戦艦三笠


横須賀には、世界に誇るべき記念艦三笠があります。申すまでもなくこの記念艦は栄光の戦艦・三笠であります。日露風雲急を告げるころ、英国の西海岸にあるバーロー港のヴィッカーズ社で建造されたものです。進水は明治三十二年(1899年)。三笠は日露開戦と共に、連合艦隊司令長官・東郷平八郎大将の旗艦として、旅順要塞戦、黄海の海戦で活躍しました。特に明治三十八年(1905年)五月二十七日の日本海海戦では、三十八隻のバルチック艦隊のほとんどを爆破するという文字通り空前の大勝利を収めました。その後三笠は、大正十五年(昭和元年)(1926)以来、横須賀の白浜海岸に、記念艦として永久保存されていました。横須賀市は市制八十年を祈念して、三笠周辺の大改造を行い、「水と光と音の三笠公園」として再生させました。「三笠保存会」もその完成にあわせて、「日本海海戦八十周年記念行事を挙行しました。

三笠の屈辱時代
何という日本人は忘恩の国民なのだ。

戦い敗れると、ツシマの英雄トーゴーとミカサのことも忘れてしまったのか。

神聖なるミカサが丸裸となり、ダンス・ホールやアメリカ兵相手の映画館になったのを黙ってみているのか。

何たる日本人は無自覚であることか。


三笠が完成し(1899年)バーロー港を出てから五十七年目の昭和三十年の夏、氏は商用があって、七十五才の老体にもかかわらず、元気に来日しました。その時彼が再会の喜びに胸をおどらせながら、まず第一に訪れたのが、横須賀の三笠でした。しかし、そこで見た三笠は無残な姿に荒れ果てていたのでした。氏は憤然として帰り、直ちに一文を、ジャパン・タイムス紙に寄稿しました。それが上の文章です。

【ジョン・S・ルービン:イギリスの貿易商で、三笠がイギリスのバーロー・イン・ファーネス造船所で建造されていたとき、現地で宝石商、時計商を営んでいた人でした。三笠の乗組員が、この人の店を訪れてから親しくなり、ルービン氏もまた自分の住む町で三笠が造られたことに愛着と誇りを持つようになりました】
    
1905年(明治38)年5月27,28日の日露両艦隊による日
    本海海戦の結果に、欧米諸国は驚嘆した。英国の著名な戦史家
    H・W・ウィルソンは、次のように語った。
   
         ああ、これ何たる大勝利か、陸戦に於いても、海戦に於 いても、歴史上、未だかつて、このような完全な大勝利を  見たことがない。実にこの海戦は、トラファルガー海戦と 比較しても、その規模、遙かに大である。
       
     バルチック艦隊38隻の大陣容のうち、撃沈19、捕獲5、 逃走中の沈没・自爆・他国抑留10隻で、ロシア艦隊が失った    艦船合計34隻の排水量19万5162トン。日本側の沈没は水雷艇3隻255トンはその0.13%に過ぎなかった。
   
     ちょうど100年前のトラファルガー海戦が、それまで世界 海戦史上もっとも勝敗の際だったものだったが、ネルソン率い    るイギリス艦隊が沈没・または捕獲したのは、フランス・スペ イン艦隊33隻中22隻に過ぎず、また名提督ネルソンも戦死    している。「このような完全な大勝利を見たことがない」とい うウィルソンの言葉は決して誇張ではない。
   

     もう一つ、欧米を驚かせたのは、その大勝利が極東の開国したばかりの非白人小国によって達成された、ということである。    たとえば、アメリ新聞「ニューヨーク・サン」は、5月30日 の社説でこう述べた。

         日本艦隊がロシア艦隊を潰滅したことは、海軍史のみな らず世界史上例のない大偉業である。日本が鎖国をといた        のはわずか50年前であり、海軍らしい海軍を持ってから 10年にもたたぬのに、早くも世界一流の海軍国になった。

     横須賀市の三笠に関するホームページ
★★★★日本海軍を全滅させたニミッツ元帥の激励★★★★
「元帥は日露戦争直後東郷提督と会ったことがあり、以来東郷元帥を尊敬、東郷戦法によって日本帝国海軍を全滅させたといわれる米・太平洋艦隊司令官であります。そして日本敗戦後の九月二日、アメリカの全権の一人としてミズーリ艦上で、日本降伏受託書にサインした人物でもあります。彼は調印式が行われる前日、三笠がどんな様子になっているか、気になって自分自身でそれを確かめるため、横須賀に赴きました。その時のことを元帥はこう述べています

「管理人の話では、真鍮や銅の付属品は戦争中に軍需資材として、全部取り除かれたとのことだった。そのほかに歴史的価値ある部分がどさくさに持ち去られた跡もみられた。東郷元帥を尊敬するものの一人として、昔から有名なこの軍艦が、これ以上荒らされるべきでないと思い、私は米海兵隊に命じて歩哨を立て、三笠を破損したり、歴史的な物品を持ち去ることを防ぐことにした・・・・・」

「この有名な軍艦がダンスホールに使用されたとは嘆かわしい・・」

「どういう処置をとれと差し出がましいことは言えないが、日本国民と政府が全世界の海軍軍人に賞賛されている東郷提督の思い出をながらえるため、適切な方法を講ずることを希望する・・」

「この一文が原稿料に値するならば、その全額を東郷元帥記念保存基金に私の名で寄付させてほしい・・」
(昭和三十三年2月号文芸春秋「三笠と私」ニミッツ元帥の投稿文章から)


大東亜戦争におけるパラオのペリリュー島の攻防を指して書かれた碑です。パラオの父がお亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
碑をクリックするとパラオの父に会えます
これらに刺激されて、日本人の間にも三笠保存の動きが急速に盛り上がり、昭和三十三年十一月三笠保存会設立準備委員会の創立となりました。ニミッツは米海軍を督励して、横須賀にあった廃艦一隻を日本に譲渡し、スクラップにして得た金約三千万円を三笠の復元に充てさせました。かくして三十六年五月、復元は身を結びました。これが今見る「記念艦三笠」の姿であります

日本海海戦96周年記念式典
日露戦争における日本の歴史勝利を導いた記念艦「三笠」で27日、戦没者を追悼し、功績に思いをはせる「日本海海戦九六周年記念式典」が行われた。全国から約430人の参加者が集まり、海自横須賀総監部の福谷薫総監や在日米海軍司令部のハートウェル参謀長等も出席。同会の夏目晴雄会長は「三笠にはさまざまな時代の心がこもっている。その時代の精神に敬意を表する」とあいさつ。井上吉隆横須賀市助役も「この船で日本の豊かさを味わいつつ、当時をしのびたい」と話した。明治38年、ロシアのバルチック艦隊を発見した東郷平八郎元帥がZ旗を掲げ、士気を高めたという午後一時五十五分に、後甲板で祝宴が催され、参加者らはグラスを片手に、船に込められた旧海軍の気概に思いをはせた。(産経H.13.5.28)