第三章「神ながらの道」とは大自然の法則を知ること



神ながらは"宗源"である

神道を理解するためには、まず第一に「神ながら」を知らなければなりません。神ながらを知るということは、大宇宙から一微生物に至るまでの機構組織や万物造化生成神の元素、原理など、天地の理、万物回帰の大自然の法則を知ることです。

大宇宙より一微生物に至るまでの全体の認識・掌握なくして部分に専念することは重大な誤りを犯し、災いをもたらす結果となります。




世にある無数の宗教は宇宙人世(ひとよ)のすべてではなく、神ながらの中の一分野なのです。神ながらを知ってはじめて神道やその他の宗教の立場、役割というものが正しく認識でき、自覚することができるのです。また、これによってはじめて間違いのない天地の理、自然の法則に叶う宗教活動が可能になり、神道とその他の宗教との関係も明らかになるのです。

三千年の太古から我が日本民族は大自然を神とし、命の源として畏敬し、祀り続けてきました。神ながらとは大自然の姿、大自然の巡り、すなわち四季の運行そのものであり、大宇宙、小宇宙のすべての姿なのです。

それによって私たちは生かされているということを自覚することができます。つまり、その道を知ることが「神ながらの道」なのです。

地球上に住む人類は、それぞれの地域(国)で神ながらに生きようとするために安心立命を求めています。それが宗教です。神ながらはそうした宗教のすべてを含み、それを超えたものであり、一言でいえば「宗源=しゅうげん」なのです。諸々の宗教を包含していることはもちろん、科学的なもの、道徳的なもの、芸術的なもの等はすべて、この神ながらに源を発しています。

宗源とはその源のことなのです。言い換えれば、大宇宙、あるいは自然そのものを生成し、完全なものへと化成する真理・原理・道理が神ながらということです。神ながらも宗教も神を中心とすることに変わりはありません。

神ながらを知る方法としては、先にも述べましたように、まず、『古事記』を理解することが挙げられます。神ながらをわきまえ、しっかりと神道に立脚する者が真の神道人であり、これをわきまえない者は真の神道人ということはできません。

神道といっても今日では教派神道もありますが、ここで言っている神道とは「神社神道」を指しています。世界のあらゆる民族は、神ながらと直結した神道を自覚し、この道を踏み行っていくならば、天照大神の道として、この地上に平和が訪れるというものです。




常に受霊(うけひ)ができる準備をしておく

一時、欧米ではアルタイザーやハミルトン等の神学者によって、「神の死」が唱えられたことがありました。しかし、私たちは皆神の子であるという自覚に立ち、現在、刻々と神の御霊(みたま)が私たちの身体に働いていてくださっていることに気づけば、決してそのような説は生まれてはきません。

神は永遠の実在であることは明確であり、「神の死」などということは、私たちを含めた万物が破壊するときに限って言えることであって、こんなことはあり得ない仮説にすぎないのです。

天壌無窮の神勅のご精神が示しているように、この天地は永遠に続くものです。神はもちろんのこと、神ながらに目ざめた人格神の御霊(みたま)も私たちを守り導いてくださっているのです。

そして、その神ながらには対立というものがなく、神々はすべて空なのです。空であるということは、一言でいうならば不偏・無私・無一物中無尽蔵ということです。

例えば、天照大神の御名「天照」自体が空です。つまり、光というものはいかに充満していても、これを受けるものがなければ無に等しいわけです。

ある宇宙飛行士は「宇宙は暗かった」と報告しましたが、これは宇宙には光が充満していても、この光を受けるものがなけれぱ人間には暗闇にしか見えないことを示しています。

しかし百の光を欲する者には百の光を、千万無量の光を欲する者には千万無量の光を与え、照らし、輝かし、導き育てるのが光の働きなのです。この際、相手に関して選り好みをしたり、差別をつけたりすることはなく、公平無私なのです。これを神ながらでは「受霊(うけひ)」といいます。


この光と同じように、神もまた万有が欲すれば、いかなるものにも至公至平に、いつでも、どこでも、いかほどでも教え導き、育てはぐくむ準備ができています。

しかし、欲しなければ、いつまでもそのまま放置して、本人みずからが気づき、みずから奮い立つまで待つのです。したがって、人は常に受霊のできるようにしておかなければなりません。

この受霊を邪魔するものが罪・咎(とが)・穢れ・因縁等であり、これを祓い清めるために神詞・真言、あるいは「大祓」「身滌大祓」「十種布留部祓」を唱えたり、みそぎ修法を行じることが大切になってくるのです。それはまた各種宗教者の使命でもあります。

みそぎ修法を行い、神詞・真言を唱え、祓い清めることによって、万有自身も空になるということであり、空になれば現人神(あらひとがみ)となるのです。

神はまったく空であるからこそ、最も新しいものになることができるのです。




神道の教義は大自然の法則そのもの

神道は難解な理屈を必要としません。先にも述べましたように、天津神々の仕組みである神代七代十五神の教えを天津宮事(あまつみやごと)といいますが、使命をもって生きている私たち人間が、常にこの天津宮事を実行・実践し、踏み行うことを国津宮事(くにつみやごと)といいます。

簡単に言うならば、これが神道なのです。すなわち「神ながらの道」であり、常に大自然の法則に従い、四季の運行に従い、明るく、清く、直く、正しく、大らかに、光と熱と愛の気をもって一瞬の休みなく、巡り、まろび、運んでいくものなのです。

この神ながらの道の「タテの結び」を主体とし、神ながらの天津宮事をそのままに、素直に間違いなく国津宮事として受け継いでいくのが神道ですから、神道では大自然そのものが教義であり、教典であり、その他、難解な教典は一切必要としないのです。

人間が作った宗教では、種々様々な格付けをしたり、威厳をもたせるために難解長文の理論や複雑な道具立てを必要としますが神道は人間が作ったものではないので、他の真似をする必要がないのです。

もし、どうしても神ながらを説きたいというならば、神道の立場から神ながらを説くことが本筋ではないでしょうか。


それなのに近年、神道について説くにあたり、神ながらを度外視して仏教や儒教・キリスト教の教典から引用したり、これらを混清したような理論を打ち出しているものが目立ちます。しかし神ながらの真髄からかけ離れたものは神道ではなく、これは神道の本質をわきまえない者の論議といえましょう。

御霊も神です。ゆえに神は数多く実在し、各々使命.御神徳をもってお働きになっておられます。「神は地球上を神の台として、その上に生きる一切万有をいかなる目的で、いかなる理想をもってお生みになったものであるか。また神はいかなる段階を経て、いかなる機構.組織をもって造化と生成を行っておられるのか、それぞれの神々はいかなる使命を分担して、一瞬の休みもなくお働きになっておられるのか。神は一体いかなることを私たち人間に期待しておられるのか一…」

このように神と人について真剣に考えるとき、神の限りない深い慈愛を感じ、人はまた神の創造物ではなく、神から生まれた神の子であるという自覚を得、神と万物は真の親と子の関係にあることを確信することでしょう。


こうした神ながらを説いたものが、何千年も以前に書かれた神典の『古事記』『日本書紀」「大祓詞」「身滌大祓」等であり、また時代は遅れますが「十種大祓」「十種神宝」「ひふみ祝詞」その他、ごくわずかながら伝わっています。参考書神話は面白い

しかし、神ながらの道が神道に伝わったとはいえ、これは決して日本だけのものではなく、全世界人類のためのものです。したがって、それを正しく理解し、全世界の人々に知らせることが日本人としての責務といえます。


神道は敬神崇祖と共存共栄を主体とした道

今や科学の発達はまさに驚嘆すべきものがあり、月旅行をはじめ、宇宙基地を作ることさえ実現可能にしてきました。それなのに、この科学文明の時代に世界各国に戦争の暗黒が渦巻き、現に今も戦争が行われているのはなぜでしょうか。

その原因は精神文明の欠如にあります。その欠如を補うために世界の宗教者は国際自由宗教連盟(IARF)、世界宗教者平和会議(WCRP)等の平和運動の組織を通して、宗教者としての使命に向けて鋭意努力しています。

そしてまた、幸いにも万象万有を生成.造化・化育された宇宙の大霊(たいれい・おおみたま)は神道によって国を建て、今日までその伝統を守ってきた日本人に神ながらを説く力を賜わったのです。

神道は神ながらの「タテの結び(敬神崇祖)」と「ヨコの結び(共存共栄)」を主体とした道なのです。

神道の特徴は、太古の昔から神ながらをそのままに、祭式、作法、その他一切のしきたり、憤習について、その一つひとつの意義を真面目に守り続けてきたことにあります。

おそらく太古には神道という名称も意識もなかったことと思われますが、祖先が踏み行ってきた慣習であり、人倫の道でもあったのです。

袖道という言葉や音議は、日本の国に仏教や儒教その他の宗教が渡来するに従って、それまで神事に関係してきた人たちが外来の宗教に対して作ったり、生まれてきたものであります。


神道者の中には仏教や他の宗教を批判したり、敵視したりする者もままいましたが、これは神道と他の宗教との使命・役割の差異を知らず、また神ながらをわきまえない者の言であって、真の神道者のそれではありません。



          外国人の神道観

サンマリノ神社
・・・神道の精神を世界へ知らせよう・・・・・・・・・。

ここに外国人から見た神道観をいくつかご紹介しましょう。彼らは外国で生まれ育った人たちですが、実に的確に神道の本質を捉えています。彼らの言葉の中に、神道が全世界人類のためのものであることを確認していただけると思います。

J・W・T・メーソン(アメリ力の思想家)

「日本人は外来の文化思想を理解し、かつそれを表現する能力においては、他国の何者の追随をも許さぬほどすぐれたものをもっているが、自国の思想の神道についてはまったく自覚もしなければ表現も実に拙劣である。

日本人は好んで仏教教義の深遠さを説き、儒教の優秀性や西洋科学の卓越性を讃えるが、神道のほうが仏教よりもはるかに優れた精神的原理を有し、儒教よりも内面的見解においてはるかに深遠であり、また西洋文明よりも一層物質的進歩と精神的理想主義とを調和せしめる力をもっていることに気づいていない。

原子科学が出現し、キリスト教、イスラム教はいずれもその教義に矛盾を生じて動揺を続けているが、独り神道のみこれに裏付けられ、ますますもって光を放っている。

さらに日本人が神道を自覚し表現することができれば、世界三大宗教を革命せずにはおかないことは明らかである。

もし日本人が潜在意識的直感をもって、しかも同時に自覚的表現的分析力を発揮せしめ得るならば日本文化は未だかつて他民族の企て及ばざりし高所に達するであろう。

アルバート・アインシュタイン博士(物理学者.ユダヤ系アメリカ人)

「近代日本の発達ほど、世界を驚かせたものはない。この驚異的な発展には、他の国と異なる何ものかがなくてはならないが、果たせるかな、この国の三千年の歴史がそれであった。

この長い歴史を通じて一系の天皇をいただいているということが、今日の日本をあらしめたのである。

私はこのような尊い国が世界に一ヵ所なくてはならないと考えていた。なぜなら世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か戦いは繰り返されて、最後には戦しに疲れるときが来る。

そのとき、人類はまことの平和を求めて世界的な盟主を挙げねばならない。この世界の盟主になるものは武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き越えた最も古く、また尊い家柄でなくてはならぬ。

世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。

われわれは神に感謝する、日本という尊い国を創っておいてくれたことを・・・・」



ピトリム.工・ソロキン(ハ人一ド大学教授・ロシァ系アメリ力人)

「日本は敗戦した。有史以来、最初の敗戦であるが、日本はこれくらいの敗戦の打撃で滅国するようなことは万が一にもあり得ない。彼らはこれ以上の苦しみを経験して来ている国であり、この新たな苦しみの中から偉大な日本の起ち上がりがあるであろうことは期待される。

日本が敗戦の打撃によって打ちのめされていることを幸いとし、これに加えるに圧迫と強圧をもって臨み、ついにはこれを壊滅せしめんとする国が勝利国の中にあるとすれば、世界の動乱はこのことより不絶となるであろう。

なぜなら日本は太平洋とアジア大陸の中問に位し、世界を平和にするか、または戦乱に導くか、一に日本の動向に世界,の運命がかけられているからだ。

日本は世界を平和にするか、戦乱にするかのボタンであって、右に押せば平和となり、左に押せば戦乱となる。まさに平和と戦争を決し、世界の運命を分かつボタンである。

もし、世界に平和をもたらさんとするならば、必ず日本を自由と可能的無限において繁栄に導かねばならぬ」

 ◆ポール・リシャル(フランス人)


            
「独り自由を失わざりし亜細亜唯一の民!
         汝こそ自由を亜細亜に与ふべきものなれ
         かつて他国に隷属せざりし世界唯一の民


           
一切の世の隷属の民のために起つは汝の任なり
        かつて滅びざりし唯一の民!
    一切の
人類幸福の敵を亡ぼすは汝の使命なり

        
  新しき科学と旧き智慧と、
欧羅巴の思想と亜細亜の精神とを自己の衷に統一せる唯一の民
        これら二つの世界来るべき世の


        
これら両部を統合するのは汝の任なり
        流血の跡なき宗教を有てる唯一の民!
        一切の神々を統一して、


        
さらに神聖なる真理を発揮するは汝なるべし
        建国以来一系の天皇、
        永遠にわたる一人の
天皇を奉戴せる唯一の民

        
汝は地上の万国に向かって、
        人は皆一天の子にして、
天を永遠の君主とする
     一個の帝国を建設すべきことを教えんがために生まれたり


        万国に
優れて統一ある民
        汝は来るべき一切の統一に貢献せんために生まれ
また汝は戦士なれば、
人類の平和を促さんために生まれたり

        
汝の国に七つの栄誉あり
        ゆえにまた七つの
大業あり、
        さらば聴け、その七つの栄誉と七つの
使命とを」

バーナード・リーチ(イギリスの美術家)

「日本にはあらゆるものがあるが"日本"がない。また、今世界で最も反日的国民は日本人である。戦後の日本人は神道および天皇を見失っている」

ガブリエル.マルセル(フランスの実存主義哲学者)

「人生の第一義は中心である。中心が定まれば第二義、第三義はみずから定まるものである。神道は日本の生命であり、天皇は国民の中心である」

アーノルド.トインビー博士(英国の歴史学者)

トインビー博士は当初、日本文化思想は中国の亜流であって、独自の思想はない。ただ神道はローマと同じく寛容にして寛大である」といっていましたが、後に神道を研究し、神道は教祖の創った宗教ではなく、宇宙の理法法則を宗道とする教義であることを知りました。

一九六八年に渡日し、伊勢神宮を参拝した際、「この聖域にすべての宗教の本源がある、と私は思う」と記帳せられたのです。

[注]トインビー博士は一九六八年、伊勢神宮に参拝されています。




「Here, in this holy place, I feel the underlying unity of all religions.」
 
は、博士が、ものの十秒ほど、しずかに息をととのえられたのち、やおら毛筆をおろされるや、いささかのよどみもなく綴られたものであります。 博士は宇治橋から退出するまでの間、左手あるいは右手へ持ちかえられる事はあっても、ついに一度もお帽子をかむられませんでした。

 敬虔な態度を終始くずされなかったその姿は、観察者としてのそれではない。「神を追い求めてやまない」歴史家の求道的態度から、「聖地の中の聖地」と感じとられた伊勢神宮の神域での、いわば宗教体験の告白である。それが神楽殿の記帳簿に残る揮竜に結晶したものであると私はとる。
「私は、ここ、聖地にあって、諸宗教の根源的統一性を感じます」と訳せる、この一文をめぐって縷々思いをめぐらさずにはおられない。
(情報源:人間と文明の行方 日本評論社 トインビー100年記念論集 P-250〜)





宗教は「救い」、神道は「道」

日本という国は建国以来、宗教戦争というものがありません。その理由は日本の神道には教祖・教義・戒律がなく、大自然が教祖・教義・戒律であることから、「神ながらの道」を実践してきた国柄だからです。

キリスト教は「愛」を説く宗教ですが、日本の神道は「調和」を目指すものであって、宗教ではありません。

また宗教は「救い」を宗としますが、神道は人類として踏み行わなければならない「道」ですから、その教えの中には当然すべての救いがあります。ゆえに、「神ながらの道」がいかに人類の平和に役立つものであるかは誰の目にも明らかです。

人類の長い歴史を見れば明らかなように、残念ながら「救い」(宗教)というのは必ず争いを起こします。

たとえば A、B、Cという三人の人間がいて、AがBに「私はパンがなくて死にそうだ。パンをください」と訴えたとします。するとBは、「残念だが、私もあなたにあげるだけのパンはもっていない。だが、CがもっているのでCのところに行ってもらってあげよう」と言って、Cのところに行って、「Aが死にそうだからパンをやってくれ」と頼みます。

Cが「パンをもっているが、お金をくれなければあげられない」と答えると、それに対してBが、「Aが死んでもいいのか」と言って、力づくでCからパンを奪い取ってAに与えます。

パンをもらったAは、「ありがとう、あなたは神だ」とBに感謝します。BがCにしたことは明らかに道にはずれた行為であり、人間が犯すべき行為ではありません。

しかしAにとっては、ありがたいことであり、感謝すべきことなのです。これが「救い」であり、「宗教」なのです。

こんな単純な例からもわかるように、宗教(救い)では争いが起こります。しかし神道(道)はA、B、Cのすべてが納得していける方法であり、争いはありません。

したがって、人類の誰もが理解できる普遍的にして寛容な「神ながらの道」を実践することによって、真の平和が実現できると信じています。これが私の結論でもあります。

平成十三年九月十一日にアメリカで起きた同時多発テロの原因も、元をただせば宗教の
問題にたどり着きます。つまり排他的な一神教の教義を信奉する人たちの間で、意志の疎
通が欠けていたことに原因があると思うのです。

それが中東問題に、パレスチナ問題にまで伸展しているのです。ということは、旧約聖書の時代から引きずってきた宗教問題が解決しない限り、この地球上から戦争の火種が消えることはないということになります。

それに比べて、どの宗教とも共存共栄ができる神道は平和そのものといえます。世界のすべての人々が、少なくとも日本人全員がそのことに思いを致さなければならないと思います。

ところが現在は、日本の宗教界の中でも互いに相手を攻撃し合っている始末。まことに憂慮すべきことです。

「救い」である宗教は、その成立過程において、時代背景や人間の生活上の要求によって、その地域に適した安心立命を与えてきましたが、一つの宗教が全人類を救うことはできません。じかしながら、その宗教が「神ながらの道」を自覚し、「神ながらの道」に目覚め、理解していれば、その宗教は栄えていく
ことでしょう。

日本の神社神道から「地球神道」へ

世界宗教者平和会議(WCRP)は・昭和四十五年に日本で初めて第一回大会が京都国際会議場で開かれました。これは、日本でなければ開くことができなかった会議です。その理由は日本民族が「神ながらの道」を理解し、日本の各宗教者がお互いに対話し、相互理解ができていたからです。

このWCRPは五年毎に開かれていますが、第二回はアメリカ、第三回ドイツ、第四回オーストラリア、第五回ローマ・バチカン、第六回アフリカ・ケニア、そして第七回が今回はじめてアラブの国で開催されました。

平成十一年七月五日、米国のクリントン大統領は、イスラエル国エルサレムの聖地におけるユダヤ教、キリスト教、イスラム教の各宗教紛争の仲介をしていましたが、その解決が不調和に終わり、会議を中止してそのまま沖縄サミットに参加したとの報道がありました。

宗教同士の対話はなぜ難しいのでしょうか。
二十一世紀を迎えた今、六十三億人にのぼる地球上の人類がお互いに自国の宗教の教義を超えて共存し、地球をしっかりと守らねばならないときが到来しているのです。

科学の飛躍的な進歩と宗教のエゴが増大している現在、神の思いに反して地球の破滅を招くか、光り輝く二十一世紀とするか、地球上に住む全人類にその選択が迫られています。もちろん、地球の破滅を望む人は一人もいません。


そうであるならば、地球上のすべての人々が
新たなる祈りを捧げながら・「神ながらの道」を理解し、対話の実践に努めねばならない
と思うのです。

先にも述べましたが、神ながらの道が神道に伝わったとはいえ、これは決して日本だけのものではありません。地球上に住む全人類のためのものです。そこで私はこの神道を「地球神道」としてここに高らかに宣言したいと思います。

神社神道は今や地球規模で
受け容れられていくべきときを迎えたと信じています。いよいよ寛容と普遍性のある神社神道の出番がやってきました。神職である私は人々の心に神を知らせる使命を、全うしたいと思っています。




地球村の創設を目指して

二十一世紀を迎えた今、その使命について思うとき、私は次のように考えます。IT産業の飛躍的な発展で、高度情報化社会を迎えた現在、世界の片隅で起きたことが瞬時に世界各地に伝わるようになり、地球はもはや一つの"村"とも言えるようになりました。

そのたった一つの村に住む私たち住人は、互いに理解し合い、人権を尊重し、共存共栄の道を探さなくてはなりません。そのためには国境や民族、宗教、風俗・習慣等の違いを超えて、対話を重ねることが必要不可欠であります。

宇宙にたった一つしかない、地球という惑星に住む私たちは、力を合わせ、心を一つにして"地球村"の建設にあたらなけれぱなりません。それが神から人類に課せられた使命なのです。

一つの村に住む六十数億の人問が、共に生きることに喜びを感じ、働くことに幸せを感じるような、そんな住みやすい村作りです。

村作りに励むとき、宗教はすばらしい力を発揮するものです。その地域ごとに地域に応じた宗教が発達していくと、人々は自分の地域の宗教によって安心立命を得ることができるので、本当の意味での救いになるからです。

しかし、現在の地球には二つの大きな政治的・宗教的対立があり、さらに貧富の差も広がるばかりです。ここに今後の重大な課題があります。

宗教と政治経済の問題は、充分に研究し、討論を重ね、慎重に意志の疎通を図っていかなければならない問題です。


一つ言えることは、宗教を統一してしまうようなことは断じてあってはならないということです。それは不可能なことです。世界各地に発達した宗教は、その地域の状況に応じて生まれてきたものであり、その地域の人々の生き方にふさわしいものなのです。立地条件によって異なっていることが、むしろ自然なのです。

大事なのは・宗教同士が話し合いの場をもつことです。異なる宗教であっても常に親密なコミュミケーションをもちながら意志の疎通を図り、その中で共通する部分や共有できる思想をもち寄って、究極的には人類の恒久平和への志を一つに結実させることです。

それは可能なことだと私は思っています。なぜなら、私たちは対立し傷つけ合つことの愚かしさを充分に知っているからです。

それにもかかわらず現在も地球の各地で、宗教の違いによる戦争や紛争が続いています。自分たちが信じる神以外は認めようとしないところに戦争の火種はあります。






      
戦争を起こすのも人間で、幸せを作るのも人間・・・(ウランバートル・コンチクムムラ音楽学校生徒の招聘の旅一行歓迎の歌・・遠藤実曲


人類の歴史を通して繰り返されてきた宗教戦争の悲惨な状態が、二十一世紀迎えた現在もなお続いていることに深い憂慮の念を覚えざるをえません。

過去の失敗を反省し、それを教訓にして現在に、そして未来に生かす英知を人類はもって生まれてきているはずです。

すべての人が神の子であり、神から神の魂を分けてもらって生まれているのですから、その神の子同士が憎みあい命を奪いあうといyことは、まさに神の心にそむくことにほかなりません。

今や当時の原子爆弾とは比べものにならないほどの殺傷力・破壊力をもつ兵器が開発されており、実際に湾岸戦争や今回のアフガニスタンでの戦争にも用いられてきました。

核兵器を含め、それらの兵器は、地球の生態圏を破壊し、人類をはじめすべての動植物を滅亡の危機にさらすものです。

私たち日本人は、第二次世界大戦を丸四年間も経験し、多くの尊い命を奪い、荒涼とした焼け野原を作りだす戦争の恐ろしさ、愚かさを骨の髄まで知らされてきた民族です。

さらには原子爆弾を投下されるという、人類がかつて経験したことのない兵器の威力も体験させられてきました。


その私たち日本人こそが、声を大にして、戦争の悲惨さを訴え、世界平和を呼びかけ、「地球神道」の意識に立脚して、ともに"地球村の創設"というすばらしい構想を世界の人々に向けて示していくときではないでしょうか。

悲惨で不毛な戦争を、身をもって体験した私は、私に残された全生命をかけて、このように訴えたいと思います。そして私の全霊をもって世界平和を祈念し、全身をそのために捧げてまいりました。・・・・
参考:IARF



こうした私の思いや行動のよりどころでもあります神社神道の理念は、次のような敬神生活の綱領にあるものです。

 一,神の恵みと祖先の恩とに感謝し,明き清きまことをもって祭祀にいそしむこと
 一,世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと
 一、大御心をいただきて睦み和らぎ、国の隆昌と世界の共存共栄とを祈ること

 これら神社神道の基本に基づき、世界の人々の、"心の神"と対話を重ねられたとき、世
界の恒久平和が実現されるものと私は確信しています。

 「人間の魂の中に神性が内在しているという認識、それが相互理解となる」これはアメリカのユニテリアン協会会長のウイリアム・シュルツ氏の言葉ですが、これこそ言うまでもなく日本神道の、いや地球神道の神の観念にほかなりません。





HUMOR・寛容・愛・調和=地球平和
(イラスト長岡秀星氏作品・許諾済み)