へ線を引いたあたりに伊勢がある。太陽信仰の「聖地」に選ばれたのは当然でもあった。 昨年末、古代人にならって、いや彼らよりずっと楽をして電車で伊勢へ向かった。内宮、外宮に参拝した翌朝、二見浦の日の出を見る。夫婦岩の間から日が昇るのは夏至を挟んだ三カ月ほどで、今はもっと南の志摩半島の低い山の上から顔を出す。それでも早朝、十人以上の旅行客が手を合わせていた。この神々しさが天照大神信仰の原点である。
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といっても、伊勢神宮が太陽信仰一色だというわけではない。 内宮と一対となっている外宮に祭られる豊受(とようけ)大神は、天照大神に供える食物の守護神である。五穀豊穣(ほうじよう)の神、そして産業全般の守り神とされている。
伊勢市の南、志摩市にある内宮の別宮、伊雑宮(いぎわのみや)では毎年六月二十四日に有名なお田植え祭りが行われる。そこで収穫した米は内宮に供える。しかも、この祭りには志摩地方の漁師たちも参加する。海の守り神の一面もあるのだ。
言うまでもなく農業、とりわけ稲作にとって、太陽は水とともに命の網だ。農業や漁業の豊かな営み、海の幸、山の事すべてを「おてんと天道様」に感謝する。伊勢信仰はそうした日本人の心象風景を投影したものだったのだろう。 だから、もともと皇室の祖神であるにもかかわらず、江戸時代に何度も「おかげ参り」という伊勢参拝ブームがおきた」日本人なら、「一生に一度はお伊勢参りを」と、庶民にとっても「聖地」になっていっだのである。
「宿屋仇」 「こぶ弁慶」など、旅ものといわれる上方落語では、伊勢神宮に参拝した帰りにコトが起きる。 戦後もそうだった。松本清張の小説『砂の器』では、五十歳を過ぎた岡山の元警官が「この年になってまだお伊勢さまに詣っていない」と関西旅行を兼ねて神宮を参拝、その後事件に巻き込まれる。
しかし今、参拝客の数は下降気味だという。 伊勢禅宮は内宮・外宮とも二十年ごとに社殿を隣の古殿地に移す 「遷宮(せんぐう)」を行う。神宮によれば、その年(次回は平成二十五年)には、話題性もあって年間八百万人を数えるが、普通の年は六百万人程度だそうだ。
内宮近くの「おかげ横丁」など観光スポットを訪ねても、参拝はしないという若者もいるらしい。
なにより修学旅行生が少なくなってきている。 昭和三十年代ぐらいまで、大阪の小学生にとって、修学旅行先は伊勢神宮と決まっているようなものだった。だが、大阪府教委によれば、今年度大阪市を除く大阪の小学校で、伊勢方面に修学旅行を行ったのはざっと二百五十校で、全体の三分の一程度だった。代わりに主流となっているのは、平和記念公薗などを見て「平和教育」を行う広島コースだという。しかし、伊勢神宮のあの森閑とした空間に一度身を置いてみれば、それだけで日本人の生き方や、文化を感じ取ることができる。「平和教育」に劣らず心を豊かにするように思えてならないのだが。(さらき よしひさ)
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